第105話 どうしようもなくだめな18歳の僕へ 3
《♠晴香》
今日の放課後、悠介の退学処分取り消しを求めて教師たちが校長に直談判する。
持ち前の地獄耳でそんな情報をキャッチした晴香は、気合いに満ちあふれていた。交渉がうまくいくよう教室で祈って待っているなんていう選択肢は彼女の頭には存在しなかった。そこにあるのは、気合いを入れて直談判の様子を盗み聞きすることだけだった。もちろん成りゆき次第では飛び入り参加も辞さないつもりだ。
なんだかここ最近人の話を盗み聞きばかりしているな、と晴香は思った。あまり褒められたことじゃない。でもしょうがない。悠介のためを思えばこそだ。なりふり構っていられない。
待ちに待った放課後がやってきた。晴香は足を捻挫したと嘘をついて掃除をサボると、駆け足で校長室へ向かった。扉の前にはちょうど悠介を救うため立ち上がった四人の教師たちがいた。
発起人の篠田先生。最年長の松任谷先生。紅一点のカンナ先生。そして感激家の島先生。
四人は手元の書類に目を落とし、何やら打ち合わせのようなことをしていた。その真剣な表情は、この日のために彼らが綿密な準備をしてきたことを物語っていた。
打ち合わせが終わると、篠田先生を先頭に四人は次々校長室に乗り込んだ。しんがりの島先生が扉を閉めるのを見計らって、晴香は校長室の前まで移動した。そして扉を4ミリか5ミリだけ開けて中の様子をこっそりうかがった。
校長の名前は城篤志といった。晴香たちの代が入学するのと同時に、市内の工業高校から赴任してきた。
生徒たちのあいだで城校長の評判はあまり良くなかった。「情に篤い男、城篤志です」というのが校長の決まり文句だったが、実際は損得勘定で動く打算的なおっさんだということが皆にバレていた。なにしろこの男は、立場が上の者には簡単にへりくだるが、下の者には居丈高に振る舞うようなところがあった。
高校生ともなると、それくらいのことは見抜くようになる。たいした面白くもない自己紹介で本性をごまかせるのは、せいぜい中学生までだ。
見ればやはり城校長は革張りの椅子に偉そうにふんぞり帰り、「これはこれは」と偉そうに言った。「これは珍しい取り合わせですね。いったいどうされたのですか?」
「神沢悠介の件で陳情に参りました」と篠田先生が切り出した。「校長。どうか、神沢に下した処分を撤回してください」
城校長は偉そうな手つきで偉そうにネクタイを整えた。
「篠田先生。担任として受け持った生徒を卒業させたいというそのお気持ちは、よくわかります。しかし校則は校則です。彼はアルバイト禁止の校則を破っていた。ルールを守れない者にはそれ相応の罰を与えなければ、他の在校生に示しがつかないというものです」
カンナ先生が一歩前へ出た。「それ相応の罰って言いますけどね、あの子はなにも小遣いが欲しくてバイトをしていたわけじゃないんですよ? 大学に行く夢を叶えるためにやむなくバイトでお金を貯めていたんです。そこを汲み取ってあげられませんか?」
「もしバイト先が書店やファストフード店であれば酌量の余地もあったかもしれない」と城校長は言った。「しかし彼が働いていたのはどこですか? 居酒屋だ。しかも夜遅くまで。過去の同様の事例に照らし合わせてみても、これはしごく妥当な判断です」
それを聞いてわずかに笑みを浮かべたのは、松任谷先生だ。
「校長さんよ。滅多なことを言うもんじゃないよ。あんたはまだ在校3年目だが私は35年目だ。35年も勤務していると嫌でも過去のことを覚えてるもんだ。その昔、こんなことがあった。まだパソコンもスマホも普及していなかった頃の話だ。テレクラでサクラのアルバイトをしていた女子生徒がいた。校長さん、テレクラはさすがに知ってるね?」
「テレフォンクラブ。今で言う出会い系サイトみたいなものですね」
松任谷先生はうなずいた。
「その女子生徒は一旦は退学処分を受けた。でも話を聞いてみれば、修学旅行の費用をなんとかして工面したいとのことだった。父親がちょうど病気で入院してしまったんだね。それで退学はあまりにかわいそうだということで、処分は取り消しとなった。校長さんよ、この事例を聞いてもまだ、これはしごく妥当な判断だと言えるかい?」
「そ、それは」城校長の目が泳ぐのが晴香にもわかった。「当時と今では時代背景が違いますし、それにその……教育を取り巻く環境も違うわけで」
島先生が書類に目を通してから口を開いた。
「校長。本校における過去の問題行動を理由とした退学事例を調べてきました。とはいえ一世紀近くの歴史のある高校です。あまり古すぎると、“時代背景”も“教育を取り巻く環境”も違う恐れがある。そこで直近十年のケースにかぎってご紹介します」
城校長の唾をのむ音が晴香にも聞こえた。ような気がした。
「今から九年前、二年男子。担任へ暴行を働いて右目を失明させる。六年前、三年女子。市内のコンビニで万引きを繰り返し補導される。四年前、一年男子。交際中の女子生徒の腕にタバコを押しつける。校長。果たして神沢は、この生徒たちと同じ罰を受けなければいけないのでしょうか? それほどの罪を彼は犯したでしょうか!?」
「みなさん、落ち着いてください!」そう言う城校長が誰より声を荒らげていた。「私は組織の長として、一度下した決定を覆すわけにはいきません。誰がなんと言おうと、神沢悠介は退学処分で決まりです!」
篠田先生は上司を睨みつけた。「校長。なんだかまるで、是が非でも神沢を復学させたくないような口ぶりですね? あいつがここに戻ってきたら何か困ることでもあるんですか?」
「な、なにが言いたいのですか?」
「不自然なんですよ」と篠田先生はどすの利いた声で言った。「松任谷先生と島先生がご指摘された通り、この処分はあまりにも厳しすぎる。おまけに神沢には弁明の機会すら与えられなかった。それらを総合すると、この措置はあまりにも不自然だと言わざるを得ません。校長。率直にうかがいます。上から神沢を辞めさせるよう圧力がかかったのではないですか?」
島先生があうんの呼吸で続いた。
「このところ、ダークグレーのスーツを着た若い女が校長室に出入りしていましたね? 我々はあの女こそが上と校長の橋渡しをしていたのではないかと考えています。いかがですか?」
「何を根拠にそんなことを! みなさん、少しは口を慎んでください!」
四人の教師は口を慎まなかった。それからも代わる代わるあらゆる角度から城校長を攻め立てた。
“圧力”のことを指摘されたのがよほど応えたのか、校長は椅子の上ですっかりうろたえていた。四人が入室した時とは別人だった。しかし教師たちの方もあと一歩で処分の撤回を引き出せそうというところで足踏みしていた。決定打を欠いていた。
あたしの出番だ、と晴香は思った。飛び入り参加するならこのタイミングだ。晴香の勘がそう告げていた。
深呼吸をして、臨戦態勢をとったところで、背後から誰かが肩に手を置いた。仮病を使って掃除をサボったのがバレたかと思って振り返ると、そこには予想もしなかった人物が立っていた。
驚きのあまり晴香はついその人の名前を叫びそうになった。でも彼女はたしなめるように首を振ってそれをとどめた。興奮してまた発作が出たらどうするの、というように。
彼女は晴香を退かせてノックしてから扉を開けると、驚く教師たちを尻目に校長の前へ進んだ。晴香は引き続き扉の隙間から中の様子をうかがうことにした。黒のワンピースに身を包んだ訪問者は肩のバッグをかけ直してから口を開いた。
「神沢悠介の母、神沢有希子です。このたびは息子が大変お騒がせして、申し訳ありませんでした」
城校長は椅子からさっと立ち上がった。
「ああ、お母様でしたか。今、お茶を用意させます。どうぞお座りください」
「お気遣いなく」と有希子は言った。そして立ったまま続けた。「悠介が居酒屋でアルバイトをしていたのは、元をたどればすべて私のせいです。私が悠介を捨てて元恋人と富山へ逃げたりなんかしなければ、あの子は一人になることもなく、校則を破ってまでバイトをする必要もありませんでした。社会的に責められるべきなのは私です。けっして悠介じゃありません。どうかあの子を許してあげてください」
城校長の顔には困惑とも苦笑ともつかないものが浮かんだ。
「あのですねお母様。背景はどうあれ、ルールを破ったのは彼本人なわけでして……」
そこで有希子はバッグから何かを取りだした。それは一束の原稿用紙だった。表紙には、細い縦長の銀紙が貼られている。
「これは悠介が小学生の時に学校の課題で書いた作文です。市のコンクールで銀賞を獲得しました。親の私が言うのもおこがましいですが、とてもよく書けています。金賞じゃなかったのが不思議なくらいです。私は富山に逃げる際、悠介に関する一切のものを自宅に残していくつもりでいました。でもこの作文だけはどうしても思い入れがあって、悠介の部屋からこっそり持ち出してきたんです」
この状況でいったい何を話すつもりなのだろう? 晴香はより気合いを入れて立ち聞きを続けた。
「18歳になった自分へ手紙を書こう。それがこの作文のテーマでした。小学生の書くこういう作文って、たいてい前向きでキラキラした言葉ばかり躍りますよね? でも悠介の作文は違います。題は『どうしようもなくだめな18歳の僕へ』。本文の一部を読みます」
有希子は息子の作文を朗読した。
『あまりぱっとしない僕のことだから、きっと18歳になっても間違いばかりしているだろう。失敗ばかりしているだろう。でもそれでいい。何も経験しないよりはずっといい。99回間違えば1回くらい正解するさ。99回失敗すれば1回くらい成功するさ。間違ったのも失敗したのも何かに挑戦した証だ。恥じなくていい。胸を張ってどうしようもなくだめな18歳でいよう――』」
有希子は原稿用紙をバッグに戻すと、城校長の目をまっすぐに見つめた。
「10月21日が悠介の誕生日です。あと四日で悠介は18歳になります。校長先生。どうかせめて、もっとあの子に間違いをさせてあげてください。もっと失敗をさせてあげてください。このままでは、あの子はそれすらできないんです。最低な母親であるのは承知しています。私にはこんな偉そうなことを言う資格はないかもしれない。でもいてもたってもいられず、今日はこうしてお願いにあがりました。悠介を高校に戻してあげてください。この通りです」
そこで彼女は両手両膝を床につき、頭を深々と下げた。校長と教師たちに体を起こすよう促されても、そのままの姿勢で――恥も外聞も捨てて――ひたすら悠介の復学を願い続けた。
やっぱり母親にはかなわないな、と晴香はそれを見て思った。そして自分が有希子を見直していることに気がついた。
「やるじゃん、有希子さん。あなたのこと、ちょっと尊敬しちゃったよ」




