第118話 この物語はこれで終わりじゃない 4
卒業式前日の放課後、俺は町外れにある遊園地跡で、あいつが来るのを待っていた。
もうほとんど雪はとけていたけれど、空を分厚い雲が覆い尽くしているところを見ると、どうやらこの後まとまった量の雪が降りそうだった。
なんの気なしに俺はあたりを見渡した。塗装が剥がれて馬か牛か見分けのつかないメリーゴーラウンド。水と時の止まった噴水。色褪せて帽子の色がみんな同じになった七人の小人と思しきオブジェ。始まらないパレードを予告するむなしい立て看板。
もちろん自分以外に人の姿はない。俺の出した答えを聞く場所として、三年前に廃業したこの遊園地跡を指定したのは彼女だった。なんだっていったいこんな殺風景な場所をあいつは選んだりしたのだろう?
そんなことを考えていると、正門ゲートの向こうにかたちのきれいな頭が見えた。今日もショートカットがよく似合っている。彼女は俺と目が合うとにっこり微笑んだ。そしてこちらに歩いてきて、顔を見上げた。
「ひっどい顔。さてはきのう、一睡もできなかったな?」
図星だった。「さすが月島だ。するどいな」
「そりゃあね。中学の時から見てる顔ですもの」と彼女は得意になって言った。「他にもね、かわいい娘のパンチラが見えてラッキーと思ってる時、一人エッチのオカズを探している時、美人教師との課外授業を妄想している時なんかも顔を見ただけでわかるよ」
「人が年がら年中ヤラシイことばっかり考えてるみたいな言い方すんな」
月島はくすっと笑った。
俺も可笑しくて笑った。そしてもう一度あたりを見渡した。
「なぁ。どうしてわざわざこの場所で答えを聞きたかったんだ?」
「どうしても何も、だってここが、キミのことを好きになった場所だから」
「どういうことだ?」
「もしかして覚えてない? ほら、中一のとき、バス遠足みたいなのでここに来たでしょ。あの頃はまだ営業していてお客さんで賑わってた」
あいにく孤独をきわめた中学時代のことは、ほぼすべてと言っていいほど記憶に残っていなかった。俺は首をかしげた。
「それじゃ、あれに乗ったことも忘れてる?」月島は船を模した大型ブランコのアトラクションを指さす。「たまたま私たちは隣同士の席になったんだ。船が動き出した直後、私はとんでもないことに気がついた。シートベルトが完全に装着できていなかったの。それで私は大パニック。するとキミは隣から『俺につかまれ』って言ってくれたの。『絶対に離れるな』って。私は目を閉じてキミの体に抱きついた。船が動いていたのはせいぜい三分くらいだったかな? でも私にとっては長い三分間だった」
俺はそのときのことをはっきりと思い出した。たしかにそんなこともあった。それは記憶の片隅に残っていた。異性と三分間も体を密着させるなんて言うまでもなく生まれて初めての経験だったからだ。俺にとっては短い三分間だった。
「たしかおまえ、あのとき『なむあみだぶつ! あぶらかたぶら! くさりかたびら!』とかわけわからんことずっと叫んでたよな?」
「しょうがないだろ、死ぬかと思ったんだから」月島は顔を赤くする。「とにかく、無事に船から下りると、なんとなくキミのことが気になる存在になってた。それはつまりさ、恋ってやつだよね。だからここは、私にとって思い出の場所なんだ」
それから18歳の彼女は、クルマの免許をどうするかとか、髪を伸ばそうかなとか、そういうとりとめのないことをしばし話し続けた。世間話がしたいというよりはむしろ、俺から答えを聞くのを先延ばしにしたいようだった。
やがて話題が尽きてもう一度免許の話になりかけたところで、ついに雪が舞い始めた。俺は頃合いを見計らって口を開いた。
「月島。そろそろ、本題に入らないと」
「そう、だよね」彼女は唇をまっすぐに結び、それから姿勢をととのえた。
俺も姿勢をととのえた。そして彼女の目を見た。その時だった。
「いやだ」
「え?」
「いやだ」
「おい、俺はまだ何も言ってないぞ?」
「ない」
「はい?」
「雰囲気がぜんぜんない」と月島は言った。「なんかこう、メリーゴーラウンドに光が灯って回転しだしたり、噴水が起動して勢いよく水を噴射したり、七人の小人が私たちのまわりで歌を歌い出したり、祝福のパレードが始まったり、そういう、コングラッチュレーション的な雰囲気がぜんぜんない。いやだ。こんなムードで答えを、聞くのは、いやだ」
そう言われてしまったら、俺は何も言えない。だから黙った。黙ってしばらく時間が経った。いつしか雪は本降りになりかけていた。そのうち月島が静かに口を開いた。
「取り乱して、ごめんよ。私が悪かった。キミは考えに考え抜いてその答えを出したんだもんね。それを聞かないで逃げるのは、失礼ってもんだ」
「――話して、いいのか?」
月島は小さく、でもしっかり、うなずいた。
俺は一睡もせず考えた言葉をゆっくり口にした。
「月島。おまえには感謝しかない。なんてったって命を絶とうとした俺に『生きなきゃ』って声をかけて、救ってくれた恩人だ。おまえがいなきゃ、今の俺もない。それに迷う時はいつも冷静で的確なアドバイスをくれたよな。何度助けられたかわからないよ。おまえと会話しているといつも笑っていた記憶がある。松任谷先生の言うとおりなんだろうな。おまえとの未来で俺はよく笑ってるんだろうな。それは幸せな未来だよな。でも――」
でも、と俺は胸が痛むのを感じながら繰り返した。
「でも、ごめん。俺はおまえと一緒に東京には行けない。月島庵の15代目にはなれない。俺は別の道に進む。月島。これまで、ありがとう」
彼女は息を吐き、前髪を手でクールに払い、それからぎこちなく微笑んだ。
「うん。まぁ正直言うと、ゲートで目が合った時点でそう言われるのはなんとなく予想がついてたんだ。さっきも言ったでしょ。顔を見ただけでキミが何を考えてるかわかるって。あの時のキミは、月島に会いたくないな、って顔をしてた」
さすがだな、と俺は心で言った。
「そうか。それがキミの答えか。いろいろ言いたいことはあるけど、あんまり四の五の言うのは私らしくない」そうつぶやいて月島は、例の船のアトラクションをぼんやり見つめた。「この場所で始まった恋がこの場所で終わる。うん。それはなんだか私らしいや」
俺は何も言えなかった。ただただ目の前を舞う雪を見ているだけだった。
「神沢。キミの選択について私はとやかく言うつもりはない。ただ、これだけは約束してほしい。手紙にもしたためたけど、どうか、幸せになる未来を選ぶんだよ。いいね? お姉さんの、最後のおせっかいだ」
俺がうなずくと、彼女は両手を広げた。そしてこう言った。
「それじゃ、お別れの、ハグ」
俺は万感の思いを込めて月島の華奢な体を抱きしめた。無論、彼女が納得いくまでそうしているつもりだった。しかし何事にも限度というものがある。彼女はいつまで経っても俺の体から離れようとしなかった。
「なぁ月島。そろそろ、な?」
彼女は首を振った。「絶対に離れるな、って言った」
「勘弁してくれよ。もう六年も前のことだぞ」俺は声を震わせ、どうにか言葉を絞り出す。「あんまり困らせないでくれよ。俺だってつらいんだぞ」
♯ ♯ ♯
俺の出した答えを聞く場所として柏木が指定したのは、街が一望できる展望台だった。
そこに着く頃には陽が沈んで、すっかり夜になってしまっていた。夕方から降りはじめた雪はあたりを白く染めあげ、長い冬がまだ終わっていないことを春が恋しい人たちに教えていた。
柏木はグレーのハイネックセーターにブルージーンズ、オレンジのダッフルコートという格好で俺を待っていた。雪で髪型が崩れるのを防ぐためか、フードを深くかぶっている。
「おっそーい!」と彼女はフードから顔を出して言った。「約束の時間からもう一時間以上経ってるんですけど。ナンパしてきたお兄さんによっぽど着いていっちゃおうかと思った!」
「すまんすまん」
俺は平謝りするしかない。実は月島がな、とあけすけに打ち明けるわけにもいかない。ただ俺も謝るだけが能じゃなかった。柏木が立腹していることを見越して、ここに来る途中の自動販売機でホットコーヒーを二缶買っておいた。その片方を彼女に手渡すと、嘘みたいに機嫌は直った。俺は安堵して自分の缶を開けた。俺たちはコーヒーで体を温めながら、しばし展望台から生まれ育った街の夜景を眺めた。
「どうしてこの場所に呼んだんだ?」と俺は聞いてみた。
「この展望台の下ってさ、ラブホテル街でしょ。悠介の答え次第では、盛り上がってそのまま……っていう?」
「おいおい」俺はコーヒーを噴きそうになる。
「というのは冗談で」柏木はおちょくるように缶を頬に当ててくる。「なんとなく、よ。なんとなく。悠介と出会って、一度は恋人同士になって、一緒に泣いたり笑ったりしたこの街を、悠介と一緒に見てみたかった。ただそれだけ。チカン視点で」
「それを言うなら、フカン視点、な」
「ああ、俯瞰ってフカンって読むんだ。言われてみれば、チカン視点って、なによ?」
「しっかりしてくれよ、特待生様」
柏木は笑った。
俺も笑った。二人の笑い声を風がかき消すと、彼女は口を開いた。
「さて、突然ですがここで問題です」
「なんだよ。本当に突然だな」
「あたしが一番好きな食べ物は、なんでしょう?」
記憶の中の彼女はそれが人の食べ物である限り、なんでもうまそうに食べていた。一番好きな食べ物。なんだろう? 思いつくのは、俺のためによく作ってくれた、アレだ。
「お好み焼き、か?」
「ぶっぶー」柏木は口を尖らせる。「それはあたしの中では商品だもん。そば屋のせがれが好物はなにって聞かれて『そば』って答えないでしょ? それと同じ。正解は納豆トーストでした。作るのラクだし、チーズをかけても目玉焼きを乗せても絶品なの」
「納豆トースト?」食べているところを見たこともなければ、好きだという話を聞いたこともない。
「第二問!」
「おい、いつまで続くんだよ」
「悠介が正解するまで」と柏木は当然のように言った。「あたしが尊敬する歴史上の人物は誰でしょう?」
尊敬する人がいるということ自体、初耳だった。
「さっぱりわからん。ヒントがほしい」
「そうだねぇ、あるものを発明した人。今のあたしが生きるために欠かせないあるものを」
俺はすぐにピンときた。
「X線を見つけてレントゲン撮影を発明したレントゲン博士だな。心臓の検査では欠かせないもんな」
「ぶっぶー。正解はエジソンでした。エジソンはすごい人なの。だってトースターを発明したんだよ? トースターがなきゃ、あたしは納豆トーストを食べられないじゃない」
「どんだけ好きなんだよ……」
「それでは第三問。あたしが無人島にひとつだけ持っていけるとしたら、何を選ぶでしょう?」
傾向が見えてきた。ひとつしか思いつかない。「トースターだな」と俺は自信を持って答えた。
「ぶっぶー。無人島だよ? 電気がないんだから使えないじゃん」
「いや、急に真っ当だな」
「答えは英会話の本。めちゃくちゃ英語の勉強して、いつか近くを通りかかったジョニー・デップ似のイケメン海賊に見初められるの」
「当たるわけがない」
「もう、しっかりしてよ」と柏木は言った。「第四問。あたしが理想とする異性との出会い方って、どんなのでしょう?」
「無人島にいたら、カッコイイ海賊に助けられる」
「ぶっぶー。だってそれはあまりにも現実的じゃないでしょ。もっとソボクでいいの。正解は、学校の前と後ろの席同士になって、話をするうちに仲良くなる、でした」
それは身に覚えのある出会い方だった。この三年間、俺は教室で後ろの席から今隣にいる女の背中を見続けた。
「そう。あたしにとって、悠介との出会いはまさに理想的だったの」と彼女は言った。「まったく。ゼンゼンあたしのことわかってないねぇ。そろそろ正解してくれないと」
「お、おう」
「第五問」と彼女は言った。そして一拍間を置いた。「それでは、あたしが理想とする異性との別れ方って、どんなのでしょう?」
「――え?」
「どんなのでしょう?」
俺はそれについて考えた。柏木の性格を考慮に入れれば、答えはさほど難しくなかった。
「笑顔で、後腐れなく、互いの幸せを願い合う、そういうような別れ方だ」
彼女は静かに手を叩いた。
「やっと正解が出たね。さすが悠介。やっぱりあたしのことをよくわかってる。そうなの。あたしはさ、なみだナミダで湿っぽくじめじめした別れ方は大嫌いなの。最後はやっぱ良い思い出でスッキリ終わりたいじゃない? だから悠介。あたしたちも笑顔でお別れしよう」
「柏木おまえ……」
俺が二の句を継げないでいると、彼女はこちらの顔を見てこう言った。
「あたしじゃないんでしょう? 悠介が選んだのは、あたしと一緒の未来じゃないんでしょう?」
それはまぎれもなく、俺がこの後彼女に伝えようとしていたことだった。俺の出した答えだった。
「どうしてわかった」と俺は言った。
「わかるよ」と彼女は言った。「だって今夜の悠介の口ぶりとか仕草とか、『この女と一緒に生きていく』っていう覚悟を持った男のそれじゃなかったもん。そんなの、わかるよ。あたしを誰だと思ってんの。そんくらい、見抜いちゃうって」
見抜かれていないと思ってクイズに答えていた自分を俺は恥じた。柏木はすっかり冷めたであろうコーヒーを飲み干して、口を開いた。
「保留になってたあの約束――高校卒業後はそれぞれのしたい勉強をして、あたしの病気の治療法が確立したら、一緒になって居酒屋をやろう。それが果たされることはなくなっちゃったけど、ま、文句は言えないよ。悠介が大学進学をあきらめなきゃいけなかったのは、他でもなくあたしのせいだからね」
「おまえのせいだなんて思ってないよ」と俺は気休めではなく言った。
「ありがと」と言って柏木は夜の街を眺めた。「あたしは特待生で受かったこの街の大学に行くよ。それで将来は小学校の先生を目指す。そんなわけであたしは春からもこの街にいるからさ、ひょっとしたらばったり会うこともあるかもしれないね。その時は、高校時代に共にいろんな困難を乗り越えてきた戦友同士として、笑って昔話でもしようよ。どっかのカフェでフレンチトーストでも食べながら」
「そこは納豆トーストじゃないのか」
「それでもいいよ? うちに来ればお店よりおいしいのをあたしが作ってあげる」
柏木はくすっと笑った。それにつられて俺も笑った。
やがて彼女はコートの上から自分の胸に手を当てた。
「悠介が夢を犠牲にしてまで救ってくれたこの命、大切にする。もうあたしは生きていていいのかなんて疑問に思わない。生きていていいんだよ。この心臓が動き続けてくれているのがその証拠。あたしはもう大丈夫。ひとりでも大丈夫。だから悠介。悠介もこの先、なにかつらいことがあっても、絶対にへこたれたりしないで。前を向き続けて」
俺はうなずいた。
「どんな困難に見舞われてもこの世を恨まなかったおまえを見習って、少しはこの世界を好きになる努力をしてみるよ」
「バシッと決めるところなのに、これじゃあ台無し」と言って柏木は、俺の頭に積もった雪を払い落とした。「まったく、カッコ悪いったらない」
見れば柏木の頭にだって、うずたかく雪が積もっていた。「人のことは言えないだろ」と言って俺も雪を払ってやった。すると彼女は茶目っ気たっぷりに笑った。
この三年間、幾度となく繰り返してきたこういうやりとりもこれが最後だと思うと、ふいに俺は目の奥が熱くなるのを感じた。それは抑えようと思っても抑えられるものじゃなかった。
「ちょっと悠介! あたしさっき言ったでしょう? 涙の別れはイヤだって。泣いちゃダメじゃない」
そう言う柏木の声はえらく震えていた。彼女はぐすんと鼻を鳴らして、手を叩いた。
「だめだ。これ以上悠介の顔を見てると最悪の別れになっちゃう。手を出して。互いの幸せを願い合う握手をして、おしまいにしよう」
♯ ♯ ♯
俺は右手に柏木の名残を感じつつも展望台を後にして、鳴大のキャンパスへ向かった。
俺の答えを聞く場所としてそこを指定したのはもちろん高瀬だった。彼女と約束した時間はとうの前に過ぎていた。すっかり遅くなってしまった。夜は深まり、雪はひとときの間断もなく降り続けている。高瀬は待つのに疲れて帰ってしまったりしていないだろうか?
その心配は杞憂だった。キャンパスに着くと、大講堂の前にぽつんと人影がひとつあった。遠くからでも、その後ろ姿を見ただけで誰なのか俺はわかった。彼女はずっと夢見てきた場所をひとりでじっと見つめていた。
俺は安堵すると同時に緊張して、その背中に近づいた。そして声をかけた。
「ごめん高瀬、けっこう待ったよな?」
彼女は振り返って、いやに優しく微笑んだ。「待つのには慣れてるから、大丈夫」
この三年間、彼女を待たせ続けたのは誰かと言えば、俺に他ならなかった。ひとりでに眉がゆがんだ。
「ご、ごめん」と高瀬は言った。「そんなに深い意味はなかったんだけど」
「チクリと小言を言われるのには慣れてるから、大丈夫だ」
「たぶんそれに慣れちゃったのって、私のせいだよね?」
俺は短く笑った。
高瀬も小さく笑った。それから俺の顔をしげしげと見た。
「神沢君。もうあの二人には会ってきたんだね?」
「ああ。会ってきた」
「会って、答えを伝えてきたんだね?」
「ああ。伝えてきた」
「そう……」彼女ははにかんで目を伏せた。
俺が月島と柏木に別れを告げてきたであろうことは、高瀬ならば俺の表情から容易に読み取れたはずだった。そしてそれからこう考えたから、照れてうつむいたはずだった。「神沢君は私との未来を選んだんだ」と。顔を上げたら、秋にお願いした通り、神沢君があの指輪をもう一度はめてくれるんだと、そう思っているに違いなかった。
でも、俺は指輪を持ってきていなかった。うっかり忘れたわけじゃない。ミスでもなんでもない。それは意図して家に置いてきていた。
俺が出した答えは、彼女が思っているのとは別のものだった。
「高瀬」と俺は名を呼び、顔を上げさせた。そして深呼吸をしてから、用意していた言葉を口にした。
「今夜は高瀬に、さよならを、言いに来た」




