第110話 答え合わせは桜の木の下で 2
高瀬がリライトして新人賞を獲得した『未来の君に、さよなら』が全国の書店に並んで一週間が経った。
出版社は“現役美人女子高生作家”として大々的に高瀬を売り出すつもりだったようだけど、当の本人はそういうアイドル的扱いを嫌がった。あくまでも作品そのもので勝負したがった。
「だって“現役女子高生”っていう肩書きはあと三ヶ月しか使えないでしょ?」と高瀬は俺に言った。「だいたい私の夢は小説家じゃない、翻訳家なんだから」と。
“美人”に関しては結局一度も否定しなかったわけだけど、まぁとにかく、高瀬の努力が実を結んだことに変わりはない。本の売れ行きはまずまずのようで、書店に行ってみると、発売日にもかかわらずもう四冊しか残っていなかった。俺は自腹で三冊買って売り上げに微力ながら貢献した。
レジの無愛想な女店員は「こんな冴えない男が恋愛小説なんか読むのかしら」とでも言いたげな顔をしたけれど、あいにくと言うべきかなんと言うべきか、主人公のモデルは他の誰でもなくこの俺だった。言っても信じてもらえないだろうから、言わなかったけど。
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12月上旬の木曜日。慌てん坊すぎるサンタクロースがいつソリに乗って来ても困らないほど外が銀世界となったこの日、俺たちはいつものメンツで勉強会を開いていた。場所はいつもの旧手芸部室。長テーブルを囲むように五人で椅子に腰掛けている。
「しっかし、高瀬さんが作家デビューとはね」休憩中、太陽が参考書を閉じて口を開いた。「ああ、いや、これからは高瀬先生、とお呼びしなきゃいけないかな?」
「やめてよ」高瀬はくすぐったそうに首筋をかく。「今まで通り『高瀬さん』でいいから」
「ヨッ、先生」とすかさず持ち上げたのは月島だ。彼女はバッグから『未来の君に、さよなら』の単行本を取り出した。「もしよろしければ、サインをいただけませんか?」
高瀬は渋々黒のマーカーを持ち、渋々見返しの部分にサインをした。
「ありがとう大先生! 末代までの家宝にするね!」
「嘘つけ」と高瀬はテーブルに頬杖をついてぼそっとつぶやいた。
「まあでも、冗談抜きで本当にすごいよね」月島はサイン入り単行本を崇める。「高校生で本を出すなんて、そう簡単なことじゃないよ」
「たいしたことないから。私はそんなに特別なことしてない。私は晴香のお父さん――恭一さんが20年前に書いた原作を時代に合わせて書き直しただけだもの」
「そう謙遜しなさんな」太陽はおだてるように言う。「オレたちのなかで誰が一番夢を先に叶えるか。この出版で高瀬さんが一歩、どころか二十歩くらいリードだな。なんだか遠い存在になっちまった」
「やめてってば」高瀬はまた首筋をかく。それから俺を見た。ねぇ神沢君、お願いだから話題を変えてくれないかな。その目はそう言っている。このままじゃ私、首筋がかきキズだらけになっちゃうよ、と。
俺は室内を見渡して話のタネを探した。それはたいした苦労もなく見たかった。感覚としては間違い探しに近かった。いつもとどこが違うでしょう? はっきりしている。柏木がいつもとは違う。いつもは俺たち大学受験組の邪魔をしてくる彼女が、柄でもなく真剣な顔つきで英語の問題集を解いている。そういえば今の高瀬いじりにも加わってこなかった。らしくない。
「なぁ柏木」と俺は声をかけた。「今日はずいぶんマジメに勉強してるようだけど、いったいどうしたんだ?」
「ああ、あたしも大学を受けることにしたから」彼女はこともなげにそう答えると、ライト、ロート、リトゥンとつぶやいて問題集の空欄を埋めた。
「大学を受ける!?」俺は驚いて二の句が継げない。見れば高瀬も月島も呆然としている。あとは太陽に任せることにした。
「か、柏木よ。今『大学を受ける』って言ったか?」
「言ったよ」
「おまえ、大学が何する場所かわかってんのか?」
「まぁ一言で言えば、勉学に励む場所でしょ」
「そんな大学におまえは何しに行くんだよ?」
「勉強に決まってるでしょ。あたしの夢は居酒屋経営だからね。経営の勉強を四年間みっちりする。理にかなってるじゃない」
「ちなみに、どこの大学を受ける気だ?」
「トーダイ」
太陽は音痴な人の歌を聞かされたようにこめかみを押さえた。
「ええと、この前のテストが学年240人中何位だったか、全員正直に言っていこうか。まずオレから。7位」
「16位」と高瀬。
「24位」と俺。
「30位」と月島。
「238位ですが何か?」と柏木は臆せずのたまう。「あの時はまだ本気出してなかったもん。言っときますけどね、あたしだって試験に受かってこの高校に入ってきてるんだからね。あんたたちは何かにつけてあたしを小馬鹿にするけど、地頭は良いんだからね!」
テイク、トゥーク、テイクンとつぶやき彼女はまたひとつ空欄を埋めた。
「晴香、本気で今から東大を目指すの?」と高瀬が皆の気持ちを代弁して訪ねた。
「本気かって聞かれると、答えはノー。とにかく受験がしたくなったの。だってまわりの人はみーんな大学を受けるんだもん。なんかあたしだけ仲間外れみたい。だからあたしも受けることにした。で、せっかくなら日本一の大学を受けてやろうと思って。だからなんていうの? 記念受験ってやつ? 受かれば儲け物、みたいな? これくらいの心持ちの方がプレッシャーがないぶん、案外受かったりしてね」
受かるわけないだろ、と誰も突っ込まないのは、それが絶対にあり得ない話ではないからだ。良くも悪くも常識が通用しないのが柏木晴香という女だ。わけのわからんヘマをやらかすこともあれば、わけのわからん奇跡を起こしたりもする。テストの順位や偏差値など彼女の前では、何の意味もなさないただの数字でしかない。
「そう言うみんなは結局どこを受けるんだっけ?」面白くないのか、柏木は逆に質問してきた。「志望動機とあわせて、一人ずつ言いなさい」
真っ先に口を開いたのは太陽だ。彼は四人のなかで最も目指す道がはっきりしていた。「オレの志望校は札幌の医大だ。もちろん医学部だ。動機は言うまでもなく植物状態にあるあいつを――幼馴染みのまひるを――目覚めさせるため。浪人なんかしている余裕はない。絶対に現役合格だ」
次に高瀬が答えた。「私はこの街が好きだから、市内の鳴大。鳴大の英米文学科。そこでいろんな国のいろんな物語に触れて、将来は翻訳家を目指す」
月島が続く。「私はどのみち卒業したら実家のある東京に戻るんで、早稲田の政経学部。この摩訶不思議な社会の仕組みをガッツリ学んでやろうかなっていうね」
残るは俺だけだった。でも今はまだ答えられなかった。三人娘のうち誰と一緒の道を歩むかによって、志望校も変わってくるからだ。まだどの未来を選ぶか決まっていない以上、答えることもできない。沈黙が痛い。視線も痛い。どうしよう? 俺は話を逸らそうと思ってテーブルに目を落とした。さっきまで解いていた現代文のプリントがある。ある言葉が目に留まった。
「そ、そうだ。桜の花言葉って、なんだったっけ?」
柏木がいぶかしむ。「なによ、突然?」
「評論文で花言葉のことが出てきてさ。それでさっきからずっと気になってたんだ。誰か知らないか?」
太陽は首をかしげたが、三人娘は一様に知っているという顔をした。
「すぐれた美人」と柏木は言った。
「精神美」と月島は言った。
「純潔」と高瀬は言った。
「どれが本当だ?」と俺は言った。
「どれも本当だ」と太陽は言った。ちゃっかりスマートフォンを見ている。「どれもたしかに桜の花言葉だ。三人とも正解だ。花言葉って、ひとつじゃないんだな」
「スッキリした?」と柏木は言った。「悠介、ちゃんと覚えておきなさいよ。将来子どもと一緒に桜を見ている時に、もし花言葉を聞かれても答えられなかったら、パパとして面目が立たないでしょ?」
俺は苦笑した。明日には忘れていそうだ、とは言えなかった。
しばらく静寂が続いたあとで、「桜かぁ」と柏木がしみじみつぶやいた。彼女はおもむろに席を立ち、窓辺まで進んだ。そしてそこから校庭の桜の木々を眺めた。当然ながら枝についているのは、薄紅色の花ではなく、真っ白な花だ。
「あの雪が溶けて桜が咲く頃には、みんな進路が決まっていて、それぞれの道を歩き始めているんだね……」
高瀬が小さくうなずいた。「満開の桜をこの校舎から眺めることはもうないんだね」
月島が続いた。「もうこのメンバーでお花見することもないんだね」
なんだか胸がぎゅっとなる。センチメンタルな気分になる。それは俺だけじゃなかったようだ。
「みんな、よせよ。湿っぽくなるじゃねぇか」
太陽がそんなことを言うから、空気がよけいに湿っぽくなってしまった。誰もなかなか次の言葉を発しない中、やはり口を開いたのは柏木だった。彼女は振り返って元気にこう言った。
「いいこと思いついちゃった! あたしたち、それぞれがどんな道に進もうと、またいつか会うことを約束しない? だってこの三年間、力を合わせていろんなものと戦って、一緒に泣いたり笑ったりして、なのに卒業で『はいもう一生サヨナラバイバイ』はいくらなんでも寂しいでしょ。ねっ? またいつか会おうよ」
「いつかって、いつ?」と高瀬が聞いた。
「そうねぇ」柏木はひとしきり考え、卒業してから十年後、と答えた。「それも桜が満開になった春。十年後だと、30歳手前だから、みんないいカンジに大人でしょ? お花見しながらじっくり語り合おうよ。卒業後の十年をどんな風に過ごしたか。うん。我ながらナイスアイデアじゃない? 五人それぞれ夢を叶えられたのか、幸せになれたのか、昼間からおいしいもの食べてお酒飲んで、答え合わせしよう」
「答え合わせは桜の木の下で」月島は詩を口ずさむように言った。「悪くない。全然悪くない。好きでもないクラスメイトとの同窓会ならちっとも行く気はしないが、そういうのなら、喜んで馳せ参じようじゃないか」
高瀬も笑顔でうなずく。「十年後に会うって決めておくと、気持ちに張り合いが出るし良いと思う。自分だけ夢が叶わなかった、なんて意地でも言いたくないもの」
太陽は冬なのに腕まくりする。「十年後の春だな! よし。それまでになにがなんでもまひるを植物状態から回復させてやる。なぁ、その花見には、まひるも連れて行っていいんだよな?」
「もちろん!」と柏木は快諾した。「みんなも異存ないでしょ?」
「あるわけないよ」と月島。
「日比野さんも仲間だもんね」と高瀬。
「それじゃ決まり!」
「ちょっと待て」と俺は慌てて言った。
「なによ悠介。日比野さんは来ちゃだめっていうの?」
「そこじゃなくて。日比野さんが来るのはいいよ。むしろ大歓迎だよ。でもその前に、俺の参加意思も確認しろよ」
「何言ってんの。悠介には選択肢なんかないから」
月島は深くうなずく。「キミがいなきゃ始まらないだろう」
高瀬はもっと深くうなずく。「神沢君の参加は決定事項でしょ」
「だってよ」太陽は吹き出す。「悠介、愛されてんな」
「反対するつもりはなかったから別にいいんだけどさ……」
なんだか釈然としない俺に追い討ちをかけたのは、柏木だった。
「というか、罰として悠介が幹事をしなさい。ね? 花見の場所や食べ物やお酒の手配を悠介がするの。わかった?」
「罰として? なんの罰だよ?」
「志望校を答えられなかった罰」と柏木は言った。「さっき悠介だけ答えなかったよね。桜の花言葉で話を逸らしたでしょ? バレてないとでも思った?」
ぐうの音も出ない。俺は幹事役を引き受けるしかないようだ。
「わかったよ。やればいいんだろ、やれば」
他の四人はわざとらしく拍手をした。いつしか湿っぽい空気はどこかへ消えていた。
「それじゃみんな」と俺はさっそく幹事として号令をかけた。「どんな道に進んだとしても、卒業してから十年後の春、桜の咲く季節に再会することを約束しよう」
「約束な」月島は親指を突き出す。
「約束よ」柏木は瞳を大きくする。
「約束だ」太陽は拳を強くにぎる。
「約束ね」高瀬は白い歯を見せる。
俺は四人の顔をゆっくり見渡したあとで、十年後の自分の姿を想像してみた。俺はその時、どんな顔をしてどんな服を着て、どんな言葉を話しているんだろう? でもそれはうまくイメージできなかった。
思い浮かんだのは、空から舞い降りるひとひらの桜の花びらだけだった。
* * *
桜の花びらが僕らの座る縁側まで風で運ばれてきて、娘の鼻先に舞い降りた。娘は僕の話を聞くことに集中していて、それに気づいていなかった。僕はくすっと笑って花びらをとってあげた。それから罪作りな満開の桜を見上げて、口を開いた。
「これでお父さんが庭に桜の木があるこのおうちを選んだ理由がわかっただろう?」
娘は無邪気に微笑んだ。「お花見のカンジさんだから、だね」
「ああ。大変だった。桜の木がある家を探すのは。でもしょうがない。大切な仲間たちとの大切な約束だ。守らなきゃいけない」
「それで、約束したお花見の日って、いつなの?」
「今日だよ」
「今日?」
「今日がその答え合わせの日なんだ」
「ということは、お話に出てきた人たちがこのおうちに来るの!?」
「どうだろうな? 約束通り、来るといいんだけどな。もし来るなら、そろそろだ」
「わぁい! なんだか絵本に出てくる人に会えるみたい。楽しみだな!」
「お父さんも楽しみだよ」
「ということは、お父さん。みんなが来る前に、お話を終わらせなきゃいけないね」
「そうだな。それじゃさっそく続きを話そうか」
そこでまた春特有のつむじ風が吹き、また娘はくしゃみをした。
「思い出した! お母さんから聞いた桜の花言葉!」
「え……」
「ねぇお父さん」と娘はしたり顔で言った。「もう一度聞くね。桜の花言葉って、知ってる? さっきは、『もちろん知ってる』って言ってたよね?」
たしか昔、三つ聞いたはずだが、一つも思い出せなかった。
「娘よ、すまん、格好つけたくて知ったかぶった」
「父よ、それは、格好悪いにもほどがあるっての」
高校時代の僕に――いや俺に――ひとつ言っておくことがあるとすれば、それは、桜の花言葉だけはちゃんと覚えておけ、ということだ。




