第109話 未来の見えない私たち凡人の特権 1
《♠晴香》
「ええっ!? 神沢君と別れたの?」
いつになく驚く優里をさらに驚かせる自信が、晴香にはあった。
「そう。あたしから振ってやった」
「えええええっ!?」
優里は驚きすぎたのか目眩を起こした。予想以上の驚き具合だった。晴香は慌てて優里の体を支えた。
「ごめんごめん、悪気はなかったの」と晴香は目眩がおさまってから釈明した。「でもさ、なにもそこまで驚くことなくない?」
「驚くよ!」その声量に今度は晴香が驚いた。「だって晴香って、神沢君が宇宙服みたいなところあるでしょ。神沢君がいないとこの世界じゃ呼吸さえできない、みたいな。そんな人とせっかく恋人同士になったのに自分から振るなんて、驚くよ!」
どれだけあたしは普段から悠介のことを頼っていたのだろう、と思って晴香はちょっと照れた。
11月も下旬に差し掛かったある日の昼休み、晴香は優里を誘って屋上で弁当を食べていた。ときおり強い寒風が吹きつけてくるが、誰にも邪魔をされず二人きりで話ができるところとなると、場所はそう多くなかった。まぁどちらも生粋の北国育ちだ。少なくとも東京育ちの女子高生よりは寒さに耐性がある。
背後の給水タンクの陰からはしばしば物音がしたが、二人はあまり気に留めなかった。きっと群れからはぐれて南へ渡りそびれた渡り鳥が羽でも休めているのだろう。
「どうして神沢君を振ったの?」と優里が尋ねてきた。
「どうしてと聞かれると」晴香は箸を止めた。「悠介のため、って答えるしかない」
「神沢君のため?」
晴香はうなずいた。
「ほら、ここ最近であたしたちの状況って大きく変わったじゃない? 鳥海慶一郎が逮捕されたことで優里はあの男と結婚しなくてよくなった。うちの店は立ち退かなくてよくなった。でも未来が見える松任谷先生は、月島と一緒の未来で悠介がいちばん笑ってるって言う。前とは状況がゼンゼン違う。ならもういっそ、一旦あいつをフリーにしてやって、卒業まで残り三ヶ月で一から考えさせようと思ったの。何が自分にとって一番幸せなのか。悠介は幸せにならなきゃいけない。でも今度こそ自分で幸せをつかまなきゃいけない。そう思ったの」
「晴香は本当に神沢君の幸せを考えているんだね」
「“未来の君”は結局嘘だったけどね」と晴香は自嘲ぎみに言った。優里は晴香の気持ちを考えたのかくすりとも笑わなかったが、給水タンクの陰からは忍び笑いのようなものが聞こえてきた。きっと寒さに慣れない渡り鳥がくしゃみでもしているのだろう。
「さてさて優里」と晴香は気を取り直して言った。「今度は優里が答える番。温泉でも聞いたけど――あの時はうやむやに終わっちゃったけど――本当にこれからどうするつもりなの? 悠介とのこと」
「答えなきゃいけない?」
「それが聞きたくてわざわざ寒い屋上までついてきてもらったの」と晴香は正直に打ち明けた。「頭のいい優里ならわかってると思う。あたしは悠介を振ったけど、悠介との未来を諦めたわけじゃない。むしろ前よりあいつが必要だって感じてる。たしかに宇宙服だ。だから知っておきたいの。優里がこの先どうするのか」
優里は弁当箱を持ったまま無言で固まってしまった。
「悠介のことが今でも好きなんでしょう?」と晴香は敢えて質問を重ねた。
優里はそれについても何も答えなかった。
「自分からきちんと想いを伝える気はないの?」と晴香はダメ元で聞いてみた。優里はやはりうんともすんとも言わなかった。それでも辛抱強く待っていると、やがてかさかさに乾燥した唇がゆっくり動いた。
「そういうのは、できれば向こうから言ってほしいんだよね」と優里は言った。「私から想いを伝えるのは、なんていうか、負けっていう感じがして」
「負けず嫌いだねぇ」と晴香は言った。言った後で、悠介から好きと言われていないとつい数日前に自分がごねたことを思いだした。人のことは言えなかった。でももう後戻りもできなかった。「本当に優里は負けず嫌い。こんな負けず嫌いな人、見たことない」
「質問に答えると」優里は冷静にそう言った。「まだ答えは出ない。晴香には悪いけど。神沢君に何かを言わなきゃいけないことはわかってる。何かを伝えなきゃいけないことはわかってる。でもまだ何を言えばいいか、何を伝えればいいか、わからない。迷っている。そういう状態」
給水タンクの陰から舌打ちが聞こえたような気がした。渡り鳥がクチバシの手入れでもしているのだろう……か?
晴香は優里の心情を汲み取ってそれ以上尋ねるのはやめた。その代わりに先ほどから何かとわずらわしい渡り鳥の正体を炙り出すことにした。
「優里、ありがと。それにしてもさ、松任谷先生の言ったことってホントなのかな?」
「というと?」
「悠介はホントに月島と一緒の未来でいちばん笑ってるのかな? 全然そんな気がしないんだよな。あたしたちのどっちかじゃない?」
「黙れ、世界一の負けず嫌い女」と給水タンクの陰から聞こえた。
「ねぇ優里」と晴香は呆れて言った。「ずいぶん口の悪い渡り鳥だね」
♯ ♯ ♯
《♦涼》
慣れない寒さで慣れない諜報活動にすっかり懲りた涼はその日の放課後、街で丸目守とばったり会った。
こんにちは。もうすぐ冬だね。それではさよなら――でも別によかったが、トカイの現況が気になっていたので、近くの喫茶店に移って話を聞くことにした。なんといっても彼は鳥海慶一郎の腹違いの弟だ。
店の隅に備え付けられたテレビでは、ちょうどトカイ関連のニュースが流れていた。逮捕直後は容疑を否認していた鳥海慶一郎だが、連日にわたる取り調べの中でついに罪を自供し始めたという報道内容だった。それを見て涼は思わず表情がほころんだ。
「月島先輩」とマルメは言った。「兄がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。あらためてお詫びします」
テーブル越しに頭を下げる後輩を見て、涼は自分の頬を叩き、表情を引き締めた。
「やめなさい、マルメ君。私はなにもキミに謝罪をさせたくてここに誘ったわけじゃない。私はそんなに性格の悪い女じゃない。だから頭を上げなさい」
マルメはゆっくり体を起こして、メロンソーダを飲もうとした。しかしグラスをうまくつかめなかった。
涼はそれを見て腕をぐるぐるまわした。
「肩の力を抜いて、マルメ君。お兄さんはお兄さん。キミはキミ。わかった?」
「はい」
もう一度彼はグラスに手を伸ばした。今度はメロンソーダを飲むことができた。
「私がキミに聞きたかったのは、トカイ社内のこと。あの人の逮捕以来、社内の様子はどうなってるの?」
「そりゃもう、地震と雷と火事がいっぺんに発生したみたいな大混乱ですよ」とマルメは答えた。それから本当に肩の力を抜いたらしく、苦笑しながらこう続けた。「先輩たちのおかげで」
涼はうなずいた。「そうそう、その調子」
近くのボックス席には主婦らしきマダムたちが座っていた。彼女たちもテレビを見て、ああだこうだ言っていた。その話し声は嫌でも涼の耳に入った。
「私は前からトカイはダメだと思ってたの――」
「もうトカイは信用できないわね――」
「これからはタカセヤさんの天下ね――」
「トカイはもうおしまいね――」
涼は一度咳払いした。「ねぇマルメ君。トカイはこれからどうなるの?」
「おしまい、なんかじゃありません」と彼はマダムたちを見やってから小声で答えた。「なんとか廃業だけはまぬがれることができそうです。けれども世間の風当たりが強い以上、経営規模の大幅な縮小は避けられないでしょう。少なくとも今あるトカイの半分の店舗は、閉店しなければいけません。冬の時代、到来ですね」
「なんだかキミには悪いことをしたね」と涼は一抹の後ろめたさを感じて言った。
マルメは手を振った。そしてテーブルの上で指を組んだ。その姿はやけに様になっていた。
「遅かれ早かれこうなる運命だったんです。もし兄の罪が露見しなかったとしても、トカイはいずれなんらかの不祥事を起こしていました。断言できます。これは兄一人の問題ではないんです。社の体質の問題なんです。考えてもみてください先輩。うちは経営強化のためにライバル企業へ政略結婚を持ちかける会社ですよ? ましてや相手は当時高校に入学したばかりの希望に満ちあふれた女子高生。そういう倫理観のないことをしていては、これからの時代、生き残っていけませんよ」
涼は感心してテーブル越しの童顔を見つめた。そして冗談半分にこう言った。
「もういっそ、キミがトカイを継いじゃえばいいのにね」
「はい、僕が継ぐんですよ」
「なんだって!?」涼は目を丸くした。「マルメ君。キミ今なんて言った?」
「ですから、僕が継ぐんです。トカイを」
「あんれまぁ」
「現社長の父から先日、正式に言い渡されました。大学を卒業したら社に入り、しっかり経験を積んで、ゆくゆくはトカイの看板を背負っていく存在になれ、と」
「キミがトカイの次期社長になるんだ……」
「ずっと先の話ですよ」と彼は照れ臭そうに言った。「でも僕はトカイを立て直してみせます。何年かかるかわかりませんが、必ず。そのために高校を卒業したら海外の大学へ行くつもりです。ビジネスというものをしっかり学んで、やがていずれ、トカイを世界に通用する企業へ成長させます。笑わないでくださいね」
涼はもちろん笑わなかった。自分と同じく実家の家業を再興するという役割を与えられた彼に、シンパシーを感じないわけにはいかなかった。
「だから先輩」とマルメは背筋を伸ばして言った。「僕の恋は本当にここで終わりです。恋にうつつを抜かしている暇があるなら勉強しなきゃいけませんからね。月島先輩。素敵な初恋を、ありがとうございました」
「がんばんな」と涼は微笑んで言った。「マルメ君。がんばって立派な男になって、私を後悔させなさい。ああ、ちっきしょう、なんであんないい男を振っちゃったんだ、って、地団駄踏ませてみせなさい。いいね?」
マルメは素直にうなずいた。「それはそうと月島先輩。最後に一つ聞いていいですか?」
「なんなりと」
「あの、月島先輩は、神沢先輩と一緒になるんですか?」
この童顔は最後になんてことを聞くんだ、と涼は思った。もちろん顔には出さない。
「ま、まぁ、ある人によればだな、あいつをいちばん笑顔にしてやれるのは、どうやら私らしいのだ。しょうがないから、うん、まぁ、一緒になってやろうって感じかな。しょうがないから、三ヶ月後には、あいつを東京に連れていってやる」
マルメは笑うのを必死で押し殺していた。
「先輩、ゆう君とどうぞお幸せに」
涼は顔が火照るのを感じた。
「キミね、さすがに肩の力を抜きすぎだ」
♯ ♯ ♯
《♥優里》
涼が喫茶店で顔を赤くしている頃、優里は市内の結婚式場にいた。松任谷潤が来年3月1日の忌々しい披露宴をキャンセルするというので、それを自分の目でしっかり見届けに来た。
「これで手続きはすべて完了です」と潤は膨大な書類にサインしたボールペンをしまって言った。「式はもちろん、ドレスもケーキも引き出物も何もかもキャンセルしました。招待状を送ったゲストにもお詫び状を出しました。違約金も全額トカイ負担で支払いました。タカセヤとトカイの婚姻はこれにて正式に消滅しました。よかったですね、花嫁」
安堵したのも束の間、優里はずっこけそうになった。
「あのね。さすがにもうその呼び方はやめてよ。あなたにそう呼ばれると、バージンロードの先にいる鳥海慶一郎の気持ち悪い姿を連想しちゃうじゃない」
「こ、これは失礼しました!」潤ははにかみ笑いを見せた。「その呼び方が長かったもので、つい。これからは『優里さん』とお呼びしますね」
なんだかくすぐったかったが、『花嫁』よりはずっとマシだった。
「とにかく、お仕事おつかれさま」
「ありがとうございます。優里さんにそう言っていただけるのは、感慨深いものがあります。というのは、これが私にとって、トカイ社員としての最後の仕事でしたから」
初耳だった。「トカイをやめるんだ?」
「ええ。芽衣姉さんのかたき討ちは果たせましたし、それに私は秘書として仕える次期社長を豚箱送りにした社員ですよ? もはや社内に居場所はありませんよ」
「そりゃそっか」と優里は納得して言った。「それじゃ、これからどうするの?」
「ええと、実は、ですね……」どういうわけか潤は言いにくそうに口ごもった。「トカイを退社後は、タカセヤさんでお世話になることに」
「うちで!?」
「それも優里さん。社長であるあなたのお父様の秘書として、雇っていただくことに決まりました」
父親の性分を思い出した優里は、潤をあらためて一人の女性として見てみた。以前より表情はぐんと柔らかくなり、髪型も飾り気のないベリーショートから洗練されたショートウェーブに変わり、化粧もこころなしか艶やかになっている。
救いの手を差し伸べるかたちで召し抱えた26歳の美人女秘書。嫌な予感しかしなかった。
「あのね。一つ言っておく。うちのお父さん、きれいな女の人に目がないの。私が生まれる前からそうなの。あなたも絶対口説かれるからね?」
潤は苦笑いして手を振った。「ご心配なく。優里さんのご家庭を壊すようなことはいたしません。なにしろ私には現在、恋人がいますから」
「え? 今なんて言った?」
「ですから、恋人がいますから」
「ええええぇ!?」と優里は思わず甲高い声を上げた。ふたたび目眩が起きそうになる。よく驚く日だ。
「そんなに驚かなくても。人生は何度だってやり直せる。今からでも恋をすればいい。そう私に仰ったのは他でもなく優里さんじゃないですか」
「たしかに言ったけど……」いくらなんでも早すぎない? と優里は思った。「お相手は誰?」
「芽衣姉さんのフィアンセだった方です。姉のお墓参りの時にたまたま再会して、それで……。とても素敵な男性です。愉快な人です。あの方と一緒にいると笑いが絶えません」
潤が笑っている未来が見える。松任谷先生のその言葉を優里は思い出さずにはいられなかった。彼女が急に女っぽくなったのも腑に落ちた。「なんか、よかったね」
潤はしとやかに微笑んだ。それから姿勢を正した。
「私のことはともかく、優里さんこそ、これからどうするおつもりなんですか? いえ、こう言った方がいいでしょうか。優里さん。神沢悠介との未来は、どうするおつもりですか?」
優里は無意識にあたりを見渡した。試着中なのか、ウエディングドレス姿の女性たちが見えた。みんな幸せそうだった。みんな花嫁だった。花嫁。以前は嫌で嫌でたまらなかったその言葉が、今は素直に素敵に思えた。気づけばあるものを手のひらの上に載せていた。
「指輪……ですね」と潤はそれを見て言った。「美しい優里さんには似つかわしくない、安物のようですね。だいたいダイヤが偽者だ」
「そう、安物だし偽者の指輪なの」と優里は言った。「でもこれは神沢君が私にプレゼントしてくれた指輪なの」
潤は顔を引きつらせた。「こ、これは大変失礼いたしました」
優里は優しく微笑んだ。そして指輪を見つめた。
「あなたとの取引で彼から『一緒の未来を目指すことはできない』っていう言葉を引き出さなきゃいけなくなって、彼のことを思い出すようなものはすべて捨てようと思った。実際捨てた。でもこれだけは――この指輪だけは――どうしても捨てられなかった」
気持ちはわかります、というように潤はうなずいた。「女にとって男から贈られた指輪というのは特別なものですからね」
「これからどうするか、ずっと考えてた」と優里は言った。「考えても考えても答えは出なかった。でも不思議なものだね。ふとこの指輪を見た瞬間、それまでの時間が嘘みたいにすぐに答えが出た。このところいろいろなことが起こりすぎて、私は大事なことを忘れていた。この指輪はそれを思い出させてくれた。私が彼に言わなきゃいけないことを教えてくれた」
「もう迷いはないのですか?」
「もう迷わない」と優里は断言した。「今から私はこの指輪を持って、神沢君に会いに行く。そして、とても大事なことを伝える」




