第111話 消えていなくなったりしないよね? 2
今宵こそなんとしても高瀬の奥深くまで知り尽くしてやる――。
そんな俺のよこしまな目論見はリビングに上がった瞬間、あっけなく打ち砕かれた。その姿を見て俺は思わず、洗面用具や替えの下着の入ったバッグを落としてしまった。
ソファには出張に行っているはずの直行さんが鎮座していて、琥珀色のウイスキーが入ったグラスを傾けていた。
「どどど」俺はろれつが回らない。「どういうこと!?」
「ごめん神沢君!」隣で高瀬は両手を合わせる。「お父さんに頼まれてたの。どうしても男同士でサシの話がしたいから悠介をうちに連れてこい、って」
「東京に出張っていうのは?」
嘘、とは彼女は言わなかった。「だって本当のことを話したら、うちに来てくれなかったでしょう?」
来るわけがない。高瀬の親父と二人きりで話すなんて、拷問に等しい。
だましたな、と俺は小さくつぶやいた。
「まぁまぁ悠介」直行さんがソファからなだめてくる。「優里を恨むな。優里は私の指示に従っただけだ。何も悪くない」
そこで毛むくじゃらの生き物が俺たちの足にじゃれついてきた。ボーダーコリーのチェリーだ。
「優里。その子を連れて二階の自分の部屋に下がっていなさい。ご苦労だった」
「私のこと、嫌いにならないでね」
高瀬は俺の耳元で申し訳なさそうにそうささやくと、厳格な父親の言うとおり愛犬を連れて階段を上がっていった。広々としたリビングには俺と直行さんだけが残された。
「それにしても悠介。ずいぶん大きいバッグだな。優里がおまえをどんな言葉でうちに誘い込んだか知らんが、もしかして泊まるつもりだったのか?」
そんなことをしても意味はないのに、俺はバッグを持ち上げて背後に隠した。
「いや、その、まぁ……」
「おまえ」直行さんの眼光が鋭くなる。「うちに泊まって優里となにをするつもりだったんだ?」
「へ、変な想像はやめてくださいよ。俺たちは受験生ですよ? 勉強に決まってるじゃないですか」
「ほう? まぁいい。とにかく座れ。優里と勉強するつもりだったところ悪いが、今夜は私と話をしよう。そのために妻の汐里と長女の明里には温泉旅行に行ってもらったんだ」
どうやら俺は腹をくくるしかないようだ。バッグと下心をカーペットの上に置き捨てにすると、直行さんの向かいのソファに腰掛けた。
「本題に入る前にまずはおまえに感謝を伝えねばならん」直行さんはそう言って、グラスをテーブルに置いた。「よくぞ鳥海慶一郎の化けの皮を剥いであの男を破滅に追いやってくれた。まさか本当にタカセヤとトカイの政略結婚を阻止してみせるとは思わなかった。おかげで優里を変態野郎の元へ嫁がせずに済んだ。あの子の父として礼を言う。悠介、ありがとうな」
たまにはちょっとくらい格好つけてもよかった。
「くだらない結婚は俺がつぶすと優里さんに約束しましたから。当然のことをしたまでです。男として、約束は守らないと」
「うむ。たいしたもんだ。おまえも立派になったな。見上げた男だ。ただいかんせん――」そこで彼はアイスペールから氷をグラスに入れ、瓶からウイスキーを注ぎ、静かに口に運んだ。「『一緒に大学に行く』という優里とのもう一つの約束を守れるかどうかは、不透明らしいな?」
俺はギクッとした。格好なんかつけなきゃよかった。
「優里から聞いたぞ? なんでもおまえ、三人の女のうち誰と同じ道を歩むかで迷っているそうじゃないか。一人は優里。一人は恭一の娘。そしてもう一人は東京の老舗せんべい屋の娘。たいしたもんだ。本当に立派な男だ。見上げたもんだ」
俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。「どうやらもう本題に入っているようですね」
直行さんはニヒルな笑みを浮かべた。「安心しろ。それについておまえを責めたてるためこの時間を設けたわけじゃない。私がおまえに伝えたいことは別のことだ」
「別のこと」
「もっと大事なことだ」と直行さんは言い直して、ソファに座り直した。「悠介。単刀直入に言う。三人の中で迷っているのなら、私の娘を――優里を選べ」
俺は背筋を伸ばした。横目で階段を見てみたが、高瀬がチェリーと俺たちのやりとりを盗み聞きしているということはなかった。
「父親の私が言うのもあれだが」と直行さんも階段をちらっと見てから言った。「優里はよくできた女だぞ? タカセヤ社長として日々いろんな女を見ている私が言うんだから間違いない。あれで天下一品の頑固さと気難しささえなければ言うことないんだが。まったく、誰に似たんだか……」
あんただよ、と思ったが俺はもちろん黙っていた。母親の汐里さんにそんな傾向はまるでない。
「とにかく優里は私の自慢の娘だ。頭も良ければ見てくれも良い。何をやらせても器用にこなす。ピアノも達者なら小説の新人賞だってとってしまった。たしか題はええと……未来のなんとかがなんだか――」
「『未来の君に、さよなら』です」と俺は言った。
「そうそう。それだ。おまけに動物や子どもにはどこまでも優しく、不正義や不条理には一歩も引かず戦う。よくできた女じゃないか。できないことがないじゃないか。なぁ?」
料理だけは悲劇的に下手ですけどね、とは言えなかった。
「それは俺もよくわかっています。優里さんはとても素敵な人です」
「そうだろう? だったら優里を選べ。あの子はおまえと生きることを望んでいる。男なら、もう一つの約束も守ってみせろ。今私の前で優里に決めろ」
決めます、とここで言えたらどんなに楽だろう? でもそうするわけにはいかない。自分の中でまだ答えは出ていない。高校生活最後の季節は始まったばかりだ。俺はこの冬のあいだ、もっともっと考えなきゃいけない。もっともっと悩まなきゃいけない。何が自分にとっていちばん幸せなのか。誰と同じ道を歩むのがいちばん幸せになれるのか。
ふと見ると瓶の中のウイスキーは3cmほどかさが減っていた。俺はよっぽど長く黙り込んでいたらしい。直行さんは沈黙に耐えかねたように口を開いた。
「悠介。もしおまえが優里を選んだとするだろう? そして約束通りふたりで鳴大に進学したとするだろう? そこまではいい。でもその先のおまえの生活費はどうするつもりだ? 居酒屋のバイトでこの三年間蓄えた金は学費で消えるんだろう?」
「また新しいバイトを見つけてなんとかしますよ」
「でも講義の合間を縫って、となると、雀の涙ほどの金しか稼げんだろう? 優里とのデート代もまともに出せやしない」
「まぁそうかもしれませんね」
「そこでだ、悠介」と直行さんは俺の目を見て言った。「私のもとで働かないか? タカセヤの社員になるんだ。もちろん学業を優先していい。クルマの免許をとって、私の運転手をやれ。報酬は弾む。なにしろ社長の命を預けるわけだからな。大事な仕事だ。免許代も出してやる。悪い話じゃないと思うんだがな」
ぜんぜん悪い話じゃなかった。というかめちゃくちゃ良い話だった。ただでさえ春には家を出なきゃいけない。どうしたって金は必要になる。それでも素直に喜べなかったのは、素朴な疑問が浮かんだからだ。
「どうしてそこまでして俺と優里さんをくっつけようとするんです? これまではどちらかといえば、俺たちが親しくするのをこころよく思っていなかったじゃないですか。いったいどういう心境の変化なんですか?」
「お、おまえも娘を持つ父親になれば私の気持ちがわかる。娘の幸せを第一に考えれば、こそだ」
直行さんは目を合わせずそう答えた。俺はそこに不自然さを感じずにはいられなかった。どうやらこの人も本心を仮面の下に隠しているらしい。先ほど俺が下心をカーペットに置いてきたように。
「なるほど」思い当たることは、一つしかない。「さては俺の母親を諦めきれないんでしょう? 俺と優里さんが一緒になれば自然にあの人と接近できる。そういう魂胆なんでしょう?」
彼は無言でグラスに残っていたウイスキーを一気に飲み干した。
「図星ですね」と俺は呆れて言った。「ねぇ直行さん。どれだけ母親に未練があるんですか」
「有希子は年を重ねれば重ねるほど、きれいになってる。どうなってんだ。あんなにいい女はそうはいない。タカセヤ社長として日々――」
「『いろんな女を見ている私が言うんだから間違いない』ですね?」
「ああ、間違いない」
初めて女の子と手をつないだ少年のように目を輝かせる正面の中年ダンディに、俺はひとつ悲しいニュースをお伝えせねばならなかった。おほん、と咳払いする。
「今度の春に、俺の父親が仮出所します。母は父を支えるつもりだそうです。この意味がわかりますか? つまり、夫婦として一からやり直すということです」
「あの卑怯者の神沢亨と!?」直行さんは頭を抱える。「考えられん。それは、本当なのか?」
「あいにく、本当です」と俺は言った。「それが母の出した答えです。直行さん、いいですか? 長いあいだ嵐つづきだった神沢家にようやく平穏が訪れようとしています。くれぐれも波風立てるようなことはしないでくださいよ?」
よほどショックだったのか、直行さんは額に手をあてたまま固まってしまった。男同士、気持ちはわからなくもなかった。空いたグラスにウイスキーを注いであげようかと思ったところで、彼はソファから立ち上がった。
「どうしたんですか?」
「外に飲みに行ってくる」
「えぇ?」
「優里を選べという私の考えに変化はない。もちろんタカセヤでおまえを雇う話もだ。私は有希子を……いや、なんでもない。とにかく、よく考えておけ」
直行さんは覇気のない声でそう言い残すと、コートを羽織って本当に外に出て行ってしまった。戻ってくる気配はなかった。広々としたリビングにはついに俺一人だけが残された。高瀬家の人間ではないのに。
俺も帰ろう。そう思ってソファから立ち上がり、先ほどカーペットに置いたバッグを手にとったところで、階段から毛むくじゃらの生き物が下りてきた。それに続いて、直行さん自慢の愛娘も降りてきた。
「玄関のドアが開く音がしたから」と高瀬はきょとんとして言った。「てっきり神沢君が帰ったんだと思って」
「いやそれが、見ての通り、出て行ったのは直行さんなんだ」
「いろいろあったんでしょ?」
「いろいろあったんだよ」
「どうせ外に飲みに行ったんでしょ?」
「外に飲みに行ったんだよ」
高瀬はため息をついた。俺はバッグを肩にかけ直して玄関に向かった。靴を履きかけたところで、背中に声がかかった。
「ちょっと待って。神沢君、帰っちゃうの?」
飼い主の声色に呼応したのか、チェリーまで名残惜しそうにじゃれついてくる。
「そりゃまぁ、直行さんとのサシの話は終わったわけだし」
「あのね」と高瀬は言った。「お父さん、外に飲みに行く時は、たいてい朝まで帰ってこないんだ。明日は休みだし、なおさら」
「そうなんだ」
「そうなの」と高瀬は言った。そしてしばらく間を置いた。「そ、それでね、もう夜も遅いし、今度こそ本当の本当に……うちに、泊まっていかない?」
「いきます」と俺は即答した。
直行さん。
さっきはさんざん偉そうに言ってごめんなさい。
でも男って、こんなもんですよね。




