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6月 ひとり


 受験勉強が始まって二ヶ月が経った。


 四人の家庭教師は本当に時間を作って僕の勉強を見てくれていた。日曜日で小学校が休みの今日は、柏木が朝から我が家に来ていた。


「失礼するね」ノックの後で、優里が部屋に入ってくる。手にはお盆があった。「あまり根を詰めても良くないから、二人ともケーキでも食べて少し休んで」


「あらまぁ奥さん、お気づかいなく」柏木が戯けて言う。「ってこれ、高級店のケーキじゃない。なんだか悪いねぇ」


「これくらいなんでもないって。休日返上で悠介のために来てくれてるんだから」

 優里はやけに時間をかけてケーキを給仕すると、やけに時間をかけて汚れてもいないテーブルを拭き、やけに時間をかけて退室した。

 

 柏木はケーキを頬張り、くすくす笑う。

「まだ二時間しか経ってないのに、これで差し入れ三回目だよ? 優里、あたしと悠介が二人きりでいることが気が気じゃないんだね。表向きは差し入れだけど、これじゃ実態は監視だよ」

 

 僕は苦笑するしかない。

「おまえが来た日の夜はいつもしつこく問いただされるよ。晴香とは何もなかったんでしょうね、って。まったく、奥さんと娘がいる家で手を出すわけないだろ」


「悠介が手を出さなくても、あたしが手を出すかもよ?」

 

 僕は慌ててドアの方を振り返った。「優里が聞き耳を立てていたらどうするんだよ」


「冗談はさておき」と柏木は悪びれるでもなく言った。「優里との夫婦生活はどう? うまくいってる?」

「まぁ、ぼちぼちだよ」


「離婚の危機みたいなことはなかったわけ?」

「結婚して十年も一緒に暮らしていれば、そりゃいさかいは何回かあったけど、そこまでの話には発展しなかったな」


「へぇ、どんないさかい?」

「なんでそんなに食い付いてくるんだよ」


「それくらい教えなさいよ。こちとら無給で来てやってんのよ」

 

 僕はため息をついた。

「まぁ、たいていは優里が俺の浮気を疑うことから始まる。ほら、優里は昔から嫉妬深いから。俺がちょっとでも他の女と親しくするとすぐにヘソを曲げるんだ。浮気なんかしないって。なんで信じてくれないんだろう?」


「どの口が言ってる?」と柏木は僕の口元を摘まんで言った。「そりゃあ心配にもなるっての。優里を選ぶのに三年かかった男なんだから。ねぇ、神沢君?」

 

 そこを突かれると何も言い返せない。柏木は口から手を離すと、そのままその手をひらひらさせた。

「ところで悠介。あたしの手を見て、何か思うことはない?」

 

 彼女の左手の薬指には、誰かと愛を誓った証がなかった。どうやら恋愛事情を聞いてほしいらしい。僕としてもまぁ本音を言えば興味がないわけじゃない。それでそのことを尋ねてみた。


「それがねぇ」と柏木は言った。「なかなかビビッと来る男がいないのよねぇ。向こうからアプローチされてゴハンを食べに行ったりもするけど、なんか違うなぁって人ばっかりで。そんなわけで柏木晴香、30歳目前にして独身です」

 

 それを聞いてほっと安堵している自分がいた。もちろん顔には出さないよう、細心の注意を払う。あらためて柏木の容貌を見る。もぎたての巨峰みたいな大きくみずみずしい瞳は健在だ。鼻はすっと通り、ケアを怠っていないのか、肌の質感はまったく衰えていない。国宝級のスタイルも維持できている。昔も今も(きっと十年後も)柏木晴香は腰が抜けるくらいの美人だ。

「なんだかもったいないな。おまえなら言い寄ってくる男は多いだろ?」

 

 彼女は指を一本ずつ折って何かを数える。

「この三年間だけでも開業医、パイロット、IT企業の若社長、弁護士、会計士を振っちゃった。あ、大地主の息子もいたっけ。この街の経済界に悪影響を与えてないといいんだけど」

 

 この女の場合、あながちあり得ない話でもないから怖い。そこで僕はふと、花見の時に彼女が話していたことを思い出した。

「でもよかったよ。何事もなく過ごしているようで。四月に言ってたよな。教師の仕事は天職だ、やりがいを感じてるって」

 

 それを聞くと彼女はなぜか苦笑いを口元に浮かべた。

「たしかに仕事に不満はないんだけね……」


「なにか他に問題があるのか?」

「問題っていうと大袈裟かもしれないけど、あたし、結局今も()()()なのよ」

 

 僕は黙って耳を澄ました。


「悠介もよく知ってるとおり、あたしが小学生の時に母親が他界して、高二の時にバカ親父も病気で逝った。姉妹兄弟もいなければ祖母祖父もいない。唯一の家族だったいずみ叔母さんは十年前に子どもを産んで今はシングルマザーとしてその子を育ててる。仕事をしてる時はね、いいの。忙しくて余計なことを考えている暇なんてないから。でも家に帰ってネットでたいした興味もない動画を見たりなんかしていると、ふと思うの。『あ、あたしひとりだ』って。それでね、部屋の四方の壁が狭まってきて押し潰されそうな錯覚に陥るの。そういう感覚、悠介はわかる?」


「まぁわかるよ」独り身に関しては僕もちょっとしたプロだった。


「孤独っていうのがさ、高校時代あたしが克服すべきものの一つだったでしょう? 結局それは今になっても解消できてないんだよね。そういう意味では、あたしにとっても忘れ物があるってことだ」

 

 忘れ物、と僕は机の上の参考書を見て繰り返した。


「花見の時は、こんなこと正直に言えないじゃない? 虚勢を張ってでも『今は幸せ』、『充実した日々を送ってる』ってことにしておかないと。みんなの前だもの。特に優里の前ではね」


「やっぱり良い男を見つけて所帯を持つしかないんじゃないか?」


「だからビビッと来る男がいないんだって」そこで柏木は僕の顔をまじまじと見た。そして目を瞬いた。「ビビッと来た! ねぇ悠介、あたしと一からやり直そうよ。あたしとならぼちぼちどころかばっちりな夫婦生活を送れるから!」


「よせって! 優里が聞いてたらどうするんだよ」


「なんてね」と柏木は言って悪戯っぽく笑った。「冗談だって。小学校の先生が略奪婚なんてしたら方々からさんざん叩かれるっての」


「昔からだけどな、おまえの冗談は冗談に聞こえないんだよ」


「さぁ、そろそろお勉強を再開しましょ。忘れ物を取り戻すために」

 

 十年前の問題を克服できていないのは、どうやら僕だけじゃなかったようだ。花見の時は誰もおくびにも出していなかったが、他の三人にもあるのだろうか、忘れ物。

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