第111話 消えていなくなったりしないよね? 3
高瀬の家を訪れるのはこれが初めてじゃなかった。厳密に言えば二回目だった。ただ前回は高瀬の母姉になかば拉致されるようなかたちで無理やり連れてこられたので、実質的には今回が初めてと言ってよかった。
あの時はリビング以外の場所を自由に見て回る余裕なんてなかった。トイレすら行けなかった。高瀬がどんな家で生まれ育ったのか知りたいと俺が言うと、彼女はいそいそと案内役を買って出てくれた。もちろんボーダーコリーのチェリーもそのツアーに同行した。
一階は開放感のある広いリビングの他に、和室と洋室が一室ずつ、さらに父・直行さんの書斎と母・汐里さんの衣装部屋があった。和室は来客をもてなすための応接間になっていて、洋室は両親の寝室になっていた。洋室の中心には思わず愛を叫びたくなるゴージャスなダブルベッドが置かれていた。
「40を過ぎた今でもお母さんとお父さんは一緒に寝ているの」と高瀬は気恥ずかしそうに言った。
今でも直行さんは俺の母親を狙っているの、とはちょっと言えなかった。
キッチンは機能的なうえに動きやすく、料理するたび踊り出してしまいそうだった。オーダーメイドだという風呂にはジャグジーがついていて、入浴するたびどんな疲れも吹っ飛びそうだった。トイレは清潔を通り越して神聖ですらあり、用を足すたび讃美歌が聞こえてきそうだった。
夜なので庭には出なかったが、そこは天気が良い日はチェリーの遊び場になっているらしい。
二階には部屋が四つあった。いちばん南の日当たりの良さそうな部屋が高瀬の私室で、いちばん北の日当たりの悪そうな部屋が姉の明里さんの私室だった。姉妹で部屋を離しているのは何か理由でもあるのか俺は聞いてみた。
「だってあの人、暇さえあれば男をうちに連れ込むんだもの」と高瀬は腕組みしてぼやいた。「前は隣同士だったんだけどね。さすがに私が我慢できなくなって、あの端っこの部屋に移ってもらったの」
お盛んな姉上の存在が高瀬の悩みの一つだということをすっかり忘れていた。
「なるほど」
見ればどういうわけか彼女は頬を染めていた。でも、と伏し目がちにつぶやく。「でも、今日は、私が連れ込んでるんですけどね」
「俺、連れ込まれてるんですね」
「べ、べつにいいよね? お姉ちゃんなんて年に百日だもん。私だって一日くらい……ね?」
「ま、まぁ、一日なんて言わず、何日でも」
チェリーは敏感な嗅覚で何かを嗅ぎ取ったのか、俺たちを横目で見やると、いたって自然に階段を下りていった。水でも飲んでこようかな、という風に。なかなか気の利くツアーコンダクターだ。
とはいえ夜はまだ比較的浅かったので、俺たちは一階に下りて受験生らしく勉強することにした。俺は苦手な英語を高瀬に教えてもらう代わりに、彼女が苦手な数学を教えてあげた。
しばらく勉強を続けているうちに、ふたりとも小腹がすいてきた。英語の長文問題がアリゾナ州のピザ屋の経営戦略についての英文だったせいもあって、ピザが食べたいね、なんていう話になった。
あいにく食べようと思えば一から生地をこねて窯で焼かずとも家で食べられるのが俺たちの生きている世界だった。それでデリバリーのピザを注文した。
「なんだかすごく悪いことしてる気分」と高瀬は指についたトマトソースを舐めて言った。
「悪いこと?」
「だって家族のいないおうちに男の子を連れ込んで、こんな遅くにピザを食べてるんだよ? 普段ならもう歯磨きして寝る準備をしている時間なのに。これはイケナイことでしょう?」
「そう言うわりには、全然悪びれる様子がないように見えるけど」
「うん。それどころか、心躍ってる。イケナイことって、楽しいんだね」
「今日の高瀬さんは悪い子だ」
彼女は戯けて悪女っぽく笑うと、最後の一切れを美味しそうに頬張った。そして立ち上がった。
「さて、そろそろお風呂沸かさなきゃ。神沢君もお父さんと長くお話しして疲れたでしょう? ジャグジーで疲れを癒やして」
♯ ♯ ♯
もっとイケナイことをするつもりで風呂から彼女の部屋へ行ってみれば、ベッドの隣には客人用の布団が敷かれていた。
先に入浴を済ませた高瀬は、パジャマを着てベッドでくつろいでいる。
俺は荒々しくベッドに飛び込もうかどうか迷ったあとで、結局大人しく布団に潜り込んだ。彼女が俺の入浴中にわざわざ布団を敷いたということは、それ自体が一つのメッセージだ。たぶん。
「ところで、お父さんの話ってなんだったの?」
小さな豆電球だけが灯るなか、ベッドから高瀬が訪ねてきた。
「他でもなく、品行方正で悪い事なんか一つもしたことのない、自慢の娘のことだよ」
「私のことか……」
俺は笑うのをこらえる。
「で、私がどうしたって?」
「ざっくり言うと、高瀬と一緒になれっていう話だった。社長殿、『優里を選ぶならタカセヤの社員にしてやる。大学の講義の合間に私の運転手をやれ。報酬は弾む』だそうだ」
「それ、いいね! だってお父さんの監視下なら、そう簡単に浮気もできないだろうし」
「な、なに言ってんだ。そもそも浮気なんか、しないから」
「どうでしょうかねぇ……」
父親の魂胆を知ってか知らでか、隣のベッドから『男はああだこうだ』とぶつぶつ聞こえてくる。話題を変えた方が良さそうだった。
「そ、それにしても、こういう話が持ち上がってくると、つくづく実感するよ。次の春には生活が今とは一変してるんだな、って」
「そうだよね。特に神沢君は家を出なきゃいけないわけだから」
そうだよね、と俺は思った。春には母と父があの家で住み始める。おまけに母と柏木恭一のあいだに生まれた双子も。そこはもう、俺の居場所じゃない。
「ねぇ、神沢君。マジメな話、春からの住まいはどうするつもりなの?」
「まぁ、なんとかするよ」
「なんとかする? そんな簡単なことじゃ――」高瀬はベッドの上でため息のようなものをついた。「そっか。考えてみれば、神沢君が晴香を選べば『鉄板焼かしわ』が新しいおうちになるし、月島さんを選べば東京の『月島庵』が新しいおうちになる。春からの住居で困るのは、私を選んだ場合だけなんだね……」
高瀬がそんなことを言うから、気まずい空気になってしまった。でもその空気を払拭したのは、高瀬自身だった。
「そうだ神沢君! いっそ、うちに住めばいいんだよ!」
「ここに!?」
「そう! この家に住めば、私の目が届かないのをいいことに、脚のきれいな女の子を泊めたりすることもできなくなる!」
「どんだけ浮気が心配なんだよ」
高瀬はくすくす笑った。「冗談はともかく、本当にうちにおいでよ。さっき家の中を一通り見てわかったと思うけど、うちは四人と一匹で暮らすには十分に広いから、一人増えてちょうどいいくらい。それにもし自分の部屋が欲しければ、隣の元お姉ちゃんの部屋を使えばいいし。うん。何の問題もないよ」
「高瀬はよくても、他の家族はどう思うかな?」
「大丈夫」次女は自信たっぷりに言う。「お父さんはトカイとの政略結婚を阻止した神沢君に頭が上がらないし、お母さんは元々男の子が欲しかったっていうのもあって、神沢君をすごく気に入っている。これまでさんざん好き勝手やってきたお姉ちゃんには文句を言わせない。チェリーはよくなついてる。うん。やっぱりなんの問題もない。しいて挙げるとすれば、酔っ払ったお姉ちゃんが自分の部屋と勘違いして、下着姿で入ってくることくらいかな」
そいつは大問題だ、と俺は思った。「ちなみに、チェリーの遊び場になってる庭に、桜の木はあるかな?」
「桜の木? なんで?」
「いやほら、十年後の花見」
「さっそく幹事のお仕事してるんだね。えらい。でもごめん。残念ながら、うちには桜の木はないんだ」
「そっか」
「とにかくさ、春になったらここにおいでよ。考えておいて」
「考えておく」
「ま、すべては私を選んでくれたら、の話なんだけどね」
それからはしばらく静かな時間が流れた。俺も喋らなければ高瀬も喋らなかった。ただしどちらも寝ているわけじゃなかった。高低差があるので高瀬の表情こそわからないけれど、それでもベッドから聞こえる呼吸のリズムは起きている人のそれだった。
「眠れないね」と高瀬は言った。
「眠れないな」と俺は言った。
「ねぇ神沢君」と高瀬は言った。「今私が何を求めているか、わかる?」
天井から長年高瀬の顔を見てきたであろう豆電球に俺はヒントを求めた。しかしそれは無表情で与えられた役割をこなしているだけだった。
「わからないな」
「私の立場になって考えてみて」と高瀬は言った。「あのね神沢君。私は今、『私はあなたのことが好きです。私はあなたが隣にいてくれないとだめみたいです』。たった二週間前にそう伝えた人と、寝床は違っても、自分の部屋で一緒に寝ているんだよ?」
俺は彼女の肌の感触を思い出し息を呑んだ。「もしかして、夏の夜の続きを?」
「そ、それはだめ。それはやっぱり、その、私を選んでくれたら、だよ」
「す、すまん、そうなると、いよいよわからん」
「本当に鈍い人!」高瀬は掛け布団をがばっと剥ぐと、体を起こし、ベッドから下りてきた。「神沢君。立ちなさい」
どうやら従うしかないようだ。「は、はい」
「私のベッドに寝なさい」
「はい」
「真ん中に寝てどうするの。もっと奥へ行って、スペースを空けて。隣を作るの」
「はい」
「ななめに体を傾けて、それから左腕を伸ばして」
俺が頭を空っぽにして言われたとおりにすると、高瀬はするするとベッドに潜り込んだ。そして俺の左腕を枕代わりにして、胸に顔をうずめてきた。
「これが私の求めていたこと。これで今夜は眠れそう」
布団の中ではパジャマ越しとはいえ、互いの体が密着している。布団の外では甘く危うい香りが、鼻をくすぐってくる。こっちは眠れそうになかった。
「あのね、神沢君」と彼女はほどなくして言った。何かに怯えるような声だった。「私最近、なんだか変な夢を見るんだ」
「変な夢?」
「うん。とても変で、とても嫌な夢」
「どんな夢?」
「私は普段と同じように制服を着て学校へ行って、普段と同じように3年H組の教室に入って、普段と同じように顔なじみのクラスメイトたちと挨拶するの」と高瀬は言った。
「でも、そのなかに神沢君の姿だけがないの。その日だけ風邪で休んでいるとか、寝坊で遅刻しているとかじゃなくて、そもそもいないの。席もなければロッカーもない。先生に聞いても、生徒に聞いても、神沢悠介っていう生徒は知らないって言うの。そんな馬鹿な、と思った私は、これまでの冒険の証が飾ってある旧手芸部室に行くんだけど、そこにはなにもないの。奇跡のヒカリゴケもモップの首輪やリードも唯ちゃんの絵日記帳も。それで私は学校を飛び出してふたりの思い出の場所を全速力で駆け巡る。でもやっぱり神沢君はどこにもいない。そしてようやく気づくの。ああ、私は長い夢を見ていたんだって。つまりこれはね、神沢君と過ごした三年間は、すべて夢だったっていう夢なの」
たしかに変な夢だな、と俺は思った。悪い予感がしないといえば嘘になる。高瀬がそれを嫌な夢だと認識してくれているのが、せめてもの救いだった。
「だから最近私、なんだか無性に不安で仕方ないんだ」と高瀬はより体を寄せて続けた。「ひょっとしたら今この瞬間も、長い夢の一部なんじゃないかって。朝目覚めたら、この世界から、神沢君が消えてしまっているんじゃないか、って」
「大丈夫だよ。大丈夫」
「ねぇ神沢君。消えていなくなったりしないよね?」
「そんなに不安なら、朝までこうして起きてる」と俺は彼女の細い肩を抱いて言った。「だから今夜くらいは、安心して眠りなよ」
「ありがとう、って言って目を閉じたいところなんだけど……」と高瀬は言いにくそうに言った。「さっきから私の太ももに、なんか硬いものがあたっていて、やっぱり眠れそうにないんだよね」
「それは困ったな。でもさ、俺は夢の中の存在じゃなく、現実の中の存在なんだよな。その証明だと思ってくれたら、助かるよ」
俺は反応を待ったが、しばらくしても何も返ってこなかった。え? と思って高瀬の顔を覗き込んでみれば、彼女は寝息をたてて眠りに落ちていた。
参ったな、と俺は思った。約束した以上、朝までこうして起きてなきゃいけない。いくつかの予感とひとつの硬いものを抱えながら。ひとことくらい愚痴も言いたくもなる。
「高瀬さん、今日は、本当に本当に悪い子だ」




