第109話 未来の見えない私たち凡人の特権 2
「第三学年・秋」最終回です。
《♣悠介》
夜には初雪が降りそうな雲行きの11月下旬のある日、俺は参考書を探しに行った書店で母・有希子とばったり出くわした。
高校生が実の母親とばったり出くわしたというのもなんだかおかしな話だが、同じ市内とはいえ別々に住んでいるのだから致し方ない。親子とはいえ一度は子を捨てた母と母に捨てられた子なのだからしょうがない。
なにはともあれ、それは俺にとって好ましい再会だった。別に母に甘えたかったわけじゃなく、話さなきゃいけないことがいくつかあったからだ。
俺たちは書店近くの公園に移動すると、自動販売機で缶のホットコーヒーを買ってベンチに腰掛けた。俺はなんといってもまず最初にあの話を切り出した。
「占い師の正体がわかったよ」
「――というわけで、これが“未来の君”の真実らしいんだ」と俺は長い説明を終えて言った。「信じられないだろうけど」
途中で精神科の受診を勧められることも覚悟したが、母は笑い飛ばしたりせず最後までしっかり話を聞いてくれた。
「占い師は松任谷先生だった。先生は本当に未来が見えた。でも“未来の君”が必ず幸せを招くというのは、ふたりの娘さんの命を守るためにやむなくついた嘘だった。まとめると、つまりそういうことなのね?」
飲み込みの早い人で助かった。「要約問題なら満点だよ」
「あの松任谷先生がねぇ」母は学生時代を思い返すように空を見上げた。「そういえばたしかに、私が鳴桜高校の生徒だった二十年前から、あの先生は変わったところがあった。視線が普通の人とはちょっと違うところを向いていた。松任谷先生は私たちとは違うものを見ているんだろうね、なんて友達と話していたけれど、まさかそれが未来だったとはね」
「こんなSF小説みたいな話を信じるんだ?」
「事実は小説よりも奇なり、って言葉もあるじゃない?」母は書店で買った文庫本を持ち上げる。「それに少なくとも先生の話は筋が通っているでしょう? 本当のこととして考えると、いろんなことの説明がつくもの」
俺は首をかしげた。「実はまだ腑に落ちない点がふたつ残ってるんだ」
「話してみて?」
「まず一点目。俺と柏木が結ばれることが妹さんの方を救う条件だったはずなのに、どうして先生は『“未来の君”は柏木晴香です』と断言せず、『あなた様はもうすでに“未来の君”に出会っております』なんて遠回しな言い方をしたのか。二点目。どうして先生は二十年前、母さんと柏木恭一に“未来の君”をモチーフにした小説を書くよう勧めたのか」
「『未来の君に、さよなら』」と母はその小説名を口にした。
俺はうなずいた。「この二点だけはいまだに謎なんだ」
母はコーヒーを口に含んだきり、すっかり押し黙った。その謎について考えているらしい。真剣な横顔だった。俺はこの人のそんな横顔をこれまで見たことがなかった。しばらく後で母はどことなく気恥ずかしそうに口を開いた。
「先生は私たちを引き合わせようとしたんじゃないかしら」
「え?」
「一年生の冬を思い出してみて。悠介が私に会いに富山まで来た目的の一つは、自分の“未来の君”が誰なのか知るためだったでしょう? そのために『未来の君に、さよなら』を持ってこの街から晴香ちゃんと一緒に旅立った。違う?」
それを聞いて俺は思わず息を呑んだ。言われてみればたしかにそうだ。“未来の君”が柏木だとわかっていれば、おそらく俺は富山へは行っていなかった。そしておそらく母と会うことはもう二度となかった。今こうして一緒に過ごす時間も訪れなかった。
柏木恭一が執筆した『未来の君に、さよなら』をはじめに一読した時、俺は何かに導かれるような感覚を覚えたものだった。なにがなんでも富山へ行って母から話を聞かなきゃいけない。そう思ったものだった。
隣で母は続けた。
「先生は娘さんが亡くなる未来を生き続ける未来に変えようとするだけではなく、それに並行して、私と悠介がもう一生会わない未来を再会する未来に変えようとしたのよ。そう考えれば、敢えて“未来の君”が誰なのか悠介に曖昧な言い方をしたのも、私たちにあの小説を書くよう命じたのも、説明がつく」
「説明はつくかもしれないけど、でも、なんのために?」
「先生は自分の都合で赤の他人である私や悠介の人生を変えてしまうことに、強い罪悪感を抱いていた。だからせめてもの罪滅ぼしをしようと考えた。そんなところじゃない?」
母は微笑んだ。それは人生の酸いも甘いも噛み分けた人だけが浮かべられる微笑みだった。
「ま、あくまでもこれは推測に過ぎないけれど、ね」
それから俺は母にこないだの肉じゃがとおにぎりの礼を言い、俺を高校に戻すため校長に頭まで下げてくれたことの礼を言い、18歳の誕生日を高校生として迎えられたことの礼を言った。彼女は恩に着せるでもなくその都度「どういたしまして」とひかえめに返した。
「そっか、悠介もついに18歳になったのね」
「おかげさまで」と俺は嫌味ではなく言った。
「将来はどの道に進むか、決めたの?」
いくつかに枝分かれした道の前で、どの道を選べばいいかわからず頭を抱えている。そんな男が思い浮かんだ。
「いいや、まだ決まらないんだ」
「高校卒業まであと三か月しかないのに?」
「情けないけど」
「まぁ無理もないわよね」母は呆れるどころかむしろ、同情するかのようだ。「ある意味では道しるべだった“未来の君”の占いが、イカサマだとここに来てわかっちゃったんだから」
「そのせいでこの冬は、人生でいちばん悩む季節になりそうだ」
「それはそれでいいいんじゃない?」
「え?」
「悠介。悩んで悩んで悩み抜きなさい。これからどの道に進むか悩めるなんて、考えようによっては、幸せなことよ」
「どういうこと?」
母は微笑んだ。「だってそんな悩みを持てるのは、未来の見えない私たち凡人の特権じゃない」
♯ ♯ ♯
母と別れて帰路につく頃には、すっかり陽が落ちて街灯に明かりがともっていた。
道行く人はもうほとんどが冬用のコートを着て手袋をはめていた。パーカーのポケットに手を突っ込んで身震いしながら歩いているのなんて俺くらいだった。仕方ない。参考書を探しに昼に近くの書店へ出かけたら帰りが夜になるなんてちょっと予想できない。俺には未来は見えない。
すれ違う通行人の中には、手をつないで歩く親子やカップルもいた。俺にはコートも手袋もなければ手をつなぐ相手もいなかった。息が白い。寒さが身に染みた。
一人で夜の街を歩きながら、俺はさっそく凡人の特権を行使することにした。未来のことで悩んでいる自分をイメージして、寒さを頭から追い払おうという狙いだ。イメージの中の自分は、やはりいくつかに枝分かれした道の前で途方に暮れていた。俺はどの道に進めばいいのだろう?
そのなかの一つの道には柏木が立っている。俺は一度はその道を進みかけた。でも彼女は分岐点まで戻るよう命じた。戻ってどの道を選ぶかあらためてよく考えなさい、と。
この道を進む目的ははっきりしている。居酒屋を切り盛りしながら幸せな家庭を築く。柏木のその夢を叶えるためだ。その夢の実現に俺は不可欠だ。柏木は俺を必要としている。彼女はこの道を一人では歩けない。
また別の道には月島が立っている。この道を進む目的もはっきりしている。東京の実家の老舗せんべい店を再興する。月島のその夢を叶えるためだ。その夢の実現にもやはり俺は欠かせない。月島は俺を必要としている。彼女もまたこの道を一人では歩けない。
問題はもう一つの道だった。それは高瀬が立っている道だった。そこはしばらく前から視界不良で通行止めになっていた。
鳥海慶一郎との結婚が消滅したことで、彼女は大学に行くと宣言した。そして翻訳家を目指すと表明した。でもそれはあくまでも高瀬個人の夢であって、俺との関係に関する夢ではない。叶えようと思えば彼女一人でも叶えられる夢だ。
彼女は俺といったいどうなりたいのだろう? もう俺を必要としていないのだろうか? 一人でその道を歩いていくつもりなのだろうか?
そうかもしれない。そう決断したとしても不思議じゃない。
なにしろこの秋は彼女にとっていくつも大きな事が起こった。そう言うよう誘導していたとはいえ「一緒の未来を目指すことはできない」と俺に告げられたことだったり、俺が一度は柏木と恋人同士になったことだったり、松任谷先生が月島との未来で俺が一番笑っていると告げたことだったり。
そういうひとつひとつの積み重ねが彼女に決断をさせたのかもしれない。一人で道を歩んでいく決断を。
そんなようなことを黙々と考えながら、俺は家路を急いだ。
当初の目論見は見事に外れて、寒気は一向におさまらなかった。ついにはくしゃみまで出始める始末だった。誰かに会いたいな、と俺はふと思った。それも互いのことをよく知る人に。誰かに会って話がしたかった。誰かの顔が見たかった。誰かの声が聞きたかった。寒くて暗いなかを一人で歩いていると、どうしても人恋しくなる。
ようやく自宅が見えてきてほっと息をついた、その時だった。思わず左右の足が止まった。家の前に誰かがいる。花嫁がいる。
いや、そんなはずはない。俺は頭を振って目をこらした。ウエディングドレスのように見えたのは、裾の広い白のロングコートだった。純白のヴェールのように見えたのは、街灯が照らす雪だった。うつむいて歩いていたせいで初雪が舞い始めていたことに気づかなかった。もう一度目をこらす。花嫁のように見えたその誰かは、高瀬だった。
俺はすぐに駆け出した。高瀬の元に着くのに時間はかからなかった。彼女は俺のパーカーを見るなりまるで保護者みたいに眉をひそめた。
「神沢君。そんな近所の本屋さんに行くような格好で、寒くないの?」
「大丈夫だ」と俺は強がった。
「本当?」
「ああ。ちっとも寒くなんかない。暑いくらいだ」
「うん、それはさすがに嘘だ」
「うん、ちょっとカッコつけた」
「で、どこに行ってたの?」
「いやそれが、高瀬の言うように実際に近所の本屋なんだよ」
「え? いつ出かけたの?」
「昼だ」
「お昼に近所の本屋さんに出かけて、なんで帰りが夜になるの?」
「まぁ、ある人とばったり会って、話し込んじゃって」
「そのある人って、有希子さん?」
「なんでわかった?」
高瀬は悪戯っぽく微笑んだ。そしてこうささやいた。「私には未来が見えるのです」
「やめてくれって」そのセリフはもう一生聞きたくなかった。「でも冗談抜きでさっきからすごいな。本屋に行っていたことは服装からなんとなく読めたとして、母親と会っていたことまでよくわかったな?」
「だって神沢君がこの街の本屋さんで会って長話する可能性のある人なんて、有希子さんか私くらいしかいないじゃない」
「なるほど」
彼女は俺のことをよくわかっているようだ。でも逆に俺は彼女のことをよくわかっていなかった。いまだにわからないことだらけだった。たとえばどうしてうちの前にいるのか、その理由すらわかっていなかった。
「ところで高瀬」と俺は言った。「高瀬はこんな寒い夜にうちの前で何してたんだ?」
それを聞くと彼女はとたんに固まった。まつげに乗った雪を払うことすらしなかった。やがて静かに口を開いた。
「神沢君に伝えたいことがあって」
「伝えたいこと」
「大切なこと」と彼女は言った。「どうしても直接会って伝えたかった」
俺も少なからず緊張した。「けっこう待った?」
「ううん。今来たとこ。結婚式場の帰りなの」
「結婚式場?」
「潤さんが来年3月1日の披露宴をキャンセルするっていうから、それをこの目で見届けてきた。無事にすべて終わった。これで私と鳥海慶一郎の結婚は完全に消えてなくなった。私は本当の本当に自由になった」
「それはよかった」
「あらためてお礼を言わなきゃね。神沢君。私の未来を変えてくれて、ありがとう」
「約束を守ることができてほっとしてる」
高瀬はやわらかく微笑んだ。でもすぐに押し黙った。
「伝えたかったのって、このこと?」
彼女は首を振った。
「今日私が本当に伝えたかったのは、神沢君とのこれからのこと」
ついに来た、と俺は思った。脳裏に視界不良で通行止めになっている道が思い浮かんだ。
「俺とのこれからのこと」
「トカイとの政略結婚がなくなって、未来が自由に選べるようになって、それ以来そのことだけをずっと考えてた。どうするのが私にとっていちばんいいのか。どうするのが神沢君にとっていちばんいいのか。私たちにとっていちばんいいのは、どうすることなのか。ずっと考えてきた。そしてその答えがやっと出た。きっとこれが正解」
俺の心臓はいまだかつてないほど早く脈打っていた。こんなに激しく動いたら反動ですぐに止まるんじゃないかと思ったほどだった。でも心臓はもちろん止まらなかった。それは高瀬の出した答えを全身全霊で受け止めろという内なる声でもあった。たとえ望んでいたのとは違った答えだとしても。
俺はその声に従って、彼女の顔をまっすぐに見つめた。
やがて高瀬は何を喋るでもなく、右手を静かにこちらへ差し出してきた。そのきれいな手は何かを握っていた。彼女は拳を開いた。握っていたのは指輪だった。それは俺が高瀬にプレゼントした指輪だった。
修学旅行で行った京都の路地裏で、胡散臭い外国人の露天商から買った安物の指輪。偽者のダイヤのついた指輪と呼べるかどうかも怪しい代物。彼女の手にはそれがあった。
「これ、返すね」と高瀬は言った。
俺は後に続く言葉を待った。でも彼女の唇はそれ以上動かなかった。沈黙が痛くて痛くて仕方なかった。俺がおそるおそる手のひらを上にして左手を出すと、彼女は何も言わずそこに指輪を置いた。そして息を吐き、体を反転させ、こちらに背を向けて歩き出した。
一歩一歩彼女は街灯の下を進んでいく。少しずつ少しずつ、でも確実に、その背中が遠ざかっていく。
これが答えなんだ、と俺はうっすら積もった雪の上にひとつずつ増えていく足跡を見て思った。
プレゼントされた指輪を寒い夜にわざわざ贈り主に会いに行ってまで返す。その行動が示すメッセージはなんだろう? ひとつしか考えられない。
私はこれからひとりで私の道を歩いていく。神沢君とは別の道を。
それが高瀬の出した答えであり、正解であり、俺に伝えたかったことなのだろう。
ある程度予測していたとはいえ、覚悟していたとはいえ、いざその答えを突きつけられると、全身から力がごそっと抜け落ちた。重力に逆らって立っているのがやっとだった。俺は呆然と立ちすくむことしかできなかった。呼吸ができているのかどうかさえ自分ではわからないほどだった。
高瀬の背中は遠ざかっていく。雪上の足跡は増えていく。
俺は何かを言わななきゃいけないんだろう。あとを追わなきゃいけないんだろう。でも口を動かすことはできなかった。足を動かすこともできなかった。抜け殻同然になってしまった体は、もはや何も言うことを聞いてくれなかった。それどころか気力も体力は失われる一方だった。
ついに立っているのも限界が来て、膝を地面に突いた、その時だった。俺の目に思いも寄らないものが映った。
蝶だ。
蝶が、はばたいている。雪の降る夜にどうして蝶が? とうとう幻まで見えるようになったらしい。
その蝶は雪を巧みに避けて飛行していた。そして全身から淡い緑色の光を放っていた。それは俺もよく知る光だった。復活したヒカリゴケの光。蝶は俺の体のそばまで来ると、まるで最初からそこを目指して長旅していたみたいに、左手へ一直線に向かった。そして手のひらに静かに止まった。
俺は左手の手のひらに目を落とした。すっかり忘れかけていたが、そこには高瀬から返された指輪があった。蝶はまるで俺に対して何かのヒントを与えるように指輪のまわりで旋回した。そして雪の舞う空へ向けて再び飛び立った。
俺は最後の力を振り絞って指輪を今一度調べてみた。どこからどう見てもそれは粗末で退屈で安価な指輪だった。高瀬のようにきれいな女の子のきれいな指にはとてもふさわしくない不恰好な指輪だった。
でも手に持って指で触れてみると、俺はあることに気がついた。リングの内側がほのかに温かい。そこにはまだぬくもりが残っている。
どうしてだろう? その理由はひとつしかないだろう。
直前まで誰かが指にはめていたからだ。誰が? どの指に?
そこまで考えて、俺は自分が大きな思い違いをしていることに気づいた。私は私の道をひとりで歩いていく。高瀬が出した答えはそうじゃない。彼女が本当に俺に伝えたかったのはまったく別のことだ。
それを気づかせてくれた蝶に礼を言おうと俺は雪の舞う夜空を見上げた。でもその姿はもうどこにもなかった。淡い緑色の光がまるで花火の残像のようにかすかに見えただけだった。
気づけば体には力が戻っていた。俺はしっかり地面を踏み込み、腰を上げ、そして前を向いた。
いつしか高瀬は立ち止まっていた。彼女はゆっくりこちらを振り向いた。ふたりのあいだには足跡が20個ほどあった。
俺は高瀬の目を見つめる。少し遅れて高瀬も俺の目を見つめる。彼女の奥行きのあるふたつの瞳は俺に語りかけている。これからとても大事なことを話すから最後まで聞いてねと言っている。うまく話せるかわからないから何も言わずに最後まで聞いてねと。
わかったと俺も目で答える。彼女は安心したようにうなずく。
いつもなら無神経な車のエンジン音やらしつけの悪い犬の鳴き声やらが聞こえるのだが、今夜にかぎっては雪がすべての雑音を打ち消していた。おそらくここは今、世界でもっとも静かな場所だった。
――そして高瀬が静寂をやぶった。
「神沢君。私はあなたのことが好きです。私はあなたが隣にいてくれないとだめみたいです。あなたさえ隣にいてくれれば、私はどんな険しい道も歩いていけます。あなたと出会ってからこの二年半で、それがよくわかりました。神沢君。私には、あなたが必要です。私はあなたのことが好きです」
さっそく言いたいことで喉が渋滞していた。言葉という言葉が我先にと競い合っていた。でも彼女の瞳を思い出して俺はそいつらに待機を命じた。
「一年生の春にふたりで迷い込んだヒカリゴケの洞窟で――緑一色の光の世界で――約束した通り、私はやっぱり神沢君と一緒の大学に行って、一緒にキャンパスを歩きたいです。そしてできればその先もずっと一緒に。それが未来を自由に選べるようになった今の私の望む未来です。それが夢です。その夢を叶えてくれるなら、高校を卒業するまでに、その指輪をもう一度私にプレゼントしてください」
俺は左手の指輪に積もった雪をていねいに払った。いつの間にか雪は本降りになっていた。
「私の道に立ちはだかっていた大きな壁は、神沢君のおかげで跡形もなく消え去りました。でも壁はなくなってもその先はきっと坂道やでこぼこ道になっています。落石や落とし穴すらあるかもしれません。決して平坦で安全な道ではないです。神沢君にはもっと他に楽な道があると思います。でもそれでも敢えて言います。私の隣で私と一緒の道を歩いてください。これは完全に私のわがままです。でも私の出した答えです。この答えを出すまでにいろんなことを考えました。たくさん悩みました。でも最後は、自分の素直な想いをいちばん大事に考えました。神沢君。私にはあなたが必要です。私は、あなたのことが好きです」
すべての言葉が俺に浸透するのを待つように高瀬はしばらく間を置いた。それから一度深呼吸をした。その表情は、今まで見たなかで一番と言っていいくらい澄みきっていた。
「神沢君。最後まで聞いてくれてありがとう。伝えたかったことは全部言えた。近くだと緊張しちゃってうまく伝えられそうになかったから、ちょっと距離をとったの。あのね神沢君。そんな格好じゃ本当に風邪引いちゃうよ。早くおうちに入って、お風呂にでも浸かって、暖かくして。それじゃまた明日、学校でね!」
高瀬は屈託のない笑顔でそう言い置くと、美しい髪をなびかせて体を180度回転させ、再び街灯の下を歩き出した。
彼女の後ろ姿は少しずつ小さくなり、やがて雪の中に吸い込まれるように消えていった。
高瀬の姿が完全に見えなくなっても、俺はその場から動くことができなかった。彼女は暖をとるよう忠告したけれど、ちっとも寒くなんかなかった。今度こそ嘘じゃなかった。本当に暑いくらいだった。寒さを感じるわけがなかった。なぜなら高瀬の熱い想いがあまることなく身体中に流れ込んできたのだから。
どの言葉もうれしかったが、とくに印象に残っているのはやはりあの言葉だ。「私はあなたのことが好きです」と高瀬はたしかにそう言った。一度で充分なのに二度も言った。いや、二度じゃない。三度だ。それは告白と受け取ってよかった。愛の告白とみなしても大袈裟じゃなかった。
それにしても、と高瀬の性格を知る俺は思う。
それにしてもあの負けず嫌いで見栄っ張りな高瀬がよく自分から告白する気になったものだ。いったい何が彼女の背中を押したのだろう?
その答えは俺が握っていた。文字通り左手に握っていた。こいつだな、と俺は確信した。この指輪が一丁前に高瀬に教えたに違いない。不格好でも見映えが悪くてもいいから、大事なものを大事にしなよ、と。つまり高瀬にとってはそれが自分の素直な想いだったわけだ。
とにかくこれで、長いあいだ視界不良だった道に光が射した。通行止めの看板も撤去された。高瀬は笑顔を取り戻した。
でも冷静になって考えてみると、それは、俺の迷いが増えることを意味していた。なにしろ選択肢が二つから三つに増えたのだから。
柏木も月島も高瀬も、悩みながら苦しみながら答えを出した。立派だ。卒業まで残り三か月。高校生活最後の季節。この冬に今度は俺が答えを出さなきゃいけない。どの道を選ぶのか。誰との未来を選ぶのか。
悩むことだろう。苦しむことだろう。悩み苦しむことだろう。なにしろ簡単な選択じゃない。俺は答えを出せるだろうか?
どうしても答えが出なかったらその時は、松任谷先生に未来を見てもらおうか。頼めば先生は未来を教えてくれるに違いない。三つの道のうち、どこに進むのがいちばん幸せになれるのか。なんせ俺への罪悪感から母親と再会する未来を作り上げた人だ。
そんなどうしようもないアイデアが頭の片隅に浮かんで、俺は自分の頬をビンタした。だめだ。それだけは何があってもだめだ。どんなに悩んでも苦しくても自分で答えを出さなきゃいけない。それが俺を必要としてくれている人たちへの礼儀というものだ。
いいだろう。
腹を決めるしかないだろう。もうとことん悩んでやろう。悩んで悩んで悩み抜いてやろう。悩みすぎて髪が真っ白になったっていい。歯が抜け落ちたっていい。
母親の言っていたことが今ならよくわかる。たしかに未来のことで――どの道に進むかということで――悩めるのは、未来の見えない人間の特権だものな。
俺は静寂の世界でたたずみながら、そのようなことをとりとめもなく考え続けていた。
高瀬がひとりで歩いてできた足跡を、降りしきる雪がひとつ残らず消してしまうまで。
第三学年・秋〈終〉
今回の季節もお読みいただきまして本当に本当にありがとうございました!
最後まで書ききることができたのも読者の皆様のおかげです。
心より感謝いたします。
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次章「第三学年・冬」で本作は完結となります。
最終章「第三学年・冬」は〈旅立ち〉と〈ハッピーエンド〉の物語です。
悠介たち5人が新しい道へ旅立っていきます。
どうぞご期待ください!




