第106話 光が戻って、そして 3
《♦涼》
悠介に対する退学処分を城校長が撤回した翌日、涼は高校の屋上で優里と会っていた。優里が昨夜一睡もできなかったことは、そのやつれきった表情が物語っていた。そして夜通し泣いていたことは、その真っ赤に腫れた両目が物語っていた。
「やっぱりトカイに取引を持ちかけられていたんだ?」と涼は言った。
優里はうなずいた。
「『一緒の未来を目指すことはできない』。神沢を高校に戻したいのなら、その言葉をあいつから引き出すこと――」
優里はうなずいた。
「それを神沢から引き出すために、電話でひどいことを言っちゃったんだ?」
優里はうなずいた。
「そしてついにその言葉を引き出しちゃったんだ?」
優里はうなずいた。それからうなだれた。
「その時はもうすでに神沢君の退学処分が解けているとも知らずにね。馬鹿みたい。ねぇ月島さん。こんな私を笑ってよ」
涼は笑わなかった。肩をすくめただけだった。
「思わないよ」と優里は自嘲気味に言った。「晴香が有希子さんに神沢君を助けるようお願いするなんて。有希子さんがそれに応じて校長室までわざわざ出向くなんて。そのうえ土下座までして神沢君の復学を乞うなんて。そして打算でしか動かないっていう評判の校長が情に流されて処分を取り消すなんて。……思わないよ」
「情に篤い男、城篤志です」は本当だったんだね。涼は校長の自己紹介を思い出してそう言いかけたが、そんなつまらないことを口にできる雰囲気ではまるでなかった。だから代わりに、こう聞いてみた。
「その言葉を神沢から引き出すために電話をかけるの、もうちょっと待てなかったの?」
「あさってが神沢君の18歳の誕生日でしょう? それまでになんとか取引を成立させて、彼を高校に戻してあげたかったの」
「なるほど。誕生日プレゼント、ってわけ」
「電話をかけるのをあと一日、いや、せめてあと一時間ためらっていれば……」
そうつぶやいて下唇を噛む優里の胸中は、察するにあまりあった。そりゃあ一睡もできないよな、と涼は共感した。そりゃあ夜通し泣くよな、と涼は同情した。さてどうしようか、とそれからいったん冷静になって思った。
というのも実は涼は、ある重要なニュースを優里に伝えなければいけなかった。
それは涼がこれまで耳にしたどんなニュースよりも悪いニュースだった。そしておそらく優里がこれまで耳にしたどんなニュースよりも悪いニュースのはずだった。今それを彼女に伝えるのは、傷口に塩を塗るような行為にしか思えなかった。
どうしようか決めかねていると、優里が先に口を開いた。
「月島さん、私になにか伝えたいことがあるんじゃないの?」
図星を突かれた涼は思わず本音を口走った。「なにゆえわかった!?」
「わかるよ。女同士だもの」
「あのね高瀬さん。悪いことは言わない。今は聞かない方がいいと思う」
「大事なことなんでしょう? 話して」
「でも」
「もったいぶるなんて月島さんらしくない」
涼は覚悟を決めて話すことにした。どうせ遅かれ早かれその事実を優里は知ることになる。
「神沢がね、柏木と一緒に生きていくことを決めたんだ。将来的に柏木と居酒屋をやるんだって。もうふたりは恋人関係にあるみたい」
それを聞くと優里は天を仰いだ。そして口元に笑みを浮かべた。
「月島さん、私たちの負けだね」
「笑ってる場合?」
「結果として神沢君は高校に戻れたんだもの。経緯はどうあれ、それは喜ばないと」
「強がってるね」と涼は言った。
「わかっちゃった?」
「わかるよ。同じ男を好きになった女同士だもの」
涼は優里の言葉を待っていた。でもどれだけ待っても彼女は何も喋らなかった。口を真一文字に結んで、空の一点を見つめているだけだった。
「高瀬さん、このままでいいの?」と涼は待ちきれずに言った。「今からでも遅くない。神沢に本当のことを打ち明けなよ。すべては神沢のためだったんだって。この一ヶ月間距離をとって冷たくしていたのも、電話でひどい言葉をぶつけたのも、全部あいつを復学させるためだったんだって。本当は会いたくて会いたくて仕方なかったんだって。電話で言ったことは私の本心じゃなかったんだって。神沢に会って、そう伝えなよ」
優里は静かに、しかし確かに、首を振った。「もういいの」
「どうして?」
「今回の件で痛感しちゃったから。晴香にはかなわないなって」
「どういう意味?」
「神沢君を高校に戻してあげたいっていう思いの強さはたぶん、私も晴香も変わらなかった」と優里は言った。「でも私はそのことで頭がいっぱいで、神沢君の幸せまで考えがまわらなかった。私はトカイとの取引に応じるべきじゃなかった。あんな馬鹿げた取引はきっぱり拒否して、他の方法を模索すべきだった。多少欲張りでも、可能性が低くても、誰がなんと言っても、神沢君が幸せになれる方法を。いや、神沢君と幸せになれる方法を。そう、晴香みたいに」
涼は黙って聞いていた。優里は続けた。
「晴香はすごいよ。誰も傷つけず、誰も貶めず、神沢君のそばで寄り添いながら彼を高校に戻しちゃった。そのうえずっと遠ざかっていたお母さんとの心の距離まで縮めちゃった。担任の篠田先生さえも野球部が甲子園に出た時より喜ばせちゃった。なんだか、みんなハッピー」
晴香はすごいよ。優里は力なくそう繰り返した。
「私がもし街でばったり有希子さんと会ったとしても、神沢君の力になって、なんて、絶対に言えない。思いつきもしない。それどころか、『神沢君がこうなったのはそもそもあなたのせいだ!』とかなんとか余計ないちゃもんつけて、喧嘩になってた。晴香はすごいよ。晴香なら絶対に神沢君を幸せにしてあげられる。私は今回の件でそれを確信した」
幸せか、とその言葉だけをもう一度口にして、優里は苦笑した。そしてこう締めくくった。「“未来の君”の占いって、なんだかんだ言っても、当たっているのかもしれないね」
幸せを望むなら“未来の君”と共に生きねばならない、と涼は自身も占い師に言われたことを思い出した。
「高瀬さんは、これからどうするつもり?」
「退学するつもり」と優里はつぶやいた。
「え?」
「私、高校をやめる」と優里は聞き間違えようのない明瞭な声で言い直した。
「嘘でしょ」
「嘘じゃない」と優里は言った。「だって考えてみて、月島さん。鳴桜高校の3年H組の教室は、これから世界で私がいちばん居づらい場所になるんだよ?」
涼は考えてみた。優里を自分に置き換えて想像してみた。なるほど。たしかにそこは居づらい場所だ。死体置き場の方がまだマシかもしれない。
優里は言った。「大学には行けないのに入試に向けてがんばっている受験生たちの姿を間近で見なきゃいけない。そのうえ恋人同士になった神沢君と晴香の姿まで見なきゃいけない。卒業までずっと。そんなの耐えられない。だからやめる。彼が高校に戻ってきたのをきちんとこの目で遠くから見届けたら、退学届を出すつもり」
涼は何かを言おうとしたが、何も言葉は出てこなかった。
「ねぇ月島さん」優里は涼の元に歩み寄ってきて、肩に手を置いた。「取引のことと退学のことは、神沢君に黙っていて。私はもう彼とは一度も会わず――制服を着て高校に戻った姿を遠くから見たら――それで一生お別れしたいの」
「もしあいつに喋ったら?」
「月島さん。私たちって、友達だよね?」
「たぶんね」と涼は意地悪く言った。
優里は意地悪な微笑みを浮かべた。「喋ったら、絶交」
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絶交、大いに結構、と0.6秒で結論づけた涼は、放課後になると悠介の家へ猛ダッシュで直行した。無論、何もかも洗いざらい彼に打ち明けるつもりだ。
もっともそれは優里のためじゃなかった。自分自身のためだった。涼はゆう君との未来を諦めていなかった。希望を捨てていなかった。今でも悠介を東京へ連れて行って、彼に実家のせんべい屋を継いでもらう気だった。
そのためにはなんといってもまず、「柏木と生きていく」という悠介の決心を揺さぶらなきゃいけない。どうすれば揺さぶれるだろう? 簡単なことだ。お嬢様が隠したがっていることをすべて話せば揺さぶれるだろう。
それが0.6秒で涼の出した答えだった。
ずっと優里に恋をしていた悠介のことだから、今度は「高瀬と生きていく」となるかもしれない。でもその時はその時だ。そうなったらまた別の手を考えればいい。とにかくまずは柏木から彼を引き剥がすことだ。絶交、大いに結構。涼は優里から絶縁を突きつけられても痛くもかゆくもなかった。つらいのはゆう君と同じ時間を過ごせないことだった。
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悠介は家にひとりでいた。ちょうど制服にアイロンをかけていた。
悠介を一目見るなり、涼はなんとなく違和感を覚えた。なんだかおとといまでのゆう君とはどこか違う気がする。ちょっと垢抜けた気がする。なぜだろう? まさか柏木と男女の一線を越えたのだろうか? いや、今はそんなことを勘繰っている場合じゃない。それどころではない。あまりもたもたしていると、そのうち柏木がやってくるかもしれない。悠介の恋人という錦の御旗を掲げて。
涼は息を整えると、要点を頭で整理して、口を開いた。
「いい、神沢? 私はこれまでよくキミに嘘をついてきた。それは謝る。でもこれから話すことは全部真実。キミの未来を大きく左右することだからよく聞いて。実はね――」




