第113話 帰ればおかえりと言ってもらえるところ 3
翌日、俺は高瀬に呼ばれて高瀬の家の高瀬の部屋で一緒に勉強をしていた。
もちろんふたりきりでと言いたいところだけど、あいにくボーダーコリーのチェリーが部屋に居座っていて、絶えず俺たちをじっと観ていた。まるで勉強以外のことをしないよう見張っているみたいに。
勉強を始めて30分が経過すると、高瀬が俺の問題集を教師のような目つきで覗き込んできた。
「神沢君、全然進んでないね?」
俺はうなずく。事実、1ページも進んでいない。
「どこか具合でも悪いの?」
「そういうわけじゃないけど、なんだかいまいち気持ちが乗らないんだ」
俺は正直にそう答えた。やらなきゃいけないと頭ではわかっているのに、なぜかやる気が出なかった。
「無理もないよ」と高瀬はテーブルに頬杖をつき、窓の外を眺めてつぶやいた。「誰かさんったら、三人の女の子のうち誰を選ぶかによって、行く大学が変わるんだもん。もしかしたら、進学するかどうかさえも。そんなあやふやな状況で、受験勉強に身が入るわけないよ」
俺は胸を押さえた。「誰かさんがチクリと嫌味を言うから、どこも悪くなかったのに、胃が痛くなってきた」
そこでチェリーが飼い主ではなくこちらに歩み寄ってきて、俺をいたわるように手を舐めた。それを見た高瀬はバツが悪そうに苦笑した。
「ごめんごめん神沢君。さすがに意地悪だった。まぁ長い受験勉強中には、わけもなくやる気が出ない日だってあるよね」
俺はチェリーに感謝した。高瀬はひとしきり間を置いてから、髪を耳にかけてこう続けた。
「ちなみに、『あなたの夢はなんですか?』って今誰かにもし聞かれたら、なんて答える?」
俺はチェリーの背中を撫でながら、それについて考えてみた。毛むくじゃらの感触はおのずと俺に、モップのことを思い出させた。
「そう聞かれたら、『獣医になること』って答えるだろうな」と俺は答えた。「モップを看取った獣医さん――柴田先生からは、獣医師という職業のきびしさやつらさをイヤっていうほど聞かされたけど、それでもモップを亡くした時に芽生えた熱い思いは俺の中から消えていないし、それに」チェリーと目が合い、思わず頬がゆるむ。「それに、俺は人にはあんまり好かれないけど、どういうわけか動物には好かれるみたいなんだ。うん。やっぱり、もし叶うなら獣医になりたいな」
「それじゃ、勉強をがんばらなきゃ」
「いや、それはわかってるんだけど」
「どうしても今日はやる気が出ない?」
「長い受験勉強中にはそういう日もあるって誰かさんが言ってた」
「しょうがないな」高瀬は自分の問題集を閉じる。「それじゃ特別に、やる気が出る、とっておきの裏技を教えてあげる」
「裏技?」
「そう。あのね、夢が叶った後の自分になりきってみるの」
「というと?」
「たとえば私の場合だと、翻訳家になったつもりで実際に行動してみるんだ」と翻訳家志望は言った。「ほら、SNSとかで『次の文を和訳してください』みたいな投稿があるでしょ? それに対して私はプロの翻訳家になりきって答えるの。ありきたりな教科書通りの訳でも、向こうはさすがプロだって言って感謝してくれるんだ。そういうのを小一時間くらいやってみると、不思議と受験勉強に対する意欲が戻ってるんだよね。どうしても夢を叶えたいっていう気持ちを思い出させてくれるっていうか」
「なるほど」俺はチェリーの胸に聴診器を当てる仕草をする。「でも、俺の場合は何をすればいいんだろう? まさかどこも悪くないチェリーを実際に手術するわけにもいかないぞ」
「それじゃ、こういうのはどう?」高瀬はまるで催眠術をかけるようにささやく。「あなたは今、大きな動物病院で勤務医として働いています。いろんな経験を積んで、腕に自信もついてきたので、そろそろ独立・開業を考えています。さぁ、どこに自分の動物病院を開くか、実際にこれから街を歩いて、良い場所を探してみましょう」
「なんだか面白そうだな」と俺は言った。ただ、一人ではあまり行く気がしなかった。「高瀬もついてきてくれるのか?」
「お望みとあらば」
♯ ♯ ♯
結局高瀬だけではなくチェリーもついてきた。
これじゃただの犬の散歩じゃないかとも思ったが、気がつけば四方八方を見渡して、頃合いの物件や土地を探している自分がいた。
開業を目指す獣医になったつもりで街を歩いてみると、不思議なもので、あまりぱっとしない過疎化の進む地方都市もそこかしこにビジネスチャンスが転がっているように見えた。そして面白いもので、ここはなんだか良さそうだな、と思ったエリアには、決まって例外なくもうすでに動物病院が建っていた。ひょっとして俺には開業医のセンスがあるんじゃないか、とちょっとくらい自惚れてもよかった。
高瀬が背後をちらちら気にかけだしたのは、二人と一匹で歩き続けて20分ほどが経った頃だった。
「ねぇ、さっきから、誰かにあとを尾けられているような気がするんだけど……」
思い当たる節が、大いにある。「湯川だよ」と俺は振り返りもせず断言した。「同じクラスの湯川ヒデキ」
「どうして湯川君が?」
「あいつ今、映画を撮ってるんだ。3年H組30人のありのままを映したドキュメンタリー映画らしい」
「なんのために?」
「10年後の同窓会で流すんだって。余興として。あの野郎、俺のファンとかわけのわからんこと抜かしてるだけあって、きのうからずっと俺に張り付いてるんだ」
「ということは、今も撮影中なんだ……」高瀬はそこで何を思ったか、両手で握っていたチェリーのリードを右手だけで持ち、左腕を俺の右腕に絡ませてきた。
「おい、高瀬!?」キタキター! と興奮する変人が目に浮かぶ。「こんなことしたら、間違いなく本編で使われるぞ!?」
「使ってもらおうじゃない」と高瀬は体をより密着させて言った。「映画なんでしょ? どうせなら私が登場したシーンで一番盛り上がってほしいもの。脇役なんて嫌。主演じゃないと気が済まない」
「負けず嫌いですこと」
♯ ♯ ♯
「ちなみに、どういう病院にしたいとかはあるの、神沢君……いや、神沢先生?」
腕を組みながら歩き続けてしばらくすると、高瀬はそう尋ねてきた。
「なんて言えばいいのかな、飼い主さんもペットも、気軽に入れる病院にしたいよな」
「居心地の良い病院」と高瀬は絶妙な言葉で言い換えた。
「さすが翻訳家先生」俺は感心する。「それが言いたかったんだよ。居心地は大事だよ。ドッグランとか作ってさ、うちの患者さんなら別に診察がなくても散歩がてらふらっと立ち寄って遊んでく、みたいなの、良くない?」
「それ、すごく良いね!」と愛犬家はお墨付きをくれる。「もしそんな動物病院が市内にあるなら、チェリーのかかりつけをそこに変える」
そんなような話をしながらぶらぶら歩き続けていると、いつしか閑静な住宅街に入り込んでいた。
左手には庭付きの一軒家が建ち並び、右手には流れのゆるやかな小川が流れている。小川の向こうにはこぢんまりとした林が見える。その中には散策用の小径が整備されていて、実際に何人かがそこで犬の散歩をしていた。
小川には橋が等間隔にいくつも架かっていて、その林が住民たちの大切な憩いの場になっていることがうかがえた。
「良いところだなぁ」と俺は思わずつぶやいた。
「ね」高瀬も同意する。「自然が身近にあるし、静かだし、秋になれば、紅葉がきれいだよ」
そのまま歩き続けていくと、左手には住宅だけではなく、隠れ家的なカフェや小洒落た雑貨屋も姿を現した。そしてどちらの店も、なんと犬同伴で入店することができた。犬を飼っている人にとっては楽園のようなところだなと俺は思った。しかし動物病院だけはどこにも見当たらなかった。
「ここがいい!」と俺はあたりを見渡して宣言した。「このエリアで開業する」
「見て見て。ちょうどあのおうちが売りに出てるよ?」
高瀬が指さした先には、大きな二階建ての建物があった。どうやら前の住人は二階で生活をして、一階で整骨院か何を営んでいたらしい。隣の区画はまるまる空き地になっていて、そこだけこの冬の間に降った雪が一度も除雪されず残っていた。それぞれに『売物件』『売土地』の看板がある。
「あの物件と隣の空き地をまとめて買っちゃえばいいんだよ」と高瀬は言った。「一階はリフォームすれば動物病院として使えそうだし、隣の空き地はフェンスで囲えば立派なドッグランになる」
「おお! たしかに! 居心地の良い動物病院ができそうだ」
そこで高瀬は遠い目をして、売りに出されている建物を見つめた。
「一階で神沢君は獣医さんとしてお仕事して、二階で私は翻訳家としてお仕事する。それってとっても素敵だな」
俺は黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
「翻訳がはかどらない時は窓から川や木を眺めたり、ワンちゃんを連れて近くのカフェや雑貨屋に出かけたりして、気分転換できる。うん。ここは翻訳家にとっても、良い場所だよ。静かで自然も多くて、子育てもしやすそう」
子育て、と俺は思わず繰り返した。「将来、子どもが欲しいのか?」
「二人くらい?」と高瀬は少し照れて答えた。「だって考えてみて、神沢君。互いに夢を叶えて、やりたかったことでお金を稼いで、そのうえ子どもにも恵まれたら、最高に幸せだと思わない?」
幸せ以外の何物でもなかった。俺は深くうなずいた。
「女の子と男の子、できれば一人ずつがいいな」と高瀬は言った。「ああ、でも、私たちが翻訳家と獣医なら、忙しくて二人も育てるのは難しいかな? いや待てよ。それとも私がちょっとはお仕事をセーブして……」
「待て待て」と俺は苦笑して制した。「何も今からそこまで突き詰めて悩まなくても」
高瀬ははっとする。「想像が止まらなくて、つい」
そこでいかにも商用車といった感じのライトバンがやってきて、俺たちの前に停まった。運転席からいかにも不動産屋といった感じのおっさんが降りてきて、『売物件』と『売土地』の看板を回収し、車のトランクに放り込んだ。
すぐに高瀬がおっさんに声をかけた。「あの、誰かに買われちゃったんですか?」
「そうだで」とおっさんは言った。「ついさっき取引が成立したんだで。まだ買えるって勘違いされちゃいけねぇんで、看板を回収しに来たんだで」
「どういう人が買ったんだで?」と俺はあやうく言いかけた。「いや、どういう人が買ったんですか?」
「獣医さんだで」とおっさんは答えた。「なんでもここで動物病院を開業するみたいだで。そっちの空き地は、えっと、なんつってたかな。たしか、どぐらん? にするみたいだで」
「ドッグラン」と高瀬は面白くなさそうに言った。
「ああ、それだで」とおっさんは笑顔で言った。そしてトランクを閉めると、呑気に鼻歌を歌いながら運転席に乗り込み、ライトバンを走らせた。
車が見えなくなると、チェリーが今度は俺ではなく飼い主をいたわるように手を舐めた。
「まぁ、やる気は出たよ」と俺は言葉を選んで声をかけた。「高瀬のおかげだ。本当にやる気が出た。さぁ、帰って勉強しよう」
「今度は私のやる気が出ない」高瀬はそう言った。「今から翻訳家にとって、もっと良い場所を探すから、神沢君。つきあってくれない?」
俺はチェリーと顔を見合わせた。うちの飼い主がごめんね、とその目が言っている。心なしか、もっと散歩したいと聞こえた気もする。
「お望みとあらば」と俺は言った。




