第107話 そうお呼びするのはもうよしましょう 3
《♥優里》
「お願い。トカイを倒すため、あなたの力を貸して」
市内一まずいという評判のラーメンを――彼女にとっては世界一うまいラーメンを――完食して英気を養った優里は、さっそく椿原笑と会って共闘しようと説得にあたっていた。
場所は結婚式場のラウンジ。今日はちょうどこの後、ブーケの選定をする予定になっていた。下見に来たのだろう、幸せそうな顔をした若い男女が難しい顔をした二人の近くを通り過ぎていった。
「花嫁」と椿原笑は向かいの席で言った。「私が鳥海慶一郎の秘書としてトカイに入社した本当の目的を見抜いたあなた方には、素直に感服いたします。しかしそれとこれとは話が別です。これは私が一人で始めた戦いです。きわめて個人的な戦いなのです。ここまできたら私一人でけりをつけます」
優里はテーブルの上に身を乗り出した。
「あなたはお姉さんの仇である鳥海慶一郎に復讐したい。私は鳥海慶一郎との結婚を回避したい。私たちの利害は一致してるんだよ? ここは手を組みましょうよ」
彼女は断固として首を縦に振らなかった。頑固な女、と優里は誰かのことを棚に上げて思った。まぁでも、椿原笑がおいそれと説得に応じたりしないことは、想定の範囲内だった。彼女の性格を優里はよくわかっていた。これまで幾度となく気難しい女だ、と感じたことがあった。誰かのことは棚に上げて。
こうなったら切り札を使うしかない。優里はそう思った。実はここに来る前、涼から“とっておきの情報”を得ていた。目の前の頑固で気難しい女も説得に応じざるを得ない、隠し球的情報。優里はその最強のカードを切ることにした。
「それじゃひとつ質問するけど、あなたは事件の証拠を――犯行の動画が保存してある鳥海慶一郎のスマホを――どうやって手に入れるつもりなの?」
「ですからそのために私はあの男の第一秘書になる必要があるのです」と鳥海慶一郎の第二秘書は言った。「第一秘書にはあの男の私物を管理する役割が与えられています。もちろんスマホもしかりです。花嫁、私の意思に反して、あなたと神沢悠介の仲を引き裂こうとしたのも、柏木晴香の店に立ち退きを執拗に迫ったのも、すべてはそのためです。
まずは与えられた仕事で手柄を立てる。手柄を立ててあの男の信用を得る。信用を得て第一秘書に昇格する。第一秘書に昇格してそして――。つまりそういうことです。目標まであと一歩。今の第一秘書より有能であることを示し続ければ、必ず昇格できるはずです。ここまで来て今さら、あなた方と協力はできません」
「はっきり言うけど、あなたはどうやったって、第一秘書にはなれないよ」
「なぜそんなことが言いきれるのですか?」
「なぜなら今の第一秘書が事件のもう一人の犯人だから」
優里は満を持して切り札を切った。
「あなたは大きな勘違いをしている。鳥海慶一郎は有能だからという理由であのガリガリ男を側近に据えているわけじゃない。事件のことをよそで口外されるのが怖いから、第一秘書として常に自分のそばに付き添わせているだけ。犬に首輪をつけてリードを握っているのと同じ。だからあなたがどんなに手柄を立てようと、有能であることを示そうと、鳥海慶一郎があなたを第一秘書にすることはあり得ないの。もし万が一昇格できたとしても、スマホだけは絶対に触れさせてもらえないでしょうね」
椿原笑の手はかすかに震えていた。
「現在の第一秘書が――卓田という男です――共犯者だというのはたしかなのですか?」
優里はうなずいた。そして涼から渡された『松原絵美』の名刺をテーブルの上に置いた。「あなたも“私立探偵”として会ったでしょ? ショートカットのちょっと変わった子。私物は第一秘書が管理していると聞いて、彼女、ピンときたみたい。試しに第一秘書の顔写真を見せてみたら、主犯の指示でビデオカメラを回していた男だって証言した」
「あの聡い子が言うのなら間違いないですね……」
椿原笑は深いため息をつくと、両手で顔を覆った。
「すべては徒労だったというわけですか。いつもそう。いつも肝心なところでヘマをする。お姉ちゃん。私、昔から変わらないね」
同じく姉を持つ身として、優里はどんな言葉をかければいいかわからなかった。どんな言葉をかけるのもためらわれた。こういう時は下手に喋らず黙っていた方がいいだろう。相手に喋らせた方がいいだろう。やがて椿原笑は顔から手を離すと、襟のトカイのバッジを外して、テーブルに置いた。
「不器用で内向的な私とは違って、姉は器用で外向的な人でした」と彼女は言った。「姉の名は芽衣といいます。五月生まれだからメイ。五月晴れの空のようにすがすがしい笑顔が素敵な、誰からも愛される女性でした」
ではあなたの本当の名前は? と思ったが優里はやはり黙っておくことにした。自分のことをめったに喋らない人間がせっかく喋っている。話の腰を折ることはない。
「私たちは十歳年の離れた姉妹でした」と彼女はよどみなく話し続けた。「家族構成は父と姉と私。母は私を産んで間もなく病気で亡くなりました。私が物心ついた時には姉はすでに中学生でした。そして私が中学生の時には姉はすでに社会人でした。母親のいない私からすれば、姉はお姉さんというよりほとんどお母さんに近い存在でした。
しかし姉は十歳年下の私にも決して偉ぶることなく接してくれました。まるで学校の友達みたいに私の助言やアドバイスにも耳を傾けてくれました。姉はよく言っていました。『いい? 年齢なんて何の努力もしなくたって増えていくものなの。歳が上だという理由だけで若い子に大きな顔をするような大人になっちゃいけないよ』。そんな姉を私は心から尊敬していました」
優里は聞いているしるしにうなずいた。そして酔っ払って朝帰りして父親に怒鳴られる姉の姿を思い出した。あいにく自分の姉は尊敬に値しなかった。
「絵を描くのが好きだった姉はこの街の高校を卒業したあと、関西の美術大学を卒業して、この街に戻ってきました。そしてトカイに就職しました。今から14年前のことです。美術大学を出てなぜ小売業界へ? そう思うかもしれません。
実はその時ちょうどトカイは粉飾決算疑惑を連日メディアで報道されていて、企業イメージは地の底まで落ちていました。トカイはそれをブランディングにより回復させなければいけなかったのです。その一環として、会社の社章やロゴ、マスコットに至るまで一新することになりました。そこで白羽の矢が立ったのが姉です。姉はそれまでのとっつきにくいデザインを時代に即した新しいものにひとつひとつ生まれ変わらせていきました。ちなみにこのバッジのデザインも、姉が考案したものなのですよ」
優里はテーブルの上に目をやった。これまでは忌々しくて仕方なかったバッジに不思議と少なからず愛着を感じた。
「そのうち姉には恋人ができました」と彼女は言った。「相手は同じ部署でトカイのウェブサイトを作成・運営していた男性でした。二人は三年ほど交際して結婚することになりました。その時姉は25で私は15でした。すべては順調でした。仕事も恋も何もかも。でもあの事件が姉から――いや、我が家から――すべてを奪ったのです」
椿原笑はふと遠くを見やった。その視線の先には純白のウエディングドレスを試着している女性がいた。そして彼女をフィアンセと家族が囲んでいた。みんな笑顔だった。
「その日は披露宴のリハーサルでした」と椿原笑は言った。「式場に一人で向かう途中、姉は背後から近づいてきた黒ワゴン車に無理やり押し込まれて、陵辱されました。本当は恋人が車で迎えに来る予定だったのですが、急きょ仕事が入ってやむなく一人で先に行くことになったのです。それが仇となりました。式まであと一ヶ月という時の出来事でした。その日はメイ姉さんの26回目の誕生日でした」
「許せない」と優里は思わずつぶやいた。椿原笑が話し終えるまでは黙っているつもりだったが、我慢ならなかった。
「姉が自ら命を絶ったあと、私は思い出しました。姉が生前、『社長の息子さんにしつこく言い寄られている』と話していたことを。そして調べてみるとどうやら、リハーサルの日に姉の恋人に無理やり仕事を押しつけたのもその男らしいのです。すべては計画的な犯行だったのです。社長の息子――鳥海慶一郎こそが犯人だと私は目星を付けました。そして姉の無念を必ず晴らすと墓石の前で誓いました。そこからはあなた方の推察の通りです。私は事件の真相を調べるため――そしてあの男に復讐するため――秘書としてトカイに入社したのです」
「復讐」と優里は繰り返した。「具体的に、どうするつもりでいるの?」
「決定的な証拠が手に入れば、それを元に事件のことを表沙汰にし、それ相応の罰を受けさせるつもりでした。しかし手に入らないのであれば致し方ありません。かくなるうえは、あの男どもを姉と同じ場所に送り込みます。もっとも、奴らが行くのは地獄ですが」
「ちょっと待って」と優里は言った。「早まらないで。あいつらを許せないっていう気持ちはよくわかるけど、でも、そんなことをしたら、あなたの人生まで台無しになっちゃうんだよ?」
「かまいません。復讐すると誓ってからそれも覚悟の上です。この十年、私は復讐のことだけを考えて生きてきたのです。そのためにすべてを犠牲にしてきたのです。夢も恋も何もかも。そんな人間が今さら普通の人と同じような人生を歩むことはできません。あのゴミどもを始末したら、私は私自身に報いを与えます」
そこで優里のまぶたに、淡い緑の光が浮かんだ。それはヒカリゴケに戻った光だった。希望の光。
「今からだってやり直せるよ」と気づけばそう口にしていた。「人生、何度だってやり直せるって。私はこの馬鹿げた結婚が破談になったら、今度こそ本当にやり直すつもり。夢だった大学に行く。そして夢だった翻訳家になる。あなただってやり直せるよ。本当に就きたかった仕事があるなら今からでも就けばいい。恋がしたかったのならすればいい。人生をやり直すのに、遅いってことはないよ」
椿原笑は冷笑した。
「そういう台詞はもっと年齢を重ねてから言わないと説得力がありませんよ。私を諭すには花嫁はさすがに若すぎます。私の方がいくつ年上だと思っているのですか」
「そんなこと言っちゃっていいの?」と優里はしめたと思って言った。「年齢なんて何の努力もしなくたって増えていくもの。歳が上だという理由だけで若い子に大きな顔をするような大人になっちゃいけないよ。それが尊敬するお姉さんの教えじゃなかったの? お姉さんに叱られちゃうよ?」
それを聞くと彼女ははっとした。26歳の成熟した女性というよりは、15、6歳の未熟な少女のような顔になった。さすがに何も言い返せないだろうと優里は思ったが、果たして、何も言い返してこなかった。言い返せるはずがなかった。
「あなたは幸せになっていいんだよ」
優里は自分に言い聞かせるようにそう続けた。
「復讐のために人生を棒に振るなんてお姉さんは望んでいない。ましてやお姉さんと同じかたちで人生を終えるなんて。あなたが幸せになることが、お姉さんにとって一番の供養になるんじゃないの? あなたは今26歳でしょう? お姉さんが亡くなった年齢になったんでしょう? お姉さんが生きられなかったその先を、生きなよ。生きてそして、幸せになりなよ」
我ながら名演説じゃない、と優里は思ったが、果たして、椿原笑は再び顔を両手で覆った。そして静かに肩を震わせた。彼女はそのまま声をあげずに泣いた。泣き続けた。ちょっとすぐには泣きやみそうになかった。
仕方がないので優里はあることを考えた。それは難問だった。でもさいわい時間だけはあった。やがて名案を思いついたところで、椿原笑は顔から手を離した。その表情はまるで憑き物が落ちたみたいにすっきりしていた。
「わかりました」と彼女は言った。「花嫁――いや、そうお呼びするのはもうよしましょう。高瀬優里さん。手を組みましょう」
「ありがとう」と優里は言った。「一応言っておくけど、私だってあいつらは葬り去りたいくらいだよ。ひどい苦しみを与えて殺してやりたいよ。それくらい許せないよ。でも今私たちが生きているのは法も何もない石器時代じゃない。仕方ないから、合法的に復讐しましょう。死ぬよりつらい、生き地獄に突き落としてやりましょう」
「いいですね」と彼女は言った。「しかし、それにはやはり、どうしても決定的証拠が必要になります。どうやって鳥海慶一郎のスマホを手に入れるつもりですか?」
「それは大丈夫」と優里は微笑んで言った。「とっておきのアイデアがある。あなたが泣いているあいだに思いついた。問題は、スマホを手に入れた後。どうやって生き地獄に突き落とそうか?」
「それは大丈夫です」と椿原笑も微笑んで言った。「スマホさえ手に入れば、あとはなんとでもなります。私にもとっておきのアイデアがあります。泣いているあいだに思いつきました」




