第113話 帰ればおかえりと言ってもらえるところ 5
「大変なの、神沢君!」
高瀬から電話がかかってきたのは、この家で過ごす最後の大晦日くらいはまったりしようと、ソファにだらしなく寝そべった直後だった。
「神沢君、大変なの!」
「落ち着け、高瀬」俺は横になったままスマホに言う。「今日は12月31日だぞ? みんなのんびりしたいこの一年最後の日に、そうそう大変なことなんて起きないだろ。高瀬、落ち着け」
「神沢君、今、おうち?」
「ああ、そうだよ」
「そこを春には出て行くって前に言ったでしょう?」
「言ったね」と俺は言った。たしかに言った。この冬が始まってまだ間もない頃、母・有希子は春に仮釈放される父とよりを戻すと俺に言った。そして二人で亡き柏木恭一とのあいだにできた双子を育てていくと言った。母は新しい家族での新しい生活をこの家で始めたがっていた。その家族の一員になる気などさらさらなかった俺は『春にはこの家を出て行く。あとは好きにしてくれ』と母に告げた。それが一ヶ月前の出来事だ。
「言ったね」と俺はスマホを持ち直して繰り返した。
「実は」と高瀬は電話の向こうで言いにくそうに言った。「さっきまで私と晴香と月島さんの三人で一緒にいたんだけど、そのことを私、なにげなく喋っちゃったの。そしたら晴香がかんかんに怒っちゃって、『有希子さんにひとこと物申さなきゃ年を越せない!』って言うの。それで実際に今、有希子さんの住むアパートに向かってるんだ!」
「なんだって!?」俺はソファから飛び起きた。「そいつは大変だ!」
「でしょう? それで、晴香を止めるために私と月島さんも後を追うけど、神沢君も来てほしいの。大ごとになる前に。私たちだけじゃ、きっと止められないから」
「わかった」と言って俺は電話をきった。そして着替えながらため息をついた。この家で過ごす最後の大晦日。できれば家から一歩も出ず、ゆっくり思い出に浸りたかったのだが。
♯ ♯ ♯
ふたりと合流し母が住むアパート前に着くと、もうすでにドンパチ始まっていた。
母はちょうど年越し用の買い出しから帰ってきたところで絡まれたらしく、左手のバッグには寿司やらすき焼き肉やら蕎麦やらが見えた。双子は離れたところにある公園で無邪気に遊んでいた。母が避難させたのだろう。
「ひどいじゃない有希子さん!」と柏木が食ってかかった。「悠介が今住んでいるあの家から悠介を追い出して、双子と一緒に乗っ取るだなんて!」
高瀬と月島がなだめるものの、柏木はまったく聞く耳を持たなかった。どうやらさっそく俺の出番らしかった。「柏木、俺なら大丈夫だから」と俺は前に出て言った。「どのみち春には新しい環境での新しい生活が始まるんだ。それに俺はもうガキじゃない。18だ。18で家を出るっていうのは、なにもおかしいことじゃないだろ」
「悠介は首を突っ込まないでよ」
「おまえがうちの問題に首を突っ込んでるんだよ」
そこで母が口を開いた。
「あのね晴香ちゃん。追い出すとか乗っ取るとか、何か勘違いしているようだけど、私は悠介にあの家から出て行けなんて一言も言ってないからね? 私は悠介に判断を委ねたの。私たちと一緒に住んでもいいと言うならそうさせてもらうし、それが嫌だと言うなら他の住まいを探すって」
「同じことだよ」と柏木はすぐに言い返した。「そういう聞き方をされたら、悠介は『俺が家を出る。あとは好きに住んでくれ』って答えるしかないじゃない。まさかあの双子と一緒に生活するわけにはいかないし、かといって元は有希子さんが住んでいた家に住むなとも言えないし。実質的に『出て行け』って言ってるのと同じことだよ!」
母の顔にはあからさまに困惑が浮かんだ。
「どうして晴香ちゃんは私にいつもそこまで厳しく突っかかってくるの?」
「どうして、って、それは……」柏木は腕を組んで言いよどむ。「それは、なんて言えばいいのかな、えっと……」
そこであろうことか月島が助け船を出すようにこうささやいた。
「柏木が言いたいのはこういうことじゃない? 『有希子さんの言動に、悠介への愛をあまり感じないから』」
こともあろうに高瀬も続いた。「それだ! 愛だ! 晴香、がんばれ!」
「おい!」俺は慌てて振り返る。「二人とも、柏木を止めに来たんじゃないのかよ? 加勢してどうする!」
援軍を得た柏木は、すっかり息を吹き返した。「そう、愛なのよ!」とさも自分が思いついたようにのたまう。「一年生の時に富山で会ってからずっと感じてるけどね、あなたには親として子を想う気持ちってもんを感じないの。外面や言葉はきれいで立派だけど、ぜんぜん中身を伴ってない! 悠介のことなんかどうだっていいんでしょ!」
「そんなことない!」と母は左手からバッグを落として言った。「私は悠介を大事に想ってる。たしかに悠介にはこれまでつらい思いをさせてしまった。でも一日だってこの子を忘れたことはない。あの双子と同じだけ、悠介のことも愛してる」
沈黙があった。長い沈黙だった。それを破ったのは、やはり柏木だった。「有希子さん」と彼女は公園を見て言った。「あの子たち、今、いくつ?」
「8歳よ」
「わかった。それじゃ、こうしよう。有希子さんたちは春からあの一軒家に住んでもいい。でもその代わり、せめてあそこを、将来的に悠介がいつでも帰れる場所にしてあげて」
いつでも帰れる場所、と母は繰り返した。
「帰ればおかえりと言ってもらえるところ」と柏木は言い換えた。「つまり、悠介と同じように、あの双子も18歳になったら家から巣立たせて。今が8歳なら、ちょうど十年後だね。悠介も双子も同じだけ愛してるなら、できるでしょう? 悠介にはずっとそういう場所がなかったの。親におかえりと言ってもらえるところが」
おかえりと言ってもらえるところ、と母は自省するように繰り返した。
柏木は続けた。「十年後なら悠介はお父さんになってるかもしれない。子どもが――いや、あなたからすれば孫が――『おばあちゃんに会ってみたい』って言った時に『お父さんには帰る場所がないんだ』なんて悲しいセリフを、聞かせるつもり?」
母はしばらく考えてから「わかったわ」と答えた。「わかった。約束する」
♯ ♯ ♯
一人で家まで帰ってくると、玄関の前に変人の姿があった。もちろん彼はビデオカメラとスケッチブックを持っていた。そういえば今日は背後に気配を感じなかった。ドキュメンタリー映画の撮影はどうしたのだろう? 俺の後をついてくれば、柏木対母親という壮絶シーンをカメラに収めることができたのに。
「神沢君」と湯川君はとぼとぼと歩いてきて言った。「実は悲しいお知らせがあって」
「うん?」
「そろそろクラスの他の生徒たちの日常も撮りに行かないと、映画の完成が怪しくてね。だから神沢君の撮影は今日で終わりにしなくちゃいけないんだ」
「どうぞどうぞどうぞ」こんなに嬉しいお知らせもなかった。「遠慮なく他の奴のところへ行ってくれ」
「ちょっと! 僕の気持ちをわかってるくせに!」
俺の大ファンを自負する湯川君はひとしきり未練がましくわめいた後で、こんなことを口にした。
「ねぇ神沢君、あの三人のうち、誰と一緒の道に進むのか、決まった?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「クラス30人のありのままの姿とは別に、それぞれの大事な人へのメッセージを撮ってるんだ。ある人は友達だったりある人は先生だったりするんだけど、神沢君の場合はやっぱり、選んだ人がいいと思って」
「ここ何日か俺に密着していたならおまえもわかるだろ。今はまだ選べないよ」
「それもそうか」彼は苦笑する。「それじゃ、子どもにしよう」
「子ども!?」
「そう。カメラを回していて思ったけど、神沢君は月島さんを選ぶにしろ高瀬さんを選ぶにしろ柏木さんを選ぶにしろ、そう遠くない将来に――十年後にはきっと――お父さんになってるよ」
「そうかなぁ?」
「神沢悠介研究家の僕が言うんだ。間違いない!」
俺ももう麻痺しているのか、こいつが言うならそうかな、という気分になってくる。
「まぁたしかに、三人とも子どもを欲しがってはいたけどな……」
「さぁお父さん」湯川君はカメラを構えた。「お子さんへのメッセージをお願い」
「これで俺の撮影はクランクアップなんだよな?」
「残念だけどね」
なんだかおそろしく照れるが、この変人に付きまとわれることがなくなるのだから、やるしかなかった。
それにしても、何を話せばいいだろう? お父さん。親と子。どうしても、先ほどの柏木と母親のやりとりを思い出してしまう。そうこうしてるうちに、3、2、1、と監督がカウントダウンを開始した。「アクション!」
「おほん」と俺はかしこまって語り始めた。「そこにいるのは、息子か娘かわからない。でも神がかった勘を持つある人によればどうやら、俺には女の子ができるらしい。だから娘だと思ってこのメッセージを送る」
「ある人って柏木さんだね!」と監督はスケッチブックに書いた。自己満足なのだろう。放っておいて俺は続けた。
「俺は子どもの頃、わけあって両親と一緒に過ごすことがほとんどできなかった。母親にいたっては俺を捨てて家を出て行った。でもその母親は俺を愛しているって言う。正直、いまいち、ピンとこない。だから俺は、親の愛を疑って苦しむ子の気持ちは、誰よりわかっているつもりだ」
ここから先は一人称をお父さんに、と監督はスケッチブックで指示した。
「だからお父さんは、君を大事にする。とことんかわいがる。どこまでも愛し抜く。でもちょっと不器用で言葉足らずなところがあるから、その愛がうまく伝わらないこともあるかもしれない。もしその時はどうか大目に見てやってほしい。俺は、いや、お父さんは、君と出会えて幸せだよ――」
* * *
「俺は、いや、お父さんは、君と出会えて幸せだよ」
十年前の僕から娘へのメッセージが流れ終わると、湯川君はタブレット端末を操作して映像を止めた。
そして僕はといえば、縁側で転げ回っていた。恥ずかしいったらなかった。照れくさいったらなかった。体のあちこちに鳥肌が立ち、わけのわからない汗も出ていた。
そんな僕におかまいなしで湯川君は口を開いた。
「ね、娘さん。これでわかったでしょ? お父さんにとって君がどれだけ大事な存在なのか。今はコロコロしている変人になっちゃってるお父さんだけど、君がかわいくて仕方ないんだよ。だからもう口をきいてあげないなんて言わないで、仲直りしてあげてよ」
娘の頬は冬眠前のリスみたいに膨らんでいたが、やがて少しずつ空気が抜けてきた。
「しょうがないな。ユカワ君にめんじて、仲直りしてあげる」
僕はほっとして、娘の隣に座り直した。それから娘の頭を優しく撫でた。
「そうだ、大事なことを聞き忘れていた」と湯川君は僕ではなく、娘に言った。「ところで娘さん。君のお名前は、なんていうの?」
「あい」と娘は笑顔で答えた。「お父さんが、つけてくれたの!」
「あいちゃん、か」と湯川君はまるで親戚のおじさんのように言った。どんな字をあてるのか、尋ねもしなかった。「良い名前だ。うん。すごく良い名前だよ」
その方法はどうあれ、娘の機嫌を直してくれた湯川君には感謝しかなかった。それで僕はこの後の花見にも参加しないかと誘ってみた。しかし彼は自分の娘と動物園に行く約束をしているらしく、なくなく――本当に泣きそうになりながら――帰っていった。
彼を見送って縁側に戻ると、娘から話しかけてきてくれた。
「お父さんは、高校生まで過ごしたおうちに、一度も帰ってないの?」
「ああ、もう十年経つけど、一度も帰ってないよ」
「十年」と娘は何かを思い出したように言った。「それじゃ、もう、昔8歳だった双子はそのおうちにはいないんだ?」
日々の生活に追われてあまり考えていなかったけれど、言われてみればたしかにそうだ。あの大晦日から十年経っていた。
「お父さんのお母さんが十年前の約束を守ってくれていたなら、双子は18歳だからあの家から巣立ったはずだ」
「大丈夫」と言う娘の顔には、母の面影があった。「ずっとお父さんの思い出話を聞いていて思ったけど、おばあちゃんはたしかにお父さんを困らせたかもしれない。でもけっして悪い人じゃないよ。まして、そんな大事な約束をやぶる人じゃない」
「愛がそう言うなら帰ってみようかな」と僕は娘の名前を口にして言った。「なぁ愛。おばあちゃんに会いたいか?」
「うん、会いたい。会って、お父さんを困らせたことにひとこと物申したい!」
「やめてくれ。もうそういうのはもう、お父さん、こりごりだよ」
「冗談だって。ただおばあちゃんに一目会ってみたいだけ」
「それじゃ今度、あの家に行こう」と僕は言った。「十年ぶりに帰るとするか。おばあちゃんに孫の顔を見せるために。そして、あの言葉を初めて聞くために」




