第114話 もしこれが夢だというのなら、神様に抗議する 1
いつものように二度寝の甘い誘惑を断ち切ると、俺はいつものようにベッドからのそのそと起き上がった。そして寝ぼけて階段を踏み外しそうになりながらも一階へおりた。
いつものようにトイレと脱衣所のドアを間違えかけ、洗顔フォームと歯磨き粉を間違えかけ、革靴の左右を間違えかけて家を出る、普段と何も変わらない朝だった。
通い慣れた通学路を歩いて高校につくと、いつものように朝練習を終えた運動部員たちが制汗剤の匂いをまとわせながら校舎に入っていった。
教師たちは思うように成績が上がらない生徒に頭を悩まし、男子は思うように伸びない身長に頭を悩まし、女子は思うように減らない体重に頭を悩ます、やはり普段と何も変わらない朝だった。
いつものようにあくびをこらえながら3年H組についた俺は、教室の様子が普段とは違うことに気づいた。
いつもなら俺より先に登校していて、おはよう、と笑顔で言ってくれる高瀬と柏木の姿が見当たらない。悪友の太陽はいるのだが。二人とも同じタイミングで風邪でも引いたのだろうか? 心配しながら教室を進むと、俺は愕然として身動きがとれなくなった。
高瀬の席には高瀬とは似ても似つかない厚化粧のけばけばしい女が座っていて、柏木の席には柏木とは似ても似つかない太った巨体の女が座っている。どちらもまったく見覚えのない女子生徒だ。
俺は無意識にA組へと駆け出していた。廊下から教室の中を見やる。やはり月島の席には月島とは似ても似つかない、見知らぬアフロヘアの女子生徒が腰掛けていた。俺はすぐさまH組に取って返し、悪友の元へ向かった。
「なぁ太陽! あの三人はどこに行った!?」
「あの三人? 誰のことを言ってんだ?」
「誰って、あの三人に決まってるだろ。高瀬優里、柏木晴香、月島涼。三人の女子生徒」
「悠介おまえ、おかしくなっちまったのか?」太陽は軽薄に笑う。「さっきからなんの話をしてるんだ? タカセ? カシワギ? ツキシマ? そんな女子、聞いたことがないぞ。冗談はやめてくれ」
「冗談なんかじゃない!」と俺は真剣に言い返した。「あの三人と俺とおまえで、この三年間、一緒にいろいろやってきただろ。バンドを組んだり、幽霊騒ぎを解決したり、唯の親代わりになったり、悪徳企業と戦ったり。なんで覚えてないんだよ?」
太陽は教室内を見渡して、端正な顔を引きつらせた。
「悠介。マジでさ、こっちまでおかしくなったと思われるから、こういうのやめてくれって。だいたいおまえは、高校に入学してからずっと女っ気なんかないだろ。人間不信をこじらせて、女子とは話もしないどころか、挨拶されても返さない、そういう奴だろ。なんでそんなおまえが、三人の女の子と仲良くしてるんだよ?」
いつしか教室中の視線が俺に刺さっていた。例外なく、冷たい視線だ。俺は教室を飛び出し、始業を告げに来た担任の制止を振りきり、実習棟三階の旧手芸部室へ向かった。そこには、俺が虚言を口にしているわけではない証拠があるはずだ。これまでの冒険の証。
息を切らしてそこにつくと、中はただの空き教室になっていた。棚にあるはずのものは何一つとしてなかった。奇跡のヒカリゴケも、死ぬまで生き抜くと書かれた進路希望調査票も、卑猥な店のポケットティッシュも。あるのはホコリと蜘蛛の巣だけだった。
そこで俺はようやく悟った。俺は長い夢を見ていたんだと。そもそもあの三人とは出会ってすらいなかったんだと。
俺はその場にへたり込む。
床が音をたてて崩れ出す。
壁が泥のように溶けていく。
光が失われる。
空が落ちてくる――。
――ベッドから飛び起きて俺が真っ先にやったのは、床と壁の存在を確かめることだった。手を伸ばすとどちらもしかるべき場所にちゃんとあった。カーテンの隙間からは朝の光が射し込んでいる。空も空としてそこにある。
大丈夫。どうやら俺は、長い夢を見ていたという夢を見たようだ。
ほっと安堵したのも束の間、あることを思い出してぞっとした。たしか高瀬も柏木も月島も、俺と出会ってからの日々はすべて長い夢だったという夢を見たと言っていた。
俺はベッドの上で思わず頭を抱えた。
これはいったいどういうことだ? あの三人は俺が消えていなくなる夢を見て、俺はあの三人が消えていなくなる夢を見た。とても偶然とは思えない。
俺の不安をいっそうかき立てたのは、今日の日付だ。カレンダーやスマホを見るまでもなくわかる。1月1日。つまり今の今まで見ていた夢が初夢ということになる。
胸がざわめく。これはいったい何を暗示しているのだろう? 俺たちに降りかかった問題はその大部分が片付いたはずだが。
俺はいてもたってもいられなくなって、ベッドから下りるとカーテンを開けて縁起の良いものが何かないか部屋の中を探した。神頼みというわけではないけれど、お守りのようなものが欲しかった。しかし普段から験を担ぐということをしない性分なので、これといったものはなかなか見つからなかった。
それでもなにげなく机の引き出しを開けると、一枚の絵が目に留まった。それはいつか藤堂アリスがうちに置いていったフクロウの絵だった。さすが画家志望だけあって、今にも画用紙の中から羽ばたいていきそうなくらい、うまくよく描けている。
そういえば、フクロウは〈福来郎〉だから縁起が良いと以前アリスが話していた。それに別の字をあてれば〈不苦労〉でもある。ちょうどいい。俺はその小さな画用紙を今日のあいだ肌身離さず持ち歩くことにした。
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わざわざ朝っぱらからお守りのようなものを必死に探さなくたって、よくよく考えたら今日はお守りそのものを難なく手に入れられる日だった。
年が明ける前にいつもの五人で神社へ初詣に行く約束をしていたのだが、そのことを悪夢のせいですっかり忘れていた。
大勢の参拝客にまじって神社につくと、鳥居の向こうにはもうすでに四人と思しき姿があった。俺は無我夢中でみんなの元へ駆け寄った。そして高瀬が本当に高瀬かどうか目を凝らしてたしかめた。夢に出てきた厚化粧の女とすり替わっているということはなかった。
「高瀬、今日も自然体でかわいいな。かわいい。いつもの高瀬でよかった」
「えっ!?」高瀬は頬を染める。「あ、ありがとう」
俺は次に柏木が本当に柏木かどうかを検証した。全身が贅肉だらけということはなかった。
「柏木、今日もスタイルが良くてきれいだな。きれいだ。いつもの柏木でよかった」
「はっ!?」柏木はまんざらでもない。「な、なによ、悠介らしくない」
俺は月島が本当に月島かどうかを確認した。頭が実験失敗みたいになっているということはなかった。
「月島、今日もショートカットが決まってるな。いつもの月島でよかった」
彼女は喜ぶ準備をしていたが、ずっこけた。「なんで私だけ髪型やねん」
俺は悪友に近づく。「太陽、この三人のフルネームを言ってくれ」
「悠介おまえ、新年早々、どうしたんだ?」
「いいから、言ってくれ」
「お、おう。えっと、高瀬優里、柏木晴香、月島嬢だ」
「なんで私だけマドモアゼルやねん」
「涼、だよな。わかってる!」俺はうれしさあまってつい三人を一人一人抱きしめそうになった。しかしこの神聖な境内でそれはふさわしい行為とは言えなかった。だから俺は太陽に抱きついた。
「よかった! 本当によかった!」
「なんだよ悠介! おまえさん、どうかしてるぞ!」
「さてはなんかあったな」柏木が鋭くつぶやく。
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どうして初詣に来たかといえば、それは大学合格を祈願するために他ならない。俺たち五人はそれぞれ受験をする目的も進学に対する熱量も違うが、大学を受ける以上は現役合格するに越したことはないという認識だけは一致していた。
参拝を終え、絵馬にも願いを託すと、俺だけこっそりお守りを買った。家から持ってきたフクロウの絵をどうしようか迷ったが、なにも捨てることはないのでそのまま持ち歩くことにした。
みんなの元に戻ると、おみくじを引こうという話になっていた。俺としても異存はなかった。お守りを入手した効果はあるのか、さっそく運試しといこうじゃないか。
俺たちは列に並んで順番におみくじを引いた。
全員が引き終わると、五人で輪になって一斉に内容を確かめた。そこに出てきた一文字が目に入って俺は思わず顔をしかめた。見れば太陽以外の三人の表情も曇っている。何を引いたかだいたい察しがついたが、いちおう尋ねてみた。
「いちばんうれしくないやつ」と高瀬は遠回しに答えた。
「口にするのも忌々しいやつ」と月島はぼかして答えた。
「凶」と柏木はストレートに答えた。「そういう悠介は?」
俺は無言でおみくじをみんなに見せた。
「おいおい、穏やかじゃねぇな」と言う太陽の手には“吉”のおみくじがある。「なんでも凶を引く確率って10%あるかないか程度らしいぞ。それを五人中四人が引くなんて、不吉というかなんというか……」
俺は今日見た夢のことを思い出さずにはいられなかった。しばらく何も喋れないでいると、柏木が声をかけてきた。
「ねぇ悠介。なにかあったんでしょ。なんだか今日はずっとおかしいもん。あたしたちが本当にあたしたちなのか確かめたり、葉山君に抱きついたり、柄でもなくお守りを買ったり」
「バレてたのかよ」俺は胸に忍ばせておいたお守りを取り出した。
「何があったか、話せ」と月島が迫ってきたので、俺は正直に夢のことを話した。
「神沢君まで私たちがいなくなる夢を……?」高瀬は真顔で考え込む。
「四人の人間が同じようなタイミングで同じような夢を見る」月島は腕を組む。「そんなこと、たまたまで片付く?」
柏木はうなずく。
「まるで誰かがなにかの意図を持ってあたしたちに似た夢を見せているみたい」
「でもそんな人、いる? 私たちの理解を超えた、不思議な力を持ったすごい人――」
高瀬はそこではっとして、息を呑んだ。おそらく五人とも、同じ人物を思い浮かべたはずだ。
「一人だけいるじゃない」と柏木は手を蝶のようにひらひらさせて言った。「不思議な力であたしたちを翻弄してくれた、スーパースペシャルすごい人が」
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「私が君たち四人に同じ夢を見せたんじゃないか、って?」
その退任間近の教師はまるで少年のように無邪気に笑った。
「はっはっは。いやいや、私にはそんな大それたことはできんよ。私にできるのはせいぜい未来を見ることくらいだよ」
「いや、じゅうぶん大それたことだよ」
月島がみんな思ったであろうことを代弁する。
太陽をのぞく俺たち四人は、初詣を終えるとその足で松任谷先生の自宅を訪れていた。元日そうそう家に押し掛けるのは非常識と言えば非常識だけど、彼は嫌な顔ひとつせず俺たちをもてなしてくれた。みずからの願いを叶えるために我々を利用した、後ろめたさのようなものもあったのかもしれない。
「もし仮にそういう力が私にあったとして」と松任谷先生は古びた椅子の上で言った。「君たちに同じ夢を見せる目的は、いったいなんだね? 私の願いは娘のジュンが命を落とす未来を変えることだった。それを叶えるために“未来の君”の占い師に扮して君たちの前に現れた。そして願いは叶った。ジュンの命は救われた。もうこれ以上望むことなんて、なにがあるだろう? あるとすれば、私の個人的な戦いに巻き込んでしまった君たちが、明るい未来を手にすることくらいだよ」
先生が嘘をついているようには見えなかった。言われてみればたしかに、この人には動機というものがない。それではあの夢はいったい――? 俺たちは首をかしげて押し黙った。
「君たちの気持ちもわかるよ。それぞれが消えていなくなってしまう夢。うん。そんなものを四人そろって見てしまったら、そりゃあ、不吉だと思うのも無理はない」
「そう、不吉なのよ」柏木は思い出したように声をあげる。「さっきだって、神社でおみくじを引いたら、全員『凶」だったし」
高瀬はうなずく。「なにか良くないことが起きるんじゃないかって、不安なんです」
「君たちの力になれるものならなりたいが」先生は含みのある声でそうつぶやく。「しかし私にできることといったらひとつしか……」
彼にできること。たしかにひとつだけある。他の三人も同じことを思い浮かべたはずだ。
「センセに未来を見てもらえばいいんだよ!」柏木がさっそくそれを口にした。「そうすればハッキリするじゃない。あの夢が何かを暗示していたのか。それともあたしたちの考えすぎだったのか」
彼女以外の三人は顔を見合わせた。高瀬も月島も乗り気じゃない。もちろん俺も。
「なんだかそれは反則技のような気が」と高瀬。
「知らぬが仏という言葉もあってだな」と月島。
俺はうなずいた。「何も起こらない未来が見えるならいいけど、もしとんでもないことが起こる未来が見えたらどうするんだよ?」
「変えちゃえばいいんだよ!」柏木は一人、張り切る。「ねぇセンセ。もし今の時点で悪い未来が見えたとしても、これからの行動次第でその未来は変えられるんだよね? センセが娘さんの命を救ったように」
「まぁおおむねそういう理解でかまわないよ」
「それなら見てもらおうよ。その方がスッキリするって」
ますますその気になる怖い物知らずとは対照的に、俺たち三人はなかなか賛同できずにいた。すると松任谷先生が仲裁するように口を挟んだ。
「それではこういうのはどうだい? 私は君たちのほんのちょっと先の未来を見る。ただし、何かが起こっていたとしても具体的なことは明言を避ける。オブラートに包んだ表現で伝える。あくまでもヒントというわけだ。いかがかな?」
「いかがかな?」柏木は偉そうに言う。俺たちは話し合って、それならば、と渋々ながら承諾した。
先生は椅子に深く座り直すと、占い師として黒マントを羽織っていた時のようにはるか遠くを見る目でこちらを見た。それから口を開いた。
「うむ。夢との関連性があるかどうかはわからないが、君たちにはそれぞれ、試練が待っているようだ。望む未来を手にするための、最後の試練」
やっぱり何か好ましくないことが起こるんだな、と俺は思った。「最後の試練……」と不安そうにつぶやいたのは、あれだけ威勢の良かった柏木だ。言わんこっちゃなかった。
そこで先生はかっと目を見開いた。「おっと。どうやらこの後、私自身にも試練が訪れるようだ」
「先生に?」と高瀬は言った。
「60過ぎの一人暮らしは寂しくてね」と先生は言った。「客人が来るとうれしくなって、ついうっかり玄関の鍵を閉め忘れてしまうんだ。今日も例に漏れず、君たちを迎え入れた後、ドアをそのままにしてしまった。それがいけなかった。もうまもなく、藤堂さんがここに上がり込んでくるよ」
そのわずか数秒後、玄関から物音がして本当に藤堂アリスが現れたこと以上に俺たちが驚いたのは、彼女が右手にナイフを握りしめていることだった。刃先に窓からさしこむ日差しが反射し、禍々(まがまが)しく光る。
「なんであんたたちがいるのよ!」アリスは金色の髪を振り乱す。
「どどどっ」高瀬はろれつが回らない。「どうしたっていうの、藤堂さん!?」
「あの男に復讐する」とアリスは先生を睨みつけて言った。「“未来の君”の占いのせいでうちは家庭をめちゃくちゃにされたの。占い師の正体があいつだってわかってから、どうやって復讐してやろうかずっと考えてた。どれだけ考えてもこの方法しか思いつかなかった。だからこの世から、あいつを消す」
月島は柏木の背後に隠れた。「ほら、こういう時は武闘派のアンタが止めなきゃ!」
「バカ言わないでよ!」柏木は俺の背後に隠れた。「向こうは凶器持ってんのよ!?」
そこで何を思ったか、先生がみずからアリスへ近寄っていった。
「藤堂さん、すまなかったね。君の言う通りだ。私は私の願いを叶えるため、多くの人を傷つけてしまった。そうすることで気が済むのなら、そのナイフで私の胸を刺せばいい。私も未来が見えてしまう人生にいささか疲れた。娘の命を救うという願いを叶えた以上、もうこの世に思い残すことは何もない。お望みならば、君の罪が少しでも軽くなるよう、私が刺すように命じたということにしてもいい。私は逃げも隠れもしない。さぁ、好きにしたまえ」
「神沢君!」高瀬もいつしか俺の背後に隠れていた。「なんとかしなきゃ!」
「なんとかしなきゃ、って言われても……」
見ればアリスは鬼気迫る表情をしているものの、ナイフを握る右手は小刻みに震えている。どうやら彼女の中の何かが、一線を越えることをためらわせているようだ。その何かを刺激してやればあるいは――。
そこで俺の視界の片隅に、あるものが映り込んだ。窓の脇に置かれている木彫りのフクロウたち。先生のコレクションなんだろう。
フクロウは〈福来朗〉だから縁起が良い。そのアリスの言葉が耳によみがえるのと同時に俺は、自分が今彼女を説得するのにうってつけのものを持っていることに気づいた。例の絵が描かれた画用紙をポケットから取り出し、描いた本人に見せる。
「アリス、よせ! おまえの右手はそんなことをするためにあるんじゃないだろ! このフクロウみたいに素晴らしい絵を描いて人の心を動かすためにあるんだろ! 美大に行って絵画を真剣に勉強するんじゃなかったのかよ? 将来一人前の画家になって、シカゴのオヤジさんに堂々と会いに行くんじゃなかったのかよ!? 俺がどうしてこの絵を持ち歩いていると思う? もし良くないもんが近づいてきても、絵の中でフクロウが羽ばたいて、それを遠ざけてくれるって感じたからだ。言ってみりゃお守りだ。おまえの絵には、そう思わせるだけの力がある。おまえは必ず一流の画家になる。俺が保証する。だから考え直せ、アリス!」
* * *
唯と湯川君に続き、今日三人目の来客を玄関のチャイムが告げた。
ただ今回は前の二人と違って、誰が来たのか僕も娘もすぐにわかった。なぜなら庭と道を隔てる竹垣のすきまから、見慣れた美しい黒髪が見えていたからだ。
娘は縁側から元気に立ち上がり、「先生だ!」と叫んで玄関へ走っていった。僕もその後を追った。
娘はドアを開け、先生に飛んで抱きついた。
来客はやさしく娘の頭をなでて、それから穏やかに微笑んだ。
「愛ちゃん、今日も元気だねぇ。その明るさは誰に似たんだろう? まぁ、それはそうと、先生が宿題として出していた、フクロウの絵はきちんと描けたかな?」




