第105話 どうしようもなくだめな18歳の僕へ 1
《♦涼》
図書館で知り合った私立探偵とふたたび会う日を迎えた。
放課後になると涼は話をする場所として指定されたイタリアンレストランへ向かった。なぜカフェではなくレストランなのだろう、と連絡を受けたときは首をかしげたものだが、店についてみてようやく私立探偵の意図がわかった。午後三時すぎの店内に客の姿はほとんどなかった。貸し切りと言ってもよかった。
なるほど、この場所ならば誰の目も耳も気にすることなく話ができる。時間的にちょうど混み合っているカフェではそうもいかない。できる話もできないかもしれない。
なにしろこれから女二人でするのはかなりデリケートな話だ。ヨガマットの選び方の話をするのとはわけが違う。
さすが私が認めた素敵なお姉さんだ、と涼はあらためて感心した。細かいところまで抜かりがない。きっと仕事もできる人なのだろう。
約束した時間より少し早くついたからか、お姉さんはまだ来ていないようだった。あとで人が来ます、と応対した店員に伝えると、窓際のボックス席に案内された。涼はメニュー表を見てレモンスカッシュを注文した。そして店員がいなくなると図書館でお姉さんから渡された名刺を制服のポケットから取り出した。
「私立探偵 松原絵美」と声に出して読む。
あの人のことをなんて呼べばいいだろう? 松原さん? それとも絵美さん? そういえば、どっちが年上かなんて考えなくていいの、と彼女は言っていた。年齢なんてなんの努力もしなくたって増えていくものなんだからと。
ならばいっそ、“エミちゃん”でもよかったりして? そんな遊び心が芽生えかけたところで、涼は頭を振った。いやいや、それはいくらなんでも失礼だ。これがもし仮に柏木晴香とかいう不躾女ならお姉さんの言葉を額面通り受け取って「エミちゃん」と呼ぶかもしれない。でも私は違う。礼節というものをわきまえている。松原さん、がやはり正解だろう。
松原さんは約束した三時半ちょうどにやってきた。彼女は図書館で会った時と同じくダークグレーのパンツスーツを着ていた。そしてベリーショートがバッチリ決まっていた。
「こんにちは」と松原さんはにこやかに言った。
「こんにちは」と涼も言った。でも相手ほど自然に微笑むことはできなかった。
松原さんは涼の向かいの席に腰を下ろし、その隣にバッグを置いた。そして空欄だらけのテスト用紙を見るような目でテーブルの上を見渡した。
「注文したのはレモンスカッシュだけ? もっと好きなものを頼んでいいのよ? お会計はこっち持ちなんだから。そうそう、マルゲリータなんてどう?」
涼は手を振った。
「あんまりお腹は空いてませんので、お気づかいなく。それに……」
それにこれから話すことを考えると、何かを食べる気にはなれないんです。そう続けるより先に、松原さんが口を開いた。
「私としたことが、無神経だったわ。食欲なんか出るわけないわよね。今から私たちがするのは、アロマオイルを選ぶ話じゃないんだから」
結局彼女もアイスコーヒーだけを注文した。それが運ばれてくると、バッグから封筒を取り出して、涼の前に差し出した。
「なんですか、これは?」
「ほんの気持ち。若い子の貴重な時間をこうしてお借りしているのだから、謝礼くらいお渡ししないと。少ないけど、遠慮なく受け取って」
封筒に手が伸びかけたところで、涼はあるアイデアを閃いた。ここはひとつ、松原さんに取引を持ちかけてみるべきかもしれない。そもそも私があの事件のことを調査しているのは、なんのためだ? ゆう君のためだ。そして私のためだ。ひいては私たちの未来のためだ。小金のためなんかじゃない。
涼は封筒を開けずに、テーブルの奥へ差し戻した。
「松原さん。今日私はあの事件について、話せることはすべて話すつもりです。謝礼は要りませんから、その代わり、松原さんも事件について知っていることを私に教えてくれませんか?」
涼の提案は松原さんにとって完全に想定外だったようで、その顔から何秒かのあいだ表情が消えた。ほどなくしてそこに戻ってきたのは、かすかな笑みだった。
「まぁいいでしょう」彼女は封筒をバッグにしまい、コーヒーを口に含んだ。「それではそろそろ始めましょう。思い出したくはないだろうけど、まずはあなたが被害にあった時の状況をくわしく聞かせてくれる?」
涼は中二の春まで記憶をさかのぼり、その時に起きたこと感じたことをありのまま打ち明けた。
下校途中に黒のワゴン車が後ろから近づいてきたこと。
そのワゴン車に無理やり乗せられたこと。
車内には二人の男がいたこと。
一人はずんぐりしていたこと。
もう一人はがりがりだったこと。
二人の間には主従関係があったこと。
ずんぐりした方が主犯格だったこと。
主犯格の指示で、がりがりの方がビデオカメラを回していたこと。
主犯格が馬乗りになってきたこと。
体臭がきつかったこと。口まで臭かったこと。
純潔を守ろうと必死に抵抗したこと。
そのさなか、男性器を象った鉄の塊が視界の隅に入ったこと。
それを手に取り、主犯格の側頭部めがけて思いきり振り抜いたこと。
おそろしく見事に命中したこと。
主犯格はそのまま後ろに倒れたこと。
その隙にワゴン車から逃げ出したこと。
そのわずか3分足らずの出来事を30分かけて涼は話した。氷がとけて炭酸も抜けたただのぬるいレモン水を飲み干すと、松原さんはバッグからまた何かを取りだした。今度のは写真だった。
「その主犯格というのは、この男じゃない?」
涼は心ならずもテーブルの上に視線を落とした。写真の中の中年男は仕立ての良いスーツで体型こそごまかしていたが、内面の醜さまではごまかしきれていなかった。それは顔中に滲み出ていた。今にも写真から体臭が匂ってきそうだった。
「この男です」と涼は顔を上げて言った。「このヒキガエル野郎です」
「間違いない?」
「間違いありません」
それを聞くと松原さんはひとつの目標地点に達した冒険家のように遠い目をした。それから表情を引きしめて涼の顔を見た。
「ちなみに、この男が何者か、わかってる?」
「何者か、どころか、名前まで」涼は拳を握る。「トカイの次期社長です。鳥海慶一郎」
「そこまでわかっているのに、告発しようとは思わなかったの?」
「顔と名前が一致したのはつい最近ですし、それになにより証拠がありませんから。相手はこの街では有力な企業の次期社長。告発するにはそれなりの証拠がないと」
「本当にない? たとえば、もみ合った時に相手のボタンか何かを掴んできたとか」
「残念ながら」
「そうだ、車内に落ちていたっていう鉄の塊は? それでこの男のこめかみを殴ったのでしょう?」
「逃げる途中で川に捨てちゃいました」涼はそのことを後悔した。「持ち帰っていれば証拠になったかもしれませんね……。すみません」
松原さんはその鉄の塊が何を模したものか思い出したらしく、やれやれという風に肩をすくめた。
「謝らないで。そんなものを持ち帰らなかったからといって、誰もあなたを責めたりしないわ」
♯ ♯ ♯
二人とも喉が渇いていた。それぞれあらためて飲み物を注文し、それが運ばれてくると、松原さんが口を開いた。
「次は私の番ね。とはいえ、私もそれほど多くのことは知らないのだけど」
「かまいません。話してください」涼は前のめりになる。
「似たような手口の犯行は十年前から起きているわ。被害にあった女性は少なくない。でもビデオカメラで撮影されて、その動画をばらまくぞとかなんとか脅されて、みんな泣き寝入りしているのが実情なの。だからこそこの事件は表沙汰にならない」
そこで涼は丸目守の話を思い出した。兄・慶一郎のスマホには事件の動画がいくつも保存してあったと彼は言っていた。脅迫用だけではなく、観賞用の意味合いもあるらしい。「下劣な男」と涼は気づけば言っていた。
松原さんはこれほど真っ当な意見は聞いたことがないという顔でうなずいた。
「そんな下劣な男による卑劣な犯行も、三年前のある時を境にぱったり止まったの」
「三年前のある時?」と涼は繰り返した。「何があったんですか?」
「トカイの現社長が自分の後継に息子を――つまり慶一郎を――指名したの」と彼女は写真を持って答えた。「この“鶴の一声”には社内の誰もが驚いた。なぜなら優秀な副社長が後を継ぐのが既定路線になっていたし、それに対しこの男は定職にもつかず親のお金で遊び回っていたから。いちばん驚いたのは本人でしょうね。まさか自分が後継に指名されるなんて思ってもなかったはず。だからそれまでさんざん好き勝手やっていられた。でも会社の顔となる社長となるとそうもいかない。就任は来春。今頃びくびくしているんじゃないかしら。いつか自分の過去が暴かれるんじゃないかって」
「松原さん、トカイの内部事情にずいぶん詳しいんですね」
彼女はコンタクトレンズがずれたかのように目を一度大きく見開いた。
「ま、まぁ、探偵だもの。この程度のことを調べるのは朝飯前よ。とにかく、私に話せるのはこれくらいね」
「最後に一つ聞かせてください」と涼は純粋な好奇心から言った。「松原さんはどうして、この事件のことを調べているんですか?」
再び彼女の顔から表情が消え失せた。しかし今度はそこに笑みも何も戻ってこなかった。「もちろん仕事だからよ」と彼女は無表情のまま言った。「クライアントの依頼。そのクライアントのお姉さんがこの事件の最初の被害者なの。そしてそのお姉さんはそれを苦に自ら命を……」
そこで松原さんはふと窓の外に目をやり、出し抜けに慌ただしく立ち上がった。そしてわざとらしく腕時計を見た。「ごめんなさい、次の仕事があるんだった。謝礼はやっぱり置いていく。悪いけれど、これでお会計してちょうだい」
彼女はバッグから例の封筒を取り出してテーブルに置くと、本当にそのまま店を出て行ってしまった。残された涼は呆然とするしかなかった。松原さんは窓の外にいったい何を見たのだろう? というか、誰を?
その答えは案外すぐにもたらされることになる。
松原さんと入れ替わるように店に入ってきたのは、見慣れた鳴桜高校の制服を着た三人の男子生徒だった。その中の一人と涼は目が合った。彼は他の二人に断って、涼の元へやってきた。
「マルメ君」と涼は言った。「いいね、友達とイタリアン?」
「いえいえ、勉強ですよ」と丸目守は言った。そして深刻な面持ちで、それより、と続けた。「それより月島先輩。あの人とお知り合いなんですか?」
「まぁ知り合いといえば知り合いだけど、何か問題でもあるの?」
「先輩、もしかして、あの人が何者なのかわかってないんですか?」
涼はあらためて名刺を見た。「探偵じゃないの? 私立探偵の松原絵美さん」
「違います先輩」と彼は断定した。それから小走りで街の中に消えていく松原さんの背中を窓越しに見つめた。「あれが以前僕がお話しした、兄・慶一郎の女秘書です。名前は椿原笑。あの女が神沢先輩を退学に追いやったんです」




