第108話 蝶よ、はばたけ 1
《♣悠介 ♥優里 ♠晴香 ♦涼》
「“未来の君”の占い師はあなただったんですね――」と晴香が先陣を切った。30日前、妊娠した叔母のお腹を撫でていたときは、わずか一ヶ月後に自分がそんなセリフを口にするなんて思いもしなかった。
「もう逃げられませんよ」と優里が続いた。そして社会科準備室の入り口に立ちはだかった。「私たちはあなたに聞かなきゃいけないことがたくさんあるんです。今日という今日こそ、すべての疑問に答えてもらいます」
「こないだはどうも」とシニカルに言ったのは涼だ。「本当はこの学校の教師じゃないの、って聞いたら否定しましたよね? 教師が生徒に嘘をついたらだめですよ、センセ」
悠介は三人の顔を順に見た。それから決然と部屋の主の元へ歩みを進めた。
「あなたが幸せを望むならば、運命で結ばれた“未来の君”と共に生きていかねばならない。満月の夜に呼び止められて、あなたにそう告げられたのがすべての始まりでした。一年生の春のことでした。あれから二年半が経ちました。この二年半のあいだ、俺たちはあなたに翻弄され続けてきました。悩まされ続けてきました。でもそれも今日で終わりにします。“未来の君”とはいったいなんなのか。そしてあなたの目的はなんなのか。すべてを明らかにします。いいですね、松任谷先生」
退職を数ヶ月後に控えた校内一のベテラン教師は椅子に腰掛けていた。彼は無表情で自身のトレードマークとなっているループタイの留め具をいじった。
「葉山太陽君と藤堂アリスさんはいないのかな?」
それには悠介が答えた。
「太陽は占い師とは元々関わりがありませんし、医学部に現役合格するため今は一秒でも時間が惜しいんです。『あとは煮るなり焼くなり好きにしてくれ』とのことでした。一方、占い師のせいで一家離散の目にあったアリスは復讐に燃えていました。『煮ても焼いても気が済まない』とのことでした。あなたが真実を語る前に喋れなくなるのだけは困るので、正体に関してはうやむやにしておきました」
松任谷先生は机の上で指を組んだ。
「どうして私が占い師だと思うのか、その理由をお聞かせ願えるかな?」
「こいつが俺たちをこの場所へ導いてくれました」と言って、悠介はポケットから10円玉ほどの大きさのバッジを取り出した。手のひらの上で、金色の鳥は輝いている。
「今から十年前、俺たちの先輩でもあるひとりの女子生徒がやはり満月の夜に呼び止められて、“未来の君”の占いを受けました。しかし彼女はその結果に納得がいかず、占い師に掴みかかりました。その拍子に黒マントの下から落ちたのが、このバッジです」
「トカイのバッジです」と優里が言い直した。
「俺たちは不思議で仕方ありませんでした」と悠介は言った。「どうして占い師がマントの下にトカイのバッジなんか身につけていたのか。その理由がわかった時――つまり占い師とトカイをつなぐ糸が見えた時、おのずと占い師の正体も判明しました」
涼が一歩前に出る。
「このバッジをデザインしたのは、今から十四年前、美大を卒業してトカイに入社した女性です。トカイの社員として順調に仕事をこなしていくなかで恋人との結婚も決まり、幸せの絶頂にあった彼女をある不幸が襲います。挙式のリハーサルに一人で向かう最中、後ろから近づいてきた黒ワゴンに無理やり乗せられ、暴行を受けたのです。後日、そのことを苦に彼女はみずから命を絶ちました。今この街のみならず、日本中を騒がせている、鳥海慶一郎による連続暴行事件の最初の被害者が彼女です」
「このバッジを占い師が身につけていた理由――それは、亡くなった娘さんの形見だからです」と悠介は言った。「彼女の名前は松任谷芽衣さん。五月生まれだからメイと父親が名付けたそうです。太陽の奴が勉強の時間を削って俺たちのために何もかも調べてくれました。良い友を持ちました。あいつには感謝しかありません。まぁとにかく、占い師は愛する娘さんの形見を肌身離さず身につけていたわけです。松任谷なんてそんなに多くある名字じゃありません。たとえば斉藤や篠田や島と違って。特にこんな地方都市では。事件が起きたのは十年前。バッジが占い師のマントの下から落ちたのも十年前。松任谷先生。亡くなられた芽衣さんは、先生の娘さんですね?」
松任谷先生は机の上で組んだ指に目を落とした。指が気になったというよりは、他に目をやる場所がなかったという感じだった。それを見てすかさず晴香が口を開いた。
「先生にはもう一人、娘がいるよね? 芽衣さんより十歳年下の妹。今年ちょうど芽衣さんが亡くなった26歳になる女性。その妹さんはあたしたちの前には、『エミ』って名前で現れた。トカイの秘書としては『笑』。私立探偵としては『絵美』。今にして思えば、あれはお姉さんの名前を意識していたんだね。お姉さんは笑顔が素敵な人で絵が好きな人だった。それに『EMI』を入れ替えれば『MEI』になるもんね。あの人の本当の名前は松任谷潤。六月生まれだからジュン。先生が名付けたんだよね?」
沈黙が降りた。
時計の針を除いて室内の何もかもが動きを止めていた。
長い沈黙だったが、四人にとってはそれほどきつい時間じゃなかった。これまで二年半ものあいだ苦悩してきたことに比べれば、これくらいなんでもなかった。
やがて部屋の主は観念したようにため息をついた。それから机の上で組んでいた指を解き、ループタイの留め具を胸元から首元までゆっくり押し上げ、そこに向かって声を発した。
「お見事にございます。バッジひとつからよくぞ、わたくしめの正体を突き止めましたな」
それはまぎれもなく占い師のしゃがれ声だった。松任谷先生は決まりが悪そうに苦笑して、留め具を胸元まで戻した。
「おもしろいだろう? ループタイのように見えて実は変声器になっているんだ。知り合いにこういうニッチなものを作るのが趣味の変人がいてね。特別にあつらえてもらったんだ。ああ、かく言う私も変人か。類は友を呼ぶ、というやつだね」
「認めてくれて、ありがとうございます」と悠介は背中の荷物を下ろすように言った。そして十年にわたって日本各地を旅したバッジを机の上に置いた。「これは俺たちにはもう必要ありません。本来持っているべき人にお返しします」
松任谷先生がバッジを手にとると、四人は誰が言い出すでもなく、それぞれの顔を見た。誰の顔にも安堵が浮かんでいた。でもすぐに表情は引き締まった。まだ第一関門をくぐり抜けただけに過ぎない。まだ油断はできない。問題はここからだ。真相にたどり着くため、第二第三の関門を突破する必要がある。
「松任谷先生」彼が逃げる心配がなくなったので、優里はドアの前から離れた。「教えてください。どうしてわざわざそんな道具で声を変えてまで――黒マントで変装してまで――占い師にならなければいけなかったんですか?」
先生は自身を指さして自嘲ぎみに笑った。
「こんなしょぼくれた男がしょぼくれた格好で『あなたの未来が見える』と言ったところで、いったいどこの誰が耳を傾けるだろう? 頭のおかしい人間だと思われるのがオチだ。誰も聞きやしない。誰も信じやしない。だから私はやむなく占い師に扮することにした。声を変え、全身マントで顔まで覆い、いかにも厳かな喋り方をした。
ムードによってさらに発言の信憑性を高めるため、姿を現すのはできるだけ満月の夜を選んだ。そして意味もなく水晶を覗き込むふりをした。そうでもしないと人は聞く耳を持たないからね。信じないからね。私の言うことなんて」
首をかしげたのは、悠介だ。
「なんだかまるで、本当に未来が見えているような口ぶりですね?」
「ああ。なにしろ本当に未来が見えるからね」
「そんなまさか」悠介は苦笑する。「この期に及んで、冗談はやめてくださいよ」
「冗談なんかじゃないよ」と先生は顔色ひとつ変えず、平然と返した。「君たちも知っていると思うが、私は学生時代、浅草雷門の近くで雷に打たれたんだ。それからしばらく私は意識がなかった。死の淵をさまよった。三日後、病院のベッドで目を覚ました私は、自分に不思議な能力が身についていることに気づいた。未来が見えるのだ。
一人息子の意識が戻り泣いて喜んでくれた両親の未来。治療にあたってくれた医師や看護師の未来。見舞いに来てくれた友人たちの未来――。でもすべての未来が正確に見えるわけじゃなかった。恋人の未来だけはうまく見えなかった。それは今でも続いている。正確に見える未来と見えない未来がある。たとえば、今日こうして君たちがこの部屋に来る未来は見えた。しかし四人ではなかった。六人だった。だから最初に尋ねたのだよ。葉山太陽君と藤堂アリスさんはいないのか、と。私には未来が見えるのだ」
四人はふたたび顔を見合わせた。誰の顔にも当惑が浮かんでいた。誰の口からも言葉が出てこなかった。
「にわかには信じられないようだね」と先生がそんな彼らを見かねたように言った。「まぁ無理もない。君たちの気持ちもよくわかるよ、うん。だいたい、私だっていまだに戸惑っているくらいなんだからね。そうだ。論より証拠だ。私がほら吹きではないことを今君たちの目の前で証明できればよいのだが。何か手頃なものはないかな……」
涼がバッグの中をまさぐった。「トランプならありますけど」
「ああ、ちょうどいい。それじゃこうしよう。君たちは四人だから、まずはその中からクラブ、スペード、ダイヤ、ハート、各絵柄のカードを一枚ずつ抜き出してくれ。数字はなんだってかまわない」
言われた通り、晴香が涼の手から四枚のカードだけを抜き取った。数字はなんでもいいと言うのでエースを選んだ。そして残りのカードはケースに戻した。
「ではその四枚のカードをしっかり混ぜてくれ。ああ、くれぐれも表を私には見せないようにね」
今度は優里が指示に従った。四枚のカードを裏返しのまま、念入りにシャッフルした。どのカードにどの絵柄が描かれているのか、もはや優里にもわからなかった。
「それでは君たち。一枚ずつカードを引いてくれ。誰がなんの絵柄を引いたか、当ててみせよう」
四人がカードを引いているあいだ、先生は彼らには目もくれず――そこに文字通り未来が見えるのか――あさっての方向を向いていた。
引きました。悠介がそう言うと、先生は含蓄のある笑みを浮かべ、例のループタイの留め具を再び首元まで押し上げた。
「せっかくですからな。わたくしめが当ててごらんにいれましょう。何の気なしに選んだつもりのカードも実は運命の導きによってその手にあるのです。みなさまは選ぶべくしてそのカードを選んだのです。まずは月島涼様。あなたが引いたのは《♦》のカードですな?」
涼は何事にも動じない美少女・涼っちを装ったが、どうしても驚きが顔に出た。なにしろ手元にあるのは♦のエースだった。
「♦は貨幣の象徴、すなわち、お金を意味しまする」と占い師は言った。「商人の才覚これに優れ、先祖代々の家業を守り継ごうとする強い意志が宿るあなた様だからこそ、そのカードが訪れたのでしょう。このうえない吉兆にございます」
涼は何も言うことができなかった。悪い気はしなかった。実家のせんべい店・月島庵を再興するというのが夢だった。
「お次は柏木晴香様」と占い師は言った。「あなたは《♠》のカードを持っておりますな?」
持っていた。晴香は思わず目をまたたいた。
「♠は剣のシンボルにして、意味するものは死にございます。病にて生と死を意識なさることの多かったあなた様に、カードが引き寄せられたのかもしれませんな。でもご心配召されますな。剣は心の強さの象徴でもありまする。ゆえにいずれその屈強な刃が病を打ち破ることでしょう」
晴香は何も言うことができなかった。たしかに生死のことを考え続けた十代だった。
「さて」と占い師は言った。「残るはお二方ですな。まずは高瀬優里様。《♥》のカードをお持ちですな?」
優里はため息をついた。なぜならこれで四人とも当たっていることが確定したからだ。手元には♥のエースがあった。
「♥が象徴するのは聖杯。そして意味するのは愛にございます。家族愛、郷土愛、隣人愛、さまざまな愛に溢れるあなた様がそのカードを引くのは必定にございましょう」
家族愛や郷土愛はともかく、隣人愛? と優里は思ったが、考えてみればトカイとの政略結婚を承諾したのも、見ず知らずの多くの人たちを守るためだった。
「最後は神沢悠介様。言わずもがな、《♣》のカードをお持ちですな。♣は棍棒の象徴にして知恵を意味しまする。ご自身を救うため、お仲間を救うため、知恵を求め、知恵を絞ってきたあなた様に最もふさわしいカードと言えますな。さらに新たな知恵を求めるならば、必ずや道は開けましょうぞ」
つまりそれは大学に行けるってことですね、と興奮している場合じゃなかった。悠介は手元の♣に目をやってから、四人のカードを集め、じっくり細部まで調べた。でもやはりどこにでもあるいたって普通のトランプだった。
だいたい、松任谷先生が用意したものではないのだ。涼のバッグの底にたまたまあったトランプなのだ。さらにこの四枚を選んだのは晴香なのだ。種も仕掛けもあるはずがなかった。
「いかさまなんかしちゃいないよ」と部屋の主は占い師から教師に戻って言った。「これでちょっとは信じてもらえるかな? もう一度言おう。何度でも言おう。私には未来が見えるのだ」




