第112話 誰も傷つけずに幸せになることはできるのだろうか? 3
その紙切れを俺が見つけたのは、午後4時を少しまわった時だった。6時開始予定のパーティに向けて、みんなそれぞれの持ち場で準備を進めていた。
ありがたいことに三人娘から便利屋の役割を仰せつかった俺は、彼女たちの呼びかけに応じてリビングやキッチンをせわしなく行ったり来たりしていた。
28度目の往復の途中で、その紙切れが床に落ちていることに気づいた。ぱっと見はゴミかとも思ったが、それにしては紙は妙にていねいに折り畳まれていた。まるで誰かが決して口に出せない秘密をそこに書き記したみたいに。
それで俺は怖い物見たさも手伝って、紙を拾い、折り目を開いてみた。それはどうやら日記帳の一部であるらしかった。そこには黒のボールペンでこう書かれていた。
「どうしよう、他に好きな人が、できちゃった」
俺は紙切れを拾ったことをひどく後悔した。触らぬカミに祟りなし、と思った。その筆跡はどう見ても男のものでもなければ小学生のものでもなかった。つまりこの紙を落としたのは、太陽と唯以外の三人の可能性が高いということになる。
またやっかいなことに、「どうしよう」は柏木の字に見えたし、「他に好きな人が」は月島の字に見えたし、「できちゃった」は高瀬の字に見えた。
とてもじゃないがこのままではパーティどころじゃない。俺は紙切れをポケットにしまい、三人娘の様子を順番にそれとなく探ってみることにした。
ちょうどキッチンでお菓子作りをしている月島から、お呼びがかかった。
「おい、なんでも屋。冷蔵庫から生クリームをとってくれ。今、手が離せないんだ」
俺はキッチンへ行って言われた通りにした。そして機を見て話しかけた。
「最近、あれの方はどうだ?」
「あれ」聡い月島はすぐに頭で“男性恐怖症”と置き換えたようだ。「一進一退ってとこかな。元凶の鳥海慶一郎をブタ箱送りにしてやったことで劇的に改善するかと思いきや、そういうわけでもないんだね」
「そっか」
「ま、私としても、キミ以外の男とはまともに会話もできない涼っちで高校を卒業したくないのでね。これでも“あれ”を克服するため、努力というものをしてるのだよ」
「努力?」
「マルメ君って覚えてるでしょ?」
「もちろん」丸目守。鳥海慶一郎の腹違いの弟で、月島に恋した一年生だ。
「このところ私、マルメ君に頼んで、会話相手になってもらってるんだ」
「つまりあいつとよく会ってるんだ?」
「そう」
「ふたりきりで?」
「そう」
「ふぅん」
「マルメ君ったら、クッキーを作って持っていったら、すごく喜ぶの」
「あいつに会うために、クッキーをわざわざ作って持っていくのか?」
「当たり前だろう? 貴重な時間を割いてもらっているのに、手ぶらってわけにはいかないだろう?」
俺は月島がマルメのために早起きしてクッキーを焼いているところを想像した。体温が1℃上がった気がした。
「おや?」と月島は俺の顔を覗き込んで言った。「ひょっとして、嫉妬してるのかな?」
「そ、そんなんじゃないよ」
♯ ♯ ♯
廊下に出てみると、柏木がスマホで誰かと話していた。心なしか声色は弾んでいる。彼女は俺の存在に気づくと、まるで火遊びがバレたみたいにはっとした。そして慌てて通話を終えた。
「どうした。また男に言い寄られているのか?」
俺が冗談めかしてそう聞いてみると、あろうことか「そんなとこ」と返ってきた。
「困っちゃうよ、まったく」
「そう言うわりにはずいぶん楽しげに話してたな?」
「そ、そう? 気のせいじゃない?」
「ちなみに、誰だ?」
「えっと、C組の明智くん」
明智は俺よりずっと明るく、ずっと社交的で、ずっと見た目が良かった。おまけに父親は不動産関係の会社を経営する資産家で、父親が服役中の俺とは何もかも大違いだった。でもどういうわけか、彼の浮いた話を聞いたことがない。
「そういえば明智って、彼女を作ったことないよな?」
「それはね、一年生の頃から、あたしのことを好きだったからなんだって」
「ふぅん」
「そんなのを聞いちゃったらさ、冷たくあしらえないじゃない? それでついきのうも、夜遅くまで長電話に付き合っちゃった」
俺は柏木が一日の最後に明智の声を聞いて眠りにつくところを想像した。体温がまた1℃上がった気がした。
「あれ?」と柏木は俺の顔を覗き込んで言った。「あれれ? 嫉妬してたりする?」
「そ、そんなんじゃないよ」
♯ ♯ ♯
高瀬はリビングで料理を載せるテーブルの拭き掃除をしていた。俺はそれを手伝いながらしばし当たりさわりのない話をした。それからさりげなくこう切り出した。
「つかぬことを聞くけどさ。俺になにか隠してることとか、ないかな?」
高瀬は手を止めてそれについて考えた。
「隠してたつもりはないけど、話そうかどうか迷っていたことなら、ある」
「なんだろう?」
「実は私、『未来の君に、さよなら』の担当編集さんにデートに誘われちゃって」
「なんだって!? 編集ってどんな奴だ?」
「素敵な人だよ。27歳で慶応卒で、カナダ生まれらしくて英語もペラペラで、おまけにモデルさんみたいに背が高くて――」
「素敵かもしれないけど、でも、大人が高校生をデートに誘っちゃだめだろ」
「ま、デートっていうのは、大袈裟だったかも。無事に小説を出版できた記念として、今度ご飯でも一緒に行きませんか、って言われただけ」
「いや、それは立派なデートだろ」俺はすかさず指摘する。「で、断ったんだろうな?」
「ま、受験生ですからねぇ」と高瀬は言った。受験さえなければ誘いに応じたかのような口ぶりだ。「でも編集さん、私と小説の趣味が合うの。英語圏の小説もよく読むっていうし、翻訳家を目指すなら、貴重な経験になったかもな……」
「ふぅん」
俺は高瀬が大人の素敵なオトコに食事に誘われて頬を染めるところを想像した。体温がまた1℃上がった気がした。
「うん?」と高瀬は俺の顔を覗き込んで言った。「もしかして、嫉妬してるの?」
「そ、そんなんじゃないよ」
♯ ♯ ♯
「どうした、悠介」
俺がソファでぼうっとしていると、太陽が心配そうに声をかけてきた。
「具合でも悪いのか? なんだか40℃近い熱でもあるような顔してるぞ」
俺はポケットから例の紙切れを取り出し、友に事の顛末を説明した。
「なるほど」と太陽は隣から紙を見て言った。「『どうしよう、他に好きな人が、できちゃった』。たしかにこいつは、誰の字かわかんねぇな」
「でも女の字だ」
「ああ。それも17、8の女の字だ」
俺はキッチンできゃっきゃ言いながら手分けしてケーキにいちごを乗せる三人を遠巻きに眺めた。
「なぁ太陽。なにかそれらしいことを聞いてないか? たとえば月島から『年下がいい』とか、柏木から『玉の輿がいい』とか、高瀬から『年上がいい』とか?」
「なにも聞いてねぇぞ」と太陽は即答した。
俺はうなだれた。「いったい誰が書いたんだ……」
「なぁ悠介」と太陽は間を置いてから、俺の顔を覗き込んで言った。「これを書いたのが誰にせよ、あの子たちの心が他の誰かに向いているのかもしれないと思うと、胸が痛いか?」
「痛いよ」と俺は正直に答えた。「そりゃ痛い」
「そうか。でもよ、良い機会だからよく考えてみろよ。あの三人はそれと同じ痛みをこの三年間ずっと抱えながら過ごしてきたんじゃないか? ああやって笑ってケーキ作りの仕上げをしている今だって、その痛みは消えてないはずだ」
反論のしようがないので俺は黙っていた。
「ま、誰がどういう意図でそいつを書いたのかはわからん。おまえさんにヤキモチを焼かせるためのブラフかもしれんし、ただ単に好きな曲の歌詞を写しただけかもしれん。いずれにせよ、あの子たちの気持ちが少しでもわかったなら、拾ったのは正解だったな」
紙切れのことはいったん保留するとして、俺はそう遠くない未来に必ず訪れる決断の時を想像した。
俺は幸せになるため三人のうち誰か一人を選ばなければいけない。それは言い換えれば、他の二人に別れを告げるということだ。その時、その二人の胸はどれだけ痛むのだろう? ちょっと考えただけでも体温が3℃くらい下がった気がした。
「誰も傷つけずに幸せになることはできるのだろうか?」
俺は気づけば、ぼそっとそうつぶやいていた。
隣で太陽が何かを言いかけたところで、キッチンから三人がケーキを持って出てきた。
高瀬も柏木も月島も笑顔だった。
「さぁみんな」と柏木がとびきり明るい声で言った。「そろそろパーティを始るよっ!」




