第108話 蝶よ、はばたけ 3
《♣悠介 ♥優里 ♠晴香 ♦涼》
悠介が学校に戻って、優里に元気が戻って、トカイをやっつけて、占い師の正体も暴いたら、みんなでパーッと温泉旅行にでも行こう。
晴香がそう提案してからわずか二週間のあいだに悠介は学校に戻り、優里に元気が戻り、トカイをやっつけ、占い師の正体も暴いた。だから彼らは11月初旬の連休を利用して、本当に温泉旅行に来ていた。
まだ鳥海慶一郎が逮捕されていない現状ではトカイをやっつけたかどうかだけは怪しいが、旅行計画を知ったエミちゃん――松任谷潤――が悠介たちへの謝意も込めて上宿の宿泊招待券をプレゼントしてくれたので、フライング気味ではあるもののご招待にあずかることにした。
月明かりが紅葉を幻想的に照らす中、女湯の露天風呂では涼が外気浴用のチェアにふんぞり返り、湯に浸かる優里と晴香を見下ろしている。
「キミたちね、頭が高い。控えおろう。私を誰と心得る。メインヒロイン様であるぞ。オホホホホ」
晴香はもちろん頭を下げない。「うっとうしいなぁ、もう」
優里は同意する。「松任谷先生に未来を見てもらってから、もうずっとこの調子」
「ずっと調子に乗ってる」晴香は涼の笑い方を皮肉も込めて再現する。「あまり調子に乗ってると、今に痛い目に合うんだから」
涼は意に介さず優雅に脚を組んだ。
「神沢はこの三人の中で誰と一緒になる未来でいちばん笑っているか。そうセンセに尋ねてみれば、なんと私と答えるじゃないか。笑顔は幸せであるしるし。そう考えるとある意味じゃ私こそが真の“未来の君”じゃないか。メインヒロインじゃないか。ああ愉快愉快。オホホホ――」
そこで涼はふいに激しく咳き込み、首をおさえた。「ああっ! 痛い! ヤバイ! 喉をつった! なんで!?」
「だから言ったじゃない」晴香は心底呆れる。「だいたいアンタさ、占いじみたものは一切信じないんじゃなかったの?」
涼は優里の介抱の甲斐もあって、なんとか喋れるようになった。
「松任谷センセはホンモノだって。あの人が見えるって言うんなら、見えるんだって。神沢は私と一緒にいると笑いが絶えないんでしょうさ」
彼女は懲りもせずに、オホホホホを繰り返した。
「馬鹿なアンタが見苦しくて苦笑が絶えないんじゃないの」晴香はチクリとイヤミを言った。
「おお?」涼はさすがにムッとした。「おやおや。さては私が羨ましいのかな? “未来の君”の占いが愛する娘を救うためのセンセの嘘だったからといって、負け惜しみはやめてくれたまえ。嘘の占いでは神沢を幸せにするという“未来の君”の柏木さん?」
「負け惜しみなんかじゃない」と負けず嫌いの晴香はすかさず返した。「だいたい、あたしは月島に負けてないもん。悠介と実際に付き合ってるのは誰? 悠介のカノジョは誰? はい、このあたしです。アンタじゃない。あたしと悠介は正真正銘の恋人同士です。あたしはまな板さんなんかに何一つ負けてなんかいません」
まな板? と思って首をかしげたのは優里だ。なんのことを言っているんだろう? 晴香と涼が互いの胸を見ていたことで、やっと意味がわかった。
「言ったな?」涼はやや控え目に身を乗り出す。「貴様今、私に『まな板』って言ったな? ちょっと大きいからって図に乗りやがって。許さん」
晴香は怯むことなく文字通り胸を張る。「かかってきなさい」
「まぁまぁ」優里が見かねてふたりの間に割って入った。「せっかくいろんな問題を解決してみんなで温泉に来てるんだから。……ね?」
そこで垣根の向こうの男湯から聞き慣れた声が聞こえてきた。「やめろって」という悠介の大声と、ケタケタ笑う太陽の声だ。彼らもちょうど露天風呂に入っているらしい。そして男同士でじゃれ合っているらしい。
「神沢!」と涼が叫んだ。「ノゾキなんかするんじゃないよ! そんなことしたら未来にサヨナラだぞ!」
「するわけないだろ!」とすぐに悠介の声で返ってきた。そしてまた太陽の楽しげな笑い声とともに「やめろって」が聞こえてきた。
「あいつら、何やってんの?」晴香は恋人の身を案じる。
「裸の付き合い、ってやつ?」涼は訝しむ。
「ふたりとも、変な想像しないでよ」とたしなめる優里がきっと一番変な想像をしている。
やがて男湯から声が聞こえなくなると、三人の話題は再び“未来の君”に戻った。
「晴香には悪いけれど」と優里は言った。「私は未来の君の占いが嘘でほっとしたな。だってまなとと一緒になって幸せになる未来なんて、どうしても考えられなかったもの」
うんうん、と涼が大きく首を振る。「私が幸せになるには二歳年下の女性恐怖症の男の子と一緒にならなきゃいけない。そんなわけないない。未来の君なんてウソウソ。本当のことがわかって、本当に良かったよねぇ、高瀬さん?」
晴香は顔をしかめた。「アンタが言うとあたしに対する当てつけに聞こえんのよ」
「だって当てつけだもん」
「はぁ!?」
「おおっ? やるか?」
「かかってきなさいよ」
優里は再びふたりをなだめた。すると涼は涼しい顔でチェアから身を起こした。
「サウナに入ってくる。最近ハマってるの。『まな板』と言われたショックは汗と一緒に流しちゃいましょうね。オホホホホ」
涼の姿が見えなくなると、優里と晴香は無言で頭上のカエデを見上げた。葉々は深い紅に色づき、冬の到来がそう遠くないことをふたりに知らせていた。やがて晴香がぼそっと口を開いた。
「ねぇ優里。この二週間で状況は大きく変わったけど、これからどうするの?」
優里は無意識に髪を撫でた。「どうする、って?」
「進路のこととか、それからえっと……」
「神沢君のこととか?」
晴香は小さくうなずいた。
「進路のことについて言えば」と優里は言った。「鳥海慶一郎が逮捕されてトカイとの政略結婚が破談になったら、もう私を縛るものは何もないから、大学に行く。夢だった翻訳家への道を進む。ただ、神沢君のことについて言えば――」
「言えば?」
「言えば――」と繰り返して優里はそのまま押し黙ってしまった。「ねぇ晴香」と彼女はしばらく後で言った。「晴香は神沢君と約束したんでしょう? 将来、ふたりで一緒に居酒屋をやろうって。そして、結婚しよう、って」
晴香は悠介と約束を交わした夜を思い出してうなずいた。優里は今でも悠介のことが好きなの? 口元までそう出かかったが、答えを聞くのが怖くなって、その質問を湯気と一緒に呑み込んだ。
「ごめん! 今の話は聞かなかったことにして。せっかく温泉に来てるんだもん。こういうのはやめよう。難しいことは考えないようにしよう」
「聞かなかったことにする」優里はほっとしたようにつぶやいて、肩まで湯に浸かった。思わず、あぁ、と声が出る。「ああ、気持ちいいね」
晴香もタオルを頭に乗せ、体を湯に沈めた。「ねぇ、気持ちいいね」
♯ ♯ ♯
オホホホホ、と女湯から高らかな笑い声が聞こえるなか、男湯の露天風呂では悠介と太陽が肩を並べて湯に浸かっていた。太陽は垣根の方を見やった。
「ご機嫌だなぁ、月島嬢のやつ。クールな月島さんはどこ行った?」
悠介は苦笑するしかない。「もうこの何日かずっとあの調子だよ。何日もあんな笑い方を続けてたら、今に喉をおかしくするぞ」
ほどなくして、垣根の向こうから涼の咳き込む声が聞こえてきた。言わんこっちゃない、と悠介は呆れて思った。
「それはそうと悠介」と太陽は、咳が落ち着いてから言った。「“未来の君”の占いは嘘だった。でも未来が見えるのは本当だった。占い師――松任谷先生のその説明に、おまえさんは納得してるのかい?」
「正直言うと、まだいくつか釈然としない点は残ってる」と悠介は考えてから答えた。「たとえば、俺と柏木を結びつけるのが先生の目的だったはずなのに、どうしてはじめに『“未来の君”は柏木晴香です』と明言せず、『あなた様はもうすでに“未来の君”に出会っております』なんて回りくどい言い方をしたのか。
そしてどうして先生は二十年前、俺の母親と柏木の父親に“未来の君”をテーマにした小説を書くよう命じたのか。つまりそれが『未来の君に、さよなら』なんだが……。でもまぁ、そういう小さい謎は残っているにせよ、全体として大きく見ればあらかた辻褄は合っている。となれば納得するしかない。というか、納得しないと、前に進めない」
「“未来が見える“っつーのも信じるのか?」
「正直言うと、今でも信じられん」と悠介は考えてから答えた。「でも信じないことには前に進めないだろう。この世の中には90年以上一睡もせず健康に過ごした超人もいれば、7000冊以上の本のすべてのページを丸暗記できた超人も実在した。らしい。どっちも映画で知った。ということは未来が見える超人がいたとしてもおかしくない。そう考えるしかない」
「松任谷先生も映画になるのか?」
「それは未来が見える人に聞いてくれ」
太陽はくすっと笑った。それから言った。
「悠介からすれば松任谷先生は『テメーの都合で俺の青春時代をかき乱しやがった』張本人だろ? 許してくれと言われて、許せるのか?」
「正直言うと、先生の元に乗り込むまでは、ぶっ飛ばすつもりでいた」と悠介はやはり考えてから答えた。「でも話を全部聞き終わると、そういう気持ちは消え失せていた」
「ほう?」
「たしかにあの人のやったことは、教師としては責められるべきかもしれない。でも父親としてはどうだ? 誰も責められないよ。だって自分の娘の命を救いたいってのは、真っ当な願いだろ?
それに俺はこの二年半のあいだ、とても多くの人たちに出会った。“未来の君”の占いがなければ、決して会わなかった人たちだ。人間不信を抱えていた俺にとっては、振り返ってみればどれも大切な出会いだった。何一つ無駄な出会いはなかった。あの占いも悪いことばかりじゃない。だから許すよ。許す。あの娘思いのおっちゃんをいつまでも恨んでいたって、前に進めない」
「悠介おまえ」太陽の顔には感心と悪戯心が同居していた。「さっきから黙って聞いてりゃ、すっかり大人っぽくなっちまって。さてはこっちの方も大人か?」
太陽はケタケタ笑って悠介の股間をまさぐった。不意打ちに驚いた悠介は思わず「やめろって!」と声を荒らげた。
するとそれが女湯にも聞こえたらしく、すぐに涼の叫び声が返ってきた。
「神沢! ノゾキなんかするんじゃないよ! そんなことしたら未来にサヨナラだぞ!」
「するわけないだろ!」と悠介は即座に言い返した。
太陽はニヤついて耳打ちしてくる。「ノゾキなんかしなくたって、おまえさんなら三人とも裸を拝めるもんな?」
「言い方よ」
太陽は再びケタケタ笑って悠介の股間をまさぐった。
「やめろって!」
「お嬢様方にあらぬ誤解を持たれちゃおまえさんがかわいそうだからな。これくらいにしといてやる」
「未来が見える」と悠介は顔を真っ赤にして言った。「風呂から上がると、あいつらに疑惑の目で見られる未来が」
「映画化しよう」
「ふざけんな」
太陽は誰かの真似をしてオホホホホ、と控え目に笑って、それから表情をぐっと引き締めた。
「しっかし悠介よ。マジメな話、これからおまえさんはどうするんだ?」
「どうする、って?」
「未来のことだよ」と太陽は本当に真面目な顔で言った。「悠介が柏木と交際を始めたのは、高瀬さんがあまりにも冷たく接してくるからだった。でもそれはおまえを高校に戻すための高瀬さんの芝居だった。実は高瀬さんはおまえのことを第一に考えていた。そして『幸せを望むなら未来の君と共に生きねばならない』っていう占いは嘘だった。未来の君は誰だった? そう、柏木だ。しまいには先生は月島嬢と一緒の未来でおまえがいちばん笑っていると抜かす始末。柏木晴香。高瀬優里。月島涼。おまえはいったい、誰と一緒の未来を選ぶんだ?」
「そんなもん、決まってるだろ」と悠介は答えた。「俺は柏木と約束したんだ。高校を卒業したら四年後、一緒に居酒屋をやろうって。結婚しようって。約束したんだよ」
「なぁ悠介。今こそ正直に言え。約束した時と今じゃ、状況は大きく変わった。本当は考え直したいんじゃないのか?」
悠介は水面の一点を見つめたまま黙った。やがて故障した電子レンジみたいに変な声を発し始めた。これはいけない、と太陽は友を案じた。
「スマン! 今の話は聞かなかったことにしてくれ。せっかく温泉に来てるんだ。こういうのはやめよう。難しいことはナシだ。なぁ?」
「聞かなかったことにする」悠介はほっとしたようにうなずいて、肩まで湯に浸かった。「気持ちいいなぁ」
太陽はタオルを頭に乗せ、夜空を見上げた。「ああ、いい湯だなぁ」
♯ ♯ ♯
浴衣を着て客室に戻った五人は、食事が配膳されるまでのあいだ、思い思いの方法でくつろいでいた。
悠介は茶菓子の横に置いてあった木のパズルを解くのに夢中になり、太陽は寝転がってスマホをいじり、涼はマッサージチェアに身を委ね、優里と晴香は将棋崩しで遊んでいた。
温泉を満喫した後の夕食前のひととき。誰もが難しいことは考えず、至福の時間を楽しんでいた。
そんなまったりしたムードをぶち壊したのは、太陽だった。彼はスマホを持ったまま立ち上がり、「ああっ!」と素っ頓狂な声をあげた。
晴香はびっくりして山を崩してしまった。駒をつかんで太陽に投げつけるところだった。「なによ、突然!」
「テレビだテレビ!」と太陽は目を見開いて叫んだ。「誰かテレビをつけてくれ!」
リモコンから一番近いところにいた悠介がテレビをつけた。太陽がわめいた理由はすぐにわかった。そこに映っていたのは今朝までいた街の――普段暮らしている街の――警察署だった。
画面の右上には「速報」のテロップがあった。涼はマッサージチェアから降り立った。五人の視線はテレビの画面に釘付けになった。署の前には緊迫した面持ちのアナウンサーが立っていた。「繰り返します」とそのアナウンサーは言った。
「○○市で起きていた連続暴行事件に関して、警察は会社役員の男から任意で事情を聞いていましたが、今日午後、容疑が固まったとしてこの男を逮捕しました。逮捕されたのは地元企業トカイの会社役員・鳥海慶一郎容疑者とその秘書の男です。鳥海容疑者は『身に覚えがない』と否認していますが、警察ではさらに余罪があるとみて捜査を進めています。繰り返します……」
五人がいっせいに快哉を叫びかけたところで、誰かのスマートフォンが鳴った。
それは優里のスマホだった。「お父さんから」と優里は申し訳なさそうに言った。そして立ち上がって電話に出た。
彼女は自分からは何を言うでもなく、タカセヤ社長の父親の言葉に耳を傾けていた。長い電話だった。やがて通話が終わると、優里はその場に膝から崩れ落ちた。目からは涙がこぼれ落ちた。
「おいどうした!」とすかさず悠介が近寄って声をかけた。「なぁ高瀬。直行さんにいったいどんなひどいことを言われたんだ?」
「違うの神沢君」と優里は言った。混じり気のない笑みが、顔全体に広がっていた。「鳥海慶一郎が逮捕されたことで、タカセヤとトカイの合併は白紙になったんだって! そして、そして……」
優里は泣きながら笑いながら、凜々しく言葉を絞り出した。
「そしてね、私と鳥海慶一郎の結婚も、完全に消滅したんだって――!」




