第118話 この物語はこれで終わりじゃない 5
「さよならを、言いに来た」と俺は毅然と背筋を伸ばし、真剣な顔で告げた。
高瀬は何を言っているのかわからない、というようにすっかり固まってしまった。それでも俺は態度を変えなかった。けわしい表情を崩さなかった。
しばらくすると彼女はやっと言葉の意味を理解したらしく、ため息をついた。そして口を開いた。
「ちょっと待って。え? だって神沢君は、月島さんにも晴香にも、『さよなら』を言ってきたんでしょう?」
言ってきた。俺はそれを認めた。
「ということは神沢君が出した答えは――」と高瀬は考えてから言った。「私たち三人のうち、誰ともいっしょに生きていかないってこと?」
俺は深くうなずいた。「誰との未来も選ばない。俺はその第四の選択肢を選んだ」
「他に未来を誓い合った女の子がいるの?」
「まさか」
「それじゃあ……」
「ああ。俺はひとりで生きていく。それを伝えに来た」
「どうして?」と高瀬は素っ頓狂な声で言った。「どうしてそういう決断になったの?」
俺はこの冬のあいだ考え続けてきたことを順序立てて語ることにした。
「季節が秋から冬に変わって、決断の時が日に日に迫ってくるなかで、俺はある思いが自分の中に芽生えていることに気づいた。高瀬も柏木も月島も、俺のせいで誰も傷ついてほしくない。俺はそう思うようになった。
それは三人と未来の展望について細かく話せば話すほど、俺と同じ未来を生きていきたいっていう三人の気持ちを知れば知るほど、強くなっていった。俺は三人に出会えたことにすごく感謝している。誰か一人がいなくても、今の俺はなかった。いろんなものを与えてくれたし、いろんなことを教えてくれた。三人とも一人の人間としてとても尊敬しているし、大事な存在だ。でも俺がもし誰か一人だけを選べば、他の二人は傷つくだろう。深く傷つくだろう。つらい過去を背負ってこの先生きていくことになる。俺は大事な人を傷つけたくはない」
「だから誰も選ばないっていうの?」
「もちろん、それはそれで傷つけることになる」と俺は言った。「というか、三人ともまったく傷つけないというのは、どうやったって不可能だ。それでも傷を最小限にとどめる方法がある。それが第四の選択肢だ。俺が誰も選ばなければ、傷はまだ浅く済むはずだ。少なくとも俺が誰かと幸せな日々を過ごしていることを想像して、気に病むことはないはずだ。『誰も選ばなかったのならしょうがない』とある程度は割りきれるはずだ。
もちろん迷ったよ。すごく迷った。三人のうち誰を選んでも、俺は幸せになれたと思う。でも最後は自分の幸せよりも、三人が誰一人不幸せになってほしくないっていう気持ちの方が、勝ったんだ」
高瀬は何も言わなかった。何かを言う気配もなかった。ただ目の前の一点を見つめているだけだった。
「この冬のはじめにさ、俺たち四人は同じような夢を見ただろ?」と俺は言った。「そもそも俺たちは出会っていなくて、どこを探してもいないっていう夢。あの夢に続きがあれば、当然俺は誰と同じ道も歩まないんだろう。今にして思えば、あれはこういう結末を暗示していたのかもな」
沈黙があった。長く重く痛い沈黙だった。
「納得いかない」やがて高瀬はそうつぶやいた。「全然納得できない。神沢君。私との約束は? 一緒にこの大学に通うっていう約束は? 春から一緒にここに通えなくなったのは、仕方がないよ。晴香の命を救うためだったから。でも四年以内にもう一度試験を受けて合格すれば、それは果たされるんだよ?」
「その約束は守れない」と俺は言った。「でもタカセヤとトカイの政略結婚を阻止して、高瀬を大学に行かせるっていう約束は守っただろ? どうかそれで許してくれ」
高瀬は聞き分けのない子どものように首を大きく振った。
「私は神沢君と一緒にこのキャンパスを歩くことを夢見てきたからこそ、どんな時もがんばってこられたの。神沢君がいないのなら、なんのために大学に行くのかわからないよ。私も入学を辞退しようかな」
「駄々をこねるようなことを言わないでくれよ」と俺は言った。「高瀬には大学に行く理由がきちんとあるだろ。翻訳家になるっていう夢を叶えるためだろ。それを忘れるなって」
「私は翻訳家になる自分をしっかり神沢君に見届けてほしいの。そして獣医さんになる神沢君を見届けたいの。だからどうかお願い。考え直して」
俺は高瀬とは目を合わせず首を横に振った。
「大学に行くっていう夢はどうするの? 獣医さんになるっていう夢は?」
「また他の夢を探すさ」
「ひとりで生きていくって言うけど、お金もおうちも夢もないのに、春からどうやって生きていくの?」
「なんとかなるって。日々の生活のなかにささやかな幸せを見いだして、なんとかやっていく」
高瀬はもどかしそうに唇をしばし噛んでいた。それからとっておきの切り札を切るように目を鋭く光らせた。
「神沢君はひとつ重要なことを忘れている」
「重要なこと?」
「取引のこと」と高瀬は言った。「まなとと取引したじゃない。私のお父さんのスキャンダル記事を揉み消してもらう代わりに、神沢君が私を選ばなければ、私はまなとと結婚して周防家に入らなきゃいけない、って。さてはそのことをすっかり忘れていたんでしょ? やだなぁ、もう、しっかりしてよ神沢君」
「覚えてるよ」と俺は冷静に答えた。「忘れるわけないよ、そんな大事なこと」
高瀬はあからさまに動揺した。
「それじゃあどうして? 相手は神沢君の大嫌いな周防まなとだよ? 私がそんな人と結婚してもいいっていうの?」
「周防はたしかに人間性も性格もひん曲がっている。でもそんなあいつにも、ただひとつだけまっすぐなところがある。それは高瀬の幸せを願う気持ちだ。その気持ちに偽りはない。そのことはあいつと幼稚園の頃から一緒だった高瀬が実はいちばんよくわかっているんじゃないか? 周防の攻撃性や凶暴性は俺のような相容れない人間には牙を向くが、決して高瀬本人には向かない。あいつは高瀬の前では紳士だ。周防は悪魔的な奴だが悪魔じゃない。高瀬の幸せを願ってる。その証拠に、春からここに通って翻訳家を目指すことを許可しただろ」
それを聞くと高瀬は静かに天を仰いだ。そして言葉を空に吐き出した。
「まなととの結婚のことを持ち出しても考えが変わらないなんて、もう神沢君の決意は揺るがないみたいだね」
俺は否定しなかった。すると高瀬はこちらに背を向けて、鳴大の大講堂を無言で眺めた。俺はその後ろ姿を黙って眺めた。今夜のこれまでの言葉をすべて撤回して、抱きしめたくなるほどそれは美しい後ろ姿だった。ともすると手を伸ばしてしまいそうだった。俺は彼女と生きる未来を想像してしまうことのないよう、思考を遮断した。そしてただ降りしきる雪の音に耳を澄ましていた。
「未来の君に、さよなら」しばらくして、高瀬は背を向けたままそう言った。
俺は言った。「どうしたの、急に?」
「いやね、ほら、前に葉山君が言ってたでしょう? この世界の80億人っていうとんでもない数の人の中から出会ったんだから、神沢君にとっては私も晴香も月島さんもある意味では運命の人――“未来の君”なんだって。そして神沢君はその三人ともに別れを告げた。私たちの物語も、最後は結局あの小説のタイトルと同じ結末になっちゃったな、ってふと思って」
俺は何を言えばいいかわからず黙っていた。すると高瀬は覚悟を決めたように凛と振り向いた。
「うん。正直今でも納得はできないけど、でも、私も踏ん切りをつけなきゃね。いつまでもグズグズ言っていたら、神沢君がこの決断を下した意味がなくなっちゃうもの。わかった。わかったよ。うん。お別れ、しよう」
「すまない」と俺は言った。
「私からは、最後に感謝を伝えたい」と高瀬は言った。そして俺の目を笑顔で見つめた。「神沢君。わがままで、頑固で、気難しくて、あまのじゃくで、負けず嫌いで、向こう見ずで、意地っ張りで、見栄っ張り。そんな私とよく辛抱強くいろんな冒険に付き添ってくれたね。おかげで最高の三年間を過ごすことができたよ。こんなに充実した高校生活を送れた女子高生は世界中どこを探したっていないよ。
私はこの先も神沢君との冒険が続くんだと思ってた。世界一充実した大学生活を送って、世界一充実した翻訳家生活を送って、いつか庭に咲いた桜でも眺めながら、縁側でいっしょにあの時はこうだったね、あの時はああだったねって昔話をするんだと思ってた。
でもそれは欲張りすぎってものだね。最高の三年間を過ごせただけでも感謝しなきゃね。いっしょに夢を追って走り続けたこの日々の記憶は胸の大事なところにしまっておく。神沢君。本当に、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」と俺は無感情に徹して言った。
「最後に、ひとつだけ聞いてもいいかな?」と高瀬は言った。
俺はうなずいた。
「神沢君が好きだったのって、結局三人のうち、誰なの?」
「それは……」
答えが喉まで出かかったところで、高瀬がはっとして俺の口をふさいだ。
「やっぱりいい。質問した私が馬鹿だった。答え次第では未練が残っちゃう。今のは聞かなかったことにして」
俺はその名を乾いた唾と一緒に呑み込んだ。
「そろそろ行かなきゃ」と高瀬は言った。「明日は卒業式だしね。それにほら、私は卒業生代表として壇上で答辞を読まなきゃいけないから。寝不足で目の下にくまを作って全校生徒の前に出るわけにはいかない」
高瀬はまるで今壇上へ向かうように背筋をきりっと伸ばし、大学の校門の方へ歩き出した。
すれ違いざま、彼女の髪の毛先が俺の頬にかすかに触れた。ほんの束の間の出来事ではあるけれど、その一瞬にこの三年間の彼女との思い出が一気に蘇った。
それで俺は高瀬を呼び止めたい衝動に駆られた。それは言葉では言い表せないくらい強い衝動だった。でも両手の拳を握りしめてなんとか堪えた。あとを追うこともしなければ、振り返ってその後ろ姿を見ることもしなかった。
そうしてしばらく時間が経った。もう高瀬はとっくに校門を出て、姿を消しているはずだった。
もし、と俺は思った。もし振り返って高瀬がいたらどうしよう、と。そして目が合ってこう言ってきたらどうしようと。やっぱりこれからも私の冒険に付き合ってよ神沢君、と。
それは決してあり得ない話じゃなかった。十分に考えられることだった。なにしろわがままで、頑固で、気難しくて、あまのじゃくで、負けず嫌いで、向こう見ずで、意地っ張りで、見栄っ張りなのが高瀬優里という人だ。
私の冒険に付き合える人はこの世界で神沢君しかいないの。きっと彼女は俺の目を見てそう続けるだろう。私は神沢君のことが好きで、神沢君も私のことが好きなの。そうでしょ?
そう言われても俺はかたくなに首を振る続けることができるだろうか? 誰も選ばないという決意を貫き通すことができるだろうか?
無理だろうな、と俺は思った。おそらく無理だ。いや、絶対に無理だ。俺はその冷え切った体を強く抱きしめるだろう。それから今度は一緒に大講堂を眺めるだろう。そしてなにがなんでも四年以内にここに戻ることを誓うだろう。
気づけばそんな少し先の未来を期待している自分がいた。振り返ればそこに高瀬がいることを望んでいた。
俺は深呼吸をしてから、なかば祈るような思いでゆっくり後ろを振り返った。しかしそこには高瀬の姿はなかった。あったのは新雪に残された足跡だけだった。校門まで点々とまっすぐに続くそれは、彼女が一度もこちらを振り向かずに去ったことを寡黙ながら示していた。
これでよかったんだ、と俺は自分に言い聞かせた。これで高瀬も柏木も月島も、新しい季節を新しい気持ちで迎えることができる。古い靴を履き捨て、新しい靴を履いて、新しい道へ旅立っていける。これでよかったんだ。これでこの物語はおしまいだ。
誰も見たことがないハッピーエンドを手に入れてやる――。
そう意気込んで始まったこの高校生活だったわけだけど、その目標は果たせただろうか? どうだろう? きわめて怪しいが、思いつく中で最善の選択をしたのだと思えば――三人とも春から前を向いて生きていけると思えば――果たせたと考えていいかもしれない。そう考えないことには報われない。
いずれにしても、世界の果てみたいな人ひとりいない場所で、降りしきる雪に埋もれそうになりながら、何もかも失った男が狂ったように涙を流している。こんな結末の物語なんて誰も見たことがないのはたしかだ。
この物語にもしタイトルをつけるとしたら、なんだろう? どんな題名がふさわしいだろう?
ひとつしかないな、と俺は思った。ちょうど今夜、高瀬がその言葉を口にした。
『未来の君に、さよなら』
それがこの物語の名前だ。
* * *
「というわけで、僕は三人の“未来の君”のうち、誰も選ばないという道を選びました。三人はそのあと、それぞれの道に進んで幸せに暮らしましたとさ。おしまい」
「ちょ、ちょっと待ったぁ!」と隣で娘の愛は声を張り上げた。「えっ!? お父さんは三人全員にさよならしちゃったの? 考えられない! 納得いかない! あのね、これはお父さんの物語なんだよ? ユカワ君みたいなこと言うけど、お父さんが主人公なんだよ? それなのに一人で雪の中わんわん泣いて終わるなんて、こんなの、ハッピーエンドでもなんでもないよ! 私はこんな結末、ぜったいにゼッタイに絶対に認めなーーーーい!」
娘は両手をぶんぶん振り回した。おのずとその手は、隣に座っている僕の体に当たる。
「いたいいたいって! ごめんって! 冗談だって!」
「えっ?」
「悪かった、愛。ここでおしまいと聞いたら愛はどういう反応をするか、ちょっと興味が湧いたんだ。ほんの出来心だ。試すようなことをして謝るよ」
「それじゃあ……」
「ああ。安心しろ。この物語はこれで終わりじゃない」
「本当?」
僕は娘の頭を撫でた。
「よく考えてみろ。愛がこうしてこの世に生まれたことが、なにより、その証拠じゃないか」
僕に似て疑い深い6歳児は、自分が実在していることを確かめるみたいに、体をべたべた触った。
「そっか。たしかにお父さんがひとりで生きてきたなら、私は生まれてないもんね」
「そういうことだ」
「それじゃ、まだ物語は続くんだね?」
僕はうなずいた。
「あの時の僕は、大事な人を傷つけたくないという思いに囚われるあまり、視野が狭くなって、本当に大切なことが見えなくなっていた。とても重要なことを見落としていた。誰も選ばないのがベストだと思っていた。それが正解だと。でも次の日――高校生活最後の一日となる卒業式の日に、ある出来事が起こって、僕は目を覚ますことができたんだ」
「おおっ!」娘はにわかにそわそわする。「ついに今度という今度こそ、ハッピーエンドだねっ!」
「それは愛がしっかり自分の耳で聞いて、自分で判断してくれ」
「よしっ! 朝早くから眠い目をこすって三年間の物語を聞いてきたんだもん。最後まで聞き届けるよっ!」
「途中で寝るなよ?」と僕は言った。そして時計を見た。「いかんいかん。花見をするために、もうそろそろみんなが来る。長かった物語も泣いても笑ってもこれで最後だ。もうエンディングまで止まらない。休憩なしで行くぞ。これから話すのが、この物語の本当の結末だ」




