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4月(後) 忘れ物


「悠介」と優里はあらたまって僕の名を呼んだ。そして言った。「大学に行くっていう夢。それから獣医さんになるっていう夢。叶えなくていいの?」


 職業なし・専業主夫。それが28歳現時点での僕の社会的肩書きだった。


「いいんだって」と僕は苦笑いして言った。「ちょうど俺の番だから答え合わせといこう。獣医学部への進学資金として蓄えていた金を柏木の手術代に充てた俺は、優里の親父さん――タカセヤ社長の運転手として働きながら、受験勉強を続けた。でもなかなか受からなかった。運転手兼浪人生活が四年目に入った時、優里の妊娠がわかった。俺たちの子どもは元気に産まれてきてくれた。それがこの子、愛だ。優里は鳴大を卒業して校正家として活躍。優里が仕事で多忙となると、愛の面倒は俺がみなきゃいけない。それで運転手の仕事も受験勉強もやめて家事と育児に専念するようになった。愛は病気一つせず健康にすくすく育っているし、優里は業界じゃ知らない人のいない有名人だ。たしかに俺の夢は叶わなかったけど、間違いなく幸せだよ」

 

 僕は缶に半分近く残っていたビールを一気に飲み干した。それからみんなにも酒を飲むよう勧めた。でも誰もなにも飲まなかった。なにも食べなかった。そしてなにも喋らなかった。しばらく沈黙があった。そのあいだ、僕を除く四人は目でなにかを語り合っていた。それが終わると柏木が口火を切った。

「悠介、これから一年かけて一所懸命勉強して、来年また獣医学部を受けなさい」


「はぁ?」僕は頓狂な声を出す。「本気で言ってるのか?」


「本気も本気だ」と太陽がすかさず答えた。「思い返せば、高校時代に五人の中でいちばん進学に対して情熱を燃やしていたのは悠介、おまえさんじゃねぇか。その悠介だけが大学に行ってないなんて、オレたちにとっても大きな心残りなんだよ」

 

 月島も続く。「今でも獣医さんになりたいっていう気持ちは消えてないんでしょ?」

 

 たしかに消えていなかった。でもこれは僕の一存で決められることじゃなかった。

 僕は妻の顔を見やった。「優里もみんなと同じ考えなのか?」

 

 彼女は少し考えてから口を開いた。「悠介には話してなかったけどね、実は私、出版社の人からこんなことを言われていたの。最近はAIの進歩がめまぐるしい。そう遠くない将来、おそらく校正のような仕事はAIにとって代わられる。それは翻訳もそうだ。だから他の稼ぎ口を今から探しておいた方がいい、って。獣医さんはAIにはできない仕事だよね? 悠介ががんばるなら、私、応援するよ」

 

 僕は受験に再度挑む自分を想像してみた。当然のことながら現実的な問題がいくつかあった。

「高校時代と同じようなことを言うけど、もし来年合格したとしても六年間獣医学部に通うには、資金がちょっと不安なんだよな」

 

 それを聞くと何を思ったか柏木は持ってきたバッグを手に取り、中から何かを取りだした。そしてそれを僕の前に豪快に置いた。なんとそれは札束だった。


「悠介があたしの手術代に充てたお金。全額返す。大学時代からバイトしたりしてこつこつ貯めてたの。遠慮せず今度こそ獣医になるために使って。あたしのせいで悠介の夢が叶わないなんて、死んでも死にきれないから」

 

 普通現ナマを持ってくるかね、という所感はさておき、他にも乗り越えるべき壁はあった。

「受験勉強から離れて今年で六年になる。十代だった高校時代ほど頭は柔軟じゃないし、一人で家で勉強してそのブランクを埋められるかわからないし、それになにより予備校に通おうにもこの地方都市じゃまともなところはない。一年で受かるのは簡単じゃないぞ」

 

 四人は再び顔を見合わせた。そして再び目で何かを語り合った。


「悠介のために一肌脱ぐか」と太陽が代表して言った。「悠介、オレたちが家庭教師になってやる」

「家庭教師!?」

 

 太陽はうなずく。「理数系科目はオレに任せとけ。なんせ入試前も医大に受かってからも死に物狂いで勉強してきたからな。勉強法も知識もバッチリ伝授してやる」


「社会系科目はこの私が受け持とう」と区議会議員が続いた。「なにしろ今の私は社会のルールを作る側だからね。政治経済はお手の物さ」


「でも月島」と僕は言った。「普段は東京にいるのに、どうやって家庭教師をするんだよ?」


「キミの頭の中は寺子屋の時代で止まっているのか? インターネッツというものがこの現代にはあるだろ。ネット回線さえあればなんとでもなる」


「私はもちろん英語担当だね」と優里が満を持して言った。「鳴大英米文学科卒、翻訳家志望だもの」

 

 柏木は胸を張る。「それじゃあたしは国語を担おうかしらねぇ。もう合格は同然よ、悠介。なにせあたしは現役の教師なんだから。教えることにかけてはプロ。大船に乗ったつもりでいなさい!」

 

 高校時代は“ほとぼり”を“はとばり”だと勘違いしていた女にまさか国語を教わることになるとは。人生はなにが起こるかわからない。


「太陽は理数系科目、月島は社会系科目、優里は英語、柏木は国語。みんなそれぞれの道のプロだもんな。しっかし、うまいことばらけたなぁ」


「な」太陽はさわやかに笑う。「まるで悠介を受からせるために誰かが仕組んだみたいだ」

 

 松任谷先生だったりして、と柏木が言ってみんなも笑った。

 

 ふいに隣の愛と目が合う。最後の壁は、この子の存在だ。

「愛の育児はどうする? 小学校に通ってるとはいえ、まだ一年生だ。受験勉強に専念するとなれば、今までみたいにつきっきりで面倒を見られなくなる」

 

 そこで思いがけない人物が口を開いた。日比野さんだ。

「神沢さん。私の高校時代の夢、なんだったか覚えてます?」

 

 僕は唯の世話を甲斐甲斐しくしてくれた彼女を思い出した。

「たしか保育園の先生だったよね。子どもが好きで」


「はい。私でよかったら、頼ってください。陽ちゃんがお医者さんを目指すようになったのは、神沢さんの影響もあったと聞きました。私としても、なんらかの形で恩返ししたいんです」


「愛はどうだ?」と僕は娘に尋ねた。「向こう一年、ちょっと寂しい思いをすることになるかもしれないけど、それでもいいかな?」


「大丈夫だよ!」愛は芯の通った声で言う。「お父さんの昔話を聞いていたから、お父さんがどれだけ大学に行きたがっていたか、どれだけ獣医さんになりたがっていたか、わたしはよくわかってるもん。それにお父さんが獣医さんだとお友達に自慢できるし、うん、応援する!」


「決まりだな」と太陽が言った。どうやら僕は腹を決めなきゃいけないみたいだ。


「わかったよ! やってやろうじゃないか! 言われてみりゃたしかに“忘れ物”だ! みんなの力を借りて、来年の鳴大獣医学部の合格を目指す!」

 

 全員の顔がやっとほころぶ。拍手も起こる。でもどういうわけか優里だけはどことなく不安そうに眉を下げた。そして言った。

「ねぇ晴香。晴香もリモートで家庭教師をするの?」

 

 柏木は大きく手を振った。「いやいや。あたしは月島と違ってこの街で暮らしてるんだから、この家に来るよ。まさに家庭教師ね」


「そ、そう……」とつぶやいた優里の視線の先には柏木の左手がある。そこの薬指には何もはまっていなかった。僕の妻はいったい何を心配しているというのか。

 

 まぁとにかく、こうして僕の忘れ物を取り戻す一年の冒険は幕を開けた。

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