第112話 誰も傷つけずに幸せになることはできるのだろうか? 1
家の呼び鈴が鳴ったのは、娘の鼻にまたしても桜の花が着地した時だった。当の本人は僕の話を聞くのに集中していて、またしてもそれに気づいていなかった。
よっぽど花びらをとってあげようかとも思ったが、あまりにも愛くるしいのでちょっと意地悪だけど縁側にそのまま娘を残し、僕は一人で玄関へ向かった。
それにしても誰が来たのだろう? 花見が始まる時間にはまだ早いし、水回りの修理を呼んだ覚えもない。心当たりがさっぱりなかった。
僕が首をかしげながら玄関のドアを開けると、そこには、知らない学校のセーラー服を着た若い女の子が立っていた。僕はもっと首をかしげた。
「えっと、迷子の子かな?」
「迷子じゃない!」と少女は小生意気に言った。「私はこの家に用があって来たの」
「この家に」
「というか、あなたに」
「あなたに」僕は自分を指さす。「えっと、どちらさん?」
「わからない?」
「わからない」
「あなたは絶対に私のことを知ってる。私をよく見て」
面と向かってそう言われちゃ仕方ない。僕は彼女の姿を間近でまじまじと見てみた。
大きい瞳は朝の光のように輝き、白い肌は昼の空のように澄みきり、黒い髪は夜の海のように神秘的だ。どこかで会ったような気もするし、初対面のような気もする。
いずれにせよ率直に言って、きれいな女の子だ。とてもきれいだ、と言ってもいい。歳は17か8だろう。もし自分が高校生でこんな子が同じクラスにいたら間違いなく虜になっているな。そんな考えがぼんやり浮かんだところで、僕は頭を振った。
いかんいかん。僕はもう30歳手前のいい大人だ。娘だっている。若い子にうつつを抜かしてなんかいられない。下手すりゃ後ろに手が回る。
「ごめんな。本当にわからないんだ」
少女は面白くなさそうに鼻を膨らませた。
「しょうがないな。それじゃ、わからせてあげるから、こっちに背中を向けて」
「背中を? 何をする気だ?」
「いいから、早く」
少女はなかば強制的に僕の体を反転させた。そして20歩ほど後ろに下がった。僕はいちおう警戒して横目で背後を見ていた。ほどなく彼女は助走をつけて僕の背中に勢いよく飛び乗ってきた。
「さすがに私が誰かわかったでしょう、パパ?」
僕は反射的にその体を受け止めていた。さすがにこの小生意気な女子高生が誰なのかわかった。僕は彼女の歳くらいの頃に一ヶ月ほど、口のききかたも知らない小生意気な7歳児の父親になったことがある。あの時もよくおんぶをせがまれたものだ。思わず笑みが漏れる。
「大きくなったな、唯」
「でしょう?」と成長した唯は背中で言った。「それにかわいくなったでしょう?」
「ああ。すっかり美人さんだな。でも、唯は元からかわいかったけどな」
「え? ロリコンだったの?」
「な、何を言うんだ」
背中から笑い声が聞こえる。からかわれたのだと遅れて気がつく。
「そ、それはそうと、川崎に住んでたんじゃないのか? 登戸のマンションに?」
「ちょっと用事があってこの近くまで来たの。せっかくだから、パパに会おうと思って。それに噂で聞いたけど、娘さんが生まれたそうじゃない。これは一目見ておかないと」
「そっか。娘は縁側にいる。今ちょうどふたりで桜を見ながら、高校時代の話をしていたところなんだ」
「それじゃ、縁側へゴー!」
「あのな、唯。いい加減、背中から下りてくれないか?」
結局僕は唯のワガママをきいて、彼女をおんぶしたまま縁側へ向かった。女子高生を背負って戻ってきた父親を見ると、娘は当然ながら驚きの表情を浮かべた。
「さっき話したよな」と僕はそんな娘に声をかけた。「お父さんが高校二年の冬に小さい子の面倒をみていたことを。彼女がその時の子だ」
そこで唯はやっと背中から下りた。そして娘の前に立ちはだかるように立った。
「そういうわけでこの人は私のパパでもあるから。私はパパが11歳の時にできた子どもなの」
「よせよ」と僕は呆れて言った。「純粋無垢な6歳児に嘘を吹き込むなって。信じちゃったらどうすんだよ」
娘は縁側から立ち上がると、僕と唯のあいだに割って入ってきた。
「お父さんは私だけのお父さんだもん! 誰にも渡さないもん!」
「おおっ。言うねぇ」唯は娘と目線の高さを合わせるようにしゃがんだ。鼻に手を伸ばし、でも、と続ける。「でも残念ながら、鼻にこんなものをつけてちゃ、立派なセリフも台無しだよ?」
娘は桜の花びらを目の前でひらひらされて、顔が真っ赤になった。「いじわる!」
「ごめんごめん。かわいくて、つい。それにしても、完全にお父さん似だね。とくに目元なんかそっくり」
「会う人会う人みんなにそう言われるよ」と僕は照れて言った。
「そういえば、奥さん――この子のお母さんは?」
僕は娘の顔を見た。そこにはちょっと複雑な表情があらわれていた。僕は彼女の気持ちを汲み取って言葉を選んだ。「ああ、今、なにかと立て込んでいてな……」
「そう」と唯はとくに訝しむでもなく言った。「パパがあの人と結婚したって聞いたときは、悔しかったな。だって私は本気で将来パパと結婚するつもりでいたからね」
「え!?」娘は仰け反る。「それ、本当!?」
「これは嘘じゃないよ、娘ちゃん。何を隠そう、お姉さんの初恋は、この人だから」
娘は汚らわしいものでも見る目で僕を見上げてくる。どういうわけかこういう時だけは、母親そっくりだ。
「初恋といえば」と唯は僕の気も知らずに言った。「やっぱりあの日を思い出すな。ねぇパパ。三年生のクリスマスの話は、もうしたの?」
「いや、それが、今からちょうどしようと思っていたところなんだ」
「そうなんだ! いい時に来たなぁ。せっかくだから私も聞いていこう」唯はまるでこの家の子みたいに娘と一緒に縁側に腰掛けた。「あのね娘ちゃん。このお話はオチが本当に面白いから、楽しみにしていて」
「わかった。さぁお父さん。早く続きを話してよ」
「それじゃ話を再開しようか」と僕は言って、ふたりの間に腰掛けた。「お父さんの高校最後のクリスマスイブはどうして、一生忘れられない一日になったのかを――」
* * *
「クリスマスパーティはやります!」
柏木が長テーブルの左側でそう主張すれば、すかさず太陽が対岸から反論した。
「やらん! やりたきゃおまえ一人でやれ!」
「いやだ! みんなでやるの!」
二人の水掛け論はもうかれこれ十分以上続いている。クリスマスイブを一週間後に控えたこの日、俺たち五人はいつもの旧手芸部室で勉強会を開いていた。
柏木はテーブルに激しく手を突く。「なんでそんなにやりたくないのよ!」
「受験生だからだ!」太陽の口ぶりはまるで、宇宙の真理を解くようでもある。「これ以上真っ当な理由があるか。ツリーを飾ったりチキンを頬張ったりしているあいだにもライバルは机に向かって着々と力をつけていきやがる。たかが一日かもしれん。でもされど一日だ。そのわずか一日の差が合格と不合格をわけることにもなりかねん。柏木よ、おまえも大学を受けるんだろ? それもトーダイを。だったらそれくらいわかれよ。パーティなんて論外だ」
それを聞くと柏木は珍しくしゅんとした。太陽はさすがに言い過ぎたと思ったのか、声色を変えてこう聞き返した。
「そういうおまえは、なんでそんなにパーティがしたいんだ?」
「だって」と柏木はうつむいて言った。「この五人で集まってワイワイできるチャンスなんて、もう来週のクリスマスくらいしかないじゃない。高校生活最後のクリスマス。良い思い出作りになればいいな、って思っただけ」
太陽は何も言えなかった。すると柏木は死んだふりをしていた魚のように、はたと顔を上げた。「ねぇ。他の三人はどう思う?」
「私は反対」と月島は迷いなく答えた。「理由は葉山氏がほぼほぼ代弁してくれたでござる」
「優里は?」
「私も反対かな」と高瀬は少し迷った後で答えた。「晴香の気持ちはわかるけど、入試が終わった後でもパーティはできるわけだし」
「悠介は、どう?」
「個人的には反対だ」と俺は言った。「でも、結果的には、クリスマスにパーティ的なもんはすることになると思う」
「え? どういうこと?」
「あのな」俺は四人の顔を見渡した。「唯が、帰ってくるぞ」
「ユイ坊が?」唯に“ダチ”認定されている太陽は身を乗り出す。「川崎に引っ越したんじゃないのか? なんでまた?」
「唯の母親のことは覚えているか?」
「おう。娘を一人残して旅行に行っちまうダメダメな母親だったが、改心して、今は新聞記者を目指し日々勉強中なんだろ?」
「ああ。まずは大学に行くため予備校に通っているわけだが、本人によればなんでも、クリスマスあたりに追い込みの合宿があるそうだ。で、その合宿に参加したいから、二三日のあいだだけ唯の面倒をみてくれないかって頼まれたんだ。唯も俺に会いたがってるって言うし、俺としては占い師の件で協力してもらった恩があるから、OKしたんだ」
「悠介も受験生なんだけどね……」
柏木は唯の母親に不満があるようだが、今からでも夢を追えばいいと当時26歳のシングルマザーを焚きつけたのは他でもなく自身であるからして、それ以上は言えない。
「とにかく、今度のクリスマスに唯は帰ってくる。俺は夏に川崎で一度会ってるが、みんなはまるまる一年会ってないだろ? これを逃すともうあいつと会う機会はないかもしれない。さぁ、どうする?」
「悠介。おまえさんも悪い野郎だ」太陽は顔をほころばせる。「ユイ坊のやつが故郷に帰ってくるっつーのに、何もしないわけにはいかねぇだろが」
月島はうなずく。「唯ちゃんの歓迎会も兼ねてのパーティなら、やぶさかではない」
高瀬は指を立てる。「他の日で105%がんばれば、一日くらいハメを外したって大丈夫だよね」
「決まりだね!」と柏木はもう春が来たかのように言った。「それじゃ12月24日は悠介んちに集合!」
そこで高瀬が小さく手を挙げた。「あの……その二日前の22日は私の18歳の誕生日でね……」
「わかったわかった。それじゃ24日は唯の歓迎会兼優里のお誕生会兼クリスマス会ってことね。悠介の言葉を借りれば、とにかくパーティ的なもんをしよう」
かくしてほとんど勉強をせずに勉強会がお開きとなり、俺は柏木と校内を歩いていた。他の三人はそれぞれ用事があるらしかった。柏木の体が隣でふらついたのは、これから階段を下りようというまさにその時だった。
「お、おい!」俺は咄嗟に彼女の体を支えた。「大丈夫かよ?」
「ごめんごめん。あやうく階段を転げ落ちるところだったね。あはは……」
「あはは、じゃないよ。どこか具合でも悪いのか?」
「いや、実は最近ちょっと夜眠れなくてね。それで今も急に睡魔がきたの」
「夜眠れない? どうして?」
「それがさ、おかしな夢を見るの。何度も何度も繰り返し」
「どんな夢だ?」
「なんかね、学校の人もうちの人も誰も、悠介のことを知らないの」と柏木は言った。「誰に尋ねても『神沢悠介なんていう名前は聞いたことがない』って言うの。そんなわけないって思ったあたしは自分の部屋に戻るんだけど、悠介から写させてもらったノートも一緒に撮った写真も見当たらないの。街中を探すけど、やっぱり悠介はどこにもいない。そこでやっと気づくの。ああ、あたしは長い夢を見ていたんだ、って」
俺はため息をつかずにはいられなかった。高瀬が見たという夢と酷似している。二人ともここ最近、俺と過ごした三年間は夢だったという夢を見ている。これはどういうことだろう? ただの偶然だろうか? それとも……。
「ねぇ悠介。明日になったらいなくなってるなんてことは、ないよね?」
「大丈夫だ」俺は彼女に対してというよりはむしろ、自分に言い聞かせるように言った。「俺はいなくなったりしない」
「ていうか、今、いるよね?」
「おまえの目の前に、いるだろ」
「本当にいるかどうか、試していい?」
「お、おう」
潤いを帯びた色っぽい唇がどうしても目にとまる。あの方法で試すのかな。そう思って背筋を伸ばすと、柏木は腰を深く下ろし、右手で拳をつくり、そしてその手をまっすぐ伸ばしてきた。それは強烈な右ストレートとなって、俺の無防備な脇腹に直撃した。
「よかった!」柏木は飛び跳ねる。「いるね。悠介、いるね! 安心した。もしパンチが悠介の体をすり抜けたらどうしようかと思った」
俺は身を屈めることしかできない。「あのな、痛ぇよ」




