第107話 そうお呼びするのはもうよしましょう 4
《♣悠介》
“帝国”の崩壊は確実に始まっていた。
その立役者となったのは、帝国に未来を奪われた女と、帝国に未来を奪われかけている少女だった。
椿原笑を味方に引き入れることに成功した高瀬は、事件の決定的証拠を入手するため、優等生にあるまじき作戦を思いつき実行した。それは色仕掛けだった。
ターゲットは鳥海慶一郎の第一秘書である卓田。慶一郎はよく物をなくす癖があり、共犯者でもある卓田に犯行の動画を保存してあるスマートフォンを管理させていた。
卓田は事あるごとに自分の立場をおびやかしてくる第二秘書の椿原笑に対してはひどく警戒していたが、高瀬に対しては無警戒だった。それどころかむしろ下心があるような態度で上司のフィアンセに接していた。高瀬はそこに目をつけた。
健康なヒキガエルみたいにむっちり肥った鳥海慶一郎とは対照的に、卓田は死に損ないのインパラみたいにガリガリに痩せていた。風が吹けば倒れそうだった。
しかしいくら相手がひ弱な男といったって、その作戦を実行するには少なからず身の危険を伴った。リスキーだった。そこで頼りになったのが味方の存在だ。椿原笑は合気道の有段者だった。姉が力によって蹂躙されたのが悔しくて習得したのだ。
もし卓田が高瀬の体に指一本でも触れようものなら、物陰に潜んでいた椿原笑がすぐさま飛び出し、得意の四方投げをお見舞いする。あるいは金的を決める。そういう手はずになっていた。でも結局彼女は誰のことも投げなかった。誰の金玉も蹴らなかった。卓田は二人の予想以上に馬鹿だった。
「本当は私、慶一郎さんのように体の大きい男性よりも卓田さんのようにスリムな男性の方がタイプなんです」
耳元で高瀬にそう甘くささやかれただけで、彼はすっかりのぼせあがってしまった。のぼせて、慶一郎の私物の入ったポーチなど視界に入らなくなっていた。その隙に高瀬はポーチから目的のものを抜き取った。
スマホに複雑なロックでもかかっていたら厄介だったが(椿原笑はその可能性も考慮に入れてアンロックの専門家とも人脈を築いていた)、慶一郎は卓田を信用しきっていたらしく、さほど苦労せず探していた動画は見つかった。
高瀬はそれを見なかった。先に映像を確認した椿原笑が見せなかったのだ。それくらいその動画はおぞましい代物だった。そこには多くの女性の悲惨な姿が生々しく記録されていた。そして鳥海慶一郎の顔と撮影者である卓田の声も。それはまぎれもなく事件の決定的証拠だった。
とにかく高瀬は無事証拠を入手した。そこから先は椿原笑の仕事だ。どうやって下劣な男たちの卑劣な蛮行を世に知らしめようか。スマホを捜査機関に証拠として提出するのではあまりにも味気ないし、それに腹の虫もおさまらない。そこで椿原笑がとったのは、彼らに生き地獄を味わわせる方法だった。
実は翌日には、卓田の結婚披露宴が予定されていた。当然上司の鳥海慶一郎もそこで祝辞を述べることになっていた。その最中に式場のスクリーンにでかでかとその動画を流す。そのうえ阿鼻叫喚の場と化した式場の様子をSNSに匿名アカウントで拡散させる。
椿原笑はそんな秘書にあるまじき作戦を思いつき、そして実行した。
もちろん被害女性たちの尊厳を守るため、動画には多くの加工を施した。何食わぬ顔でスピーチをしている男と新郎席に座っている男がいかに許されざる存在か。それを際立たせた。
椿原笑の思惑通りにことは運んだ。招待客からは罵声が飛び、慶一郎は取り乱し、花嫁は怒り狂い、新郎の卓田にいたっては気絶した。華やかなはずの披露宴はまさに地獄の様相を呈した。
そのようにしてついに、鳥海慶一郎の罪は白日の下にさらされた。
一地方都市を震撼させた連続暴行魔の正体は、地元有力企業の次期社長だった――。そんな話題性たっぷりのおいしいネタをマスコミが放っておくはずがなかった。彼らは全国各地からわんさか集まってきて、この前代未聞の事件を大々的に報じた。
トカイ本社前は昼夜問わず報道陣でごった返していた。新聞でテレビでネットで事件は報じられた。
報道が熱を帯びてくるとやがて、トカイとの業務提携を解消する企業が出てきた。トカイとの取引をやめる業者も現れた。トカイへの内定を辞退する学生もいた。トカイではもう買い物をしないという地元民も少なくなかった。市長や知事さえもトカイへの批判を公然と口にした。トカイへの風当たりは、リアルでもネットでも強まる一方だった。
もちろん警察も動き出していた。しかし相手が地域随一の名士だけに、捜査はだいぶ慎重を期しているらしかった。そして鳥海慶一郎も往生際悪く、罪を認めていないらしかった。それでも逮捕は時間の問題だというのが大方の見方だった。
いずれにせよ――逮捕されようがされまいが――結婚式の動画がウェブ上に“証拠”として残り続ける以上、どうやったって彼と卓田には生き地獄しか待っていなかった。まぁ、自業自得ってやつだ。
♯ ♯ ♯
「トカイ帝国の崩壊――終わりの始まり」
スマホでネットニュースを見ていた俺は、突然のその声におののいた。背後からだった。金色の髪が目の隅に入り、さらにおののいた。山姥のたぐいでも現れたのかと思った。
でもここは山奥の秘境じゃない。高校の屋上だ。振り返ればそこには、藤堂アリスが立っていた。
「私に気づかないほど真剣にスマホを見ているから何かと思ったら、やっぱりアンタも『トカイ』か」彼女はうんざりしたように細く切り揃えられた眉をひそめた。「校内じゃ誰に会っても口を開けば『トカイ』。街に出ればマスコミがマイクを向けてきて『トカイ』。どいつもこいつも『トカイトカイ』うざいっての。全部アンタたちのせいだからね」
俺は苦笑した。「そいつは申し訳なかったな」
「トカイの話は私としてはどうでもよくて」この後輩は決して敬語を使わない。「私がわざわざアンタに会いに来た理由はひとつしかない。占い師の件。アンタ、占い師の正体がぼんやりわかりかけているんだって?」
「誰に聞いた?」
「月島涼から。こないだたまたまサウナで会って」
「おまえたち、サウナなんか行くのか?」
「女子高生が行っちゃダメなの? サウナでリフレッシュするのはおっさんだけの特権だっていうの?」
「いや、そんなつもりはないけど」
「とにかく」とアリスは言った。「サウナで月島涼に聞いた話によればなんでも、占い師の正体はこの学校の四人の教師に絞られたらしいじゃない?」
俺はうなずいた。
「俺の担任の篠田先生。変人だが良き理解者の松任谷先生。青森から帰ってきたカンナ先生。斉藤カンナ先生。そして母親の担任だった泣き虫の島先生。全員俺の復学のために尽力してくれた先生だ。でも残念ながらと言うべきか、この四人のうちの誰かが占い師なのは間違いない」
「なんでそんな大事なことを私にずっと黙ってたのよ!」アリスは鬼の形相になる。「占い師に関する情報が得られたらそれを二人で共有する。そういう取り決めだったじゃない!」
「すまん」と俺は素直に詫びた。「とにかくまずは高校に戻ることに必死で、そこまで考えが回らなかったんだ。俺の気持ちもわかってくれ」
「占い師に復讐したい私の気持ちもわかってよね」
“未来の君”の占いによって彼女は一家離散の憂き目にあい、そして岩崎から藤堂に姓を変える羽目になったのだった。ごめん、と俺は改めてちゃんと謝った。
「で、占い師を特定する手がかりみたいなものはないの?」
「ひとつだけある」と俺は言った。そしてポケットから例のバッジを取り出した。
唯のことは覚えているな? 去年の冬休みのあいだ、うちに居候していたガキんちょだ。おまえにも一晩面倒を見てもらった」
「たしかに見てやった」
「今から十年前、唯の母親も“未来の君”の占いを受けた。唯の母親はその占いに納得がいかなかった。彼女は頭にきて占い師の胸ぐらを掴んだ。するとマントの下からこいつが落ちてきたっていうんだ」
「トカイのバッジね」
「そうだ」
「つまり占い師はトカイと関係のある人物――ってこと?」
「そういうことだ」
「またトカイか」と言ってアリスはため息をついた。「もう本当にうんざりなんだけど?」
「もうちょっとうんざりさせることになる」と俺は言った。そして高瀬から聞いた話を思い返した。「実はこのバッジ、今回トカイに打撃を与えるため協力してくれた女秘書の実の姉がデザインしたんだ。そのお姉さんは関西の美大を出てトカイの社員になった。おまえも将来は画家志望だったよな? 絵心のある人間の目からこのデザインを見て、何か気づくことはないか?」
アリスはバッジを手にとって真剣な目つきでまじまじと観察した。それから首を振った。
「これといって。だって、なんのヘンテツもないデザインじゃない。よく言えば万人受けするデザイン。悪く言えばつまらないデザイン」
「そっか」と言って俺はバッジを彼女から受け取った。
「私じゃなくて、デザインした本人に直接話を聞いてみれば? 協力してくれた秘書のお姉さんなんだから、会おうと思えば会えるでしょ?」
「会いたくても会えないんだ」
「どうして」
「もうこの世にいないから」と俺は事実を伝えた。「そのお姉さんこそが、鳥海慶一郎の事件の最初の被害者なんだ」
「そのことを苦にして自分で死を選んだってわけ?」
俺がうなずくと、アリスは柄でもなく申し訳なさそうな面持ちになった。そしてバツが悪そうにもう一度バッジを見た。つまらないデザインなんて言ってごめんなさい、という風に。
そこで俺のスマホが誰かからメッセージを受信した。送ってきたのは太陽だった。そのメッセージは同時に三人娘にも送信されていた。
「四人の教師とトカイのあいだに何か関係があるか調べていたわけだが、やっとこさ見つかった。一人だけ、大きなつながりのある教師がいる。それもただならぬつながりだ。悠介。高瀬さん。柏木。月島嬢。そんなわけで、放課後、鋭次さんのラーメン屋に集合な!」
「またトカイ」とアリスは嘆いた。画面を盗み見ていた。
「おまえも来るか?」と俺は言った。「今よりもっと、うんざりさせるだろうけど」
♯ ♯ ♯
放課後、うんざりしてもかまわないというアリスを連れて、俺は鋭次さんのラーメン屋へ向かっていた。
思わず俺の足が止まったのは、霊園の近くを通りかかった時だった。面識のある人物が車の運転席から降りてきて、中に入っていくのが見えた。エミちゃんだ。
よっぽど呼び止めて協力してくれた礼の一つでも言おうかとも思ったが、彼女は厳めしい顔つきで脇目も振らず歩いていて、とても声をかけられるような雰囲気ではなかった。
エミちゃんはいつものダークグレーのスーツではなく、黒のフォーマルドレスを着ていた。そして手には白のカーネーションを持っていた。
「なんで墓場の前で立ち止まるのよ」アリスは気味悪そうにぼやく。「美女の霊でも見えた?」
俺は首を振った。それから目で生身の美女を追った。
「あの人なんだ。トカイを倒すために力を貸してくれた女秘書」
「つまりトカイのバッジをデザインした人の妹?」
「ああ」
「なるほどね」とアリスは言った。「鳥海慶一郎への復讐を無事果たして、天国のお姉さんへ報告に来たんだ」
「まぁそんなところだろうな」
やがてエミちゃんはある墓石の前で立ち止まった。そして墓まわりをかいがいしく掃除して線香をあげ、古くなった花の代わりにカーネーションを供えた。そこに愛すべきお姉さんが眠っているらしかった。エミちゃんは背筋を伸ばし、両手を合わせ、目を閉じた。
――その直後だった。
俺の頭は混乱した。右脳と左脳が入れ替わったみたいに激しく混乱した。
それは墓石に刻まれた家名が目に入ったからだ。『なんとか家之墓』というやつだ。そこには思いも寄らない名字が刻まれていた。「椿原」でもなければ「松原」でもなかった。それはあの教師と同じ名字だった。決して多くはない、とても珍しい名字。
どういうことだ? と俺はめまいを覚えつつ思った。これはいったいどういうことだ? なぜ彼女があの墓石に花を手向けているんだ? あの家名が掘られている墓石に?
答えが欲しければ考えるしかない。空から降ってくるわけじゃない。だから考えた。頭は混乱しているし、視点は定まらないが、必死に考えた。やがて一つの仮説が組み上がっていった。
彼女のお姉さんが自ら命を絶ったのは十年前のことだった。そして唯の母親が占い師に掴みかかってマントの下からバッジが落ちたのも、たしか十年前のことだった。となれば占い師がバッジを身につけていた理由は――。
俺は再びポケットからバッジを取り出した。そしてあらためて墓石に掘られた名字を確認した。この二年半のあいだに起きた出来事がひとつひとつ頭の中によみがえった。
「あなた様はもうすでに“未来の君”に出会っております」。占い師のその声は今やあの教師の声にしか聞こえなかった。
俺は大きく息を吐いて、思わず空を見上げた。冬が近づく秋の空は一点の曇りもなく澄み渡っていた。その寒々しくも美しい空は俺の混乱を解き、そしてめまいを治した。
「そういうことだったのか」
「なによ、さっきから一人でぶつぶつ言って。うんざりなんだけど」
「もうちょっとうんざりさせることになる」と俺は笑みを浮かべて言った。「なぁアリス。やっとだ。やっと辿り着いた。長かった。本当に長かった。ようやくわかったよ。俺たちを惑わし続けてきた、占い師の正体が」




