第104話 でも今この時から先の未来は変えられる 4
《♣悠介》
柏木の顔がふと頭をよぎったタイミングで柏木から電話がかかってきたこと以上に俺が驚いたのは、スマホから聞こえてきたのは母・有希子の声だったことだ。そしてそれ以上に驚いたのは、晴香ちゃんに発作が起きた、とその声が告げたことだ。「今救急車で病院に向かってる! 悠介もすぐ来て!」
俺の頭は激しく混乱した。どうして柏木のスマホを母が持っているんだ? というか、どうしてあの二人が一緒にいるんだ? どういう成り行きだ? いや、あれこれ考えるのは後だ。その緊迫した声を聞くかぎり、柏木に発作が起きたというのは事実だ。
今日の晩飯はカップラーメンで済まそうと湯を沸かしていたところだったが、俺はコンロの火を止めて顔も洗わず髪も整えず、一番走りやすい靴を履いて家を飛び出した。
♯ ♯ ♯
病室につくと柏木はベッドで仰向けになって目を閉じていた。母はまるで自分の娘を見守るようにその近くで付き添っていた。
「麻酔が効き始めて、さっき眠ったところ」と母はこちらに振り返って言った。「安心して。命にかかわるような悪い発作じゃなかった」
俺はほっと胸をなで下ろした。ここに来る道中、どうしても春に起きた『悪い子の発作』を思い出さずにはいられなかった。『良い子』でよかった。誰かと抱き合ってこの喜びを分かち合いたいくらいだったが、あいにくベッドの脇にいる女とはそういう仲ではなかった。なので、こうなるに至ったいきさつを淡々と尋ねることにした。
「恭一のお墓参りをしていたらね、晴香ちゃんも来て、二人でお話をしていたの」と母は言った。「そのうち晴香ちゃん、興奮しだしてそれで発作が起きて。なんでも今日はこの病院で定期検診の日だったみたい。主治医の先生も呆れていた。一時間前に感情的になっちゃいけないよって忠告したばかりなのに、って」
そう忠告される柏木も、それを無視する柏木も、ありありと目に浮かんだ。そして呆れる主治医も。俺だって呆れる。
「なるほど。それで柏木のスマホから電話をかけてきたってわけ?」
「ごめんなさいね。悠介の連絡先を知らなかったものだから」
母親なのにね、と思ったが俺は黙っていた。
「それにしても」と彼女はベッドを見て言った。「晴香ちゃんも恭一と同じ病気にかかっていたなんて、知らなかった」
「父親が逝ってから半年後――三年生になってすぐ発症したんだ」
「発作が起きてすぐにピンときた」と母は言った。「苦しみ方が恭一とまったく同じだったから。あの人のために習得した応急措置がまさかこんなかたちで活きるとは」
「いろいろとすまんかったな。おかげで助かったよ」
「なんだか晴香ちゃんの身内みたい」俺の戸籍上の身内はシニカルに笑って、息子のいでたちを観察した。「部屋着で来たんだ? 髪もぼさぼさだし、無精髭も生えてる。靴下さえ履いてない。よっぽど晴香ちゃんが心配だったのね」
「そりゃ心配だよ」
「晴香ちゃんが大事なのね」
「そりゃ大事だよ!」はからずも大きな声が出て、俺は冷や汗をかいた。横目でベッドを見る。さいわい柏木は目を覚ましていなかった。「あのさ、俺の話はいいんだよ。それで、墓参りの後に、柏木と二人でなんの話をしたの?」
「あいにく、『俺の話』なのよ」あいにく母はそう言った。「晴香ちゃんから聞いたわ。高校を辞めされられて、大変なことになっているんだってね。それで『どんなかたちでもいいから悠介の力になってあげて』って頼まれたの」
それに対してどう答えたのか、母はなかなか口にしなかった。その代わりどういうわけか、自嘲するように小さく笑った。
「私、晴香ちゃんにお説教されちゃった。これまで悠介にしてきたことを思い出して『今さらもう何をしたってあの子の中では私は最低の母親よ』ってやさぐれた態度を取っていると、こう叱られちゃった。過去はどうやったって変えられない。でも今この時から先の未来は変えられる、って。あたりまえのことなのよ? でもそれを明日さえ無事に迎えられるかどうかわからない難病の子に胸を抑えながら言われるとね……。反則よ、あんなの」
そうさ。柏木はいつだって反則さ、と俺は思った。
それからしばらく沈黙があった。そのあいだ母はしきりに腕時計を気にして、居心地の悪そうな表情を浮かべていた。時刻は六時半を少しまわったところだった。母の考えていることは聞くまでもなくわかった。「そろそろ帰ってあの子たちにご飯を作らなきゃ」だ。俺でさえ腹がへっている。幼い双子はもっと腹をすかせている。
「あとのことは任せて」と俺は言った。「おつかれさん。もう帰っていいよ」
母は椅子から立ち上がりはしたものの、病室から出て行く素振りをなかなか見せなかった。誰かがその背中を押してやる必要があった。その誰かは一人しかいなかった。
「俺なら大丈夫だから。柏木のぶんも礼を言う。今日は本当にありがとう」
「悠介……」
そのあとに母は何かをつぶやきかけて、静かに病室を後にした。そのか細い背中が見えなくなると、俺はわけもなく天井を眺めた。そしてわけもなく息を吐いた。その時だった。
「母さーん」と背後から声がした。「行っちゃやだー。行かないでよー」
はっとして俺が振り返ると、あろうことか柏木がベッドの上で身を起こしていた。「俺なら大丈夫だから」と俺の口ぶりを真似をして笑う。「カッコつけちゃって。久し振りの再会だってのに、行かせてよかったの?」
「よかったんだよ」と俺は言った。「俺よりあの人を必要としている子どもたちがいる。愛した男の子どもたちだ。それがすべてだ。これでよかったんだよ」
本当にカッコつけなんだから、と柏木は呆れたようにつぶやいた。
「というか、なんで起きてるんだよ? 麻酔は?」
「それがこの麻酔ね、なんだかあたしの体質に合わないみたいで、もうとっくに目は覚めてたの」
「はぁ? いつから?」
「悠介がここに来たときくらいからかなぁ?」
「つまり寝たふりをして、俺たちの会話を全部聞いていたってわけか?」
「母と子水入らずの時間を邪魔しちゃいけないじゃない?」柏木は悪びれない。「なんだか息子の方はいろいろ言ってましたねぇ。あたしが心配だったとか、あたしが大事とか」
できることなら今すぐ病室の床に深い穴を掘って入りたかった。「反則だぞ」
「親子でおんなじこと言ってる」
「ずいぶんピンピンしてるようだけど、心臓は大丈夫なのかよ?」
「ああ、もうこの通り!」柏木はこれから救援のマウンドに向かうみたいに腕をぐるぐる回した。「この病気も悪いことばかりじゃないね。だって発作が起きたおかげで一組の親子が再会できたわけだから。感謝してよ。おほほほほ」
「笑い事じゃないんだよ」俺は病院まで来る途中の気持ちを思い出して言った。「あのな、本当に心配したんだからな? あんまりムチャすんなよ。俺と約束しろ。もう心臓に負担をかけるような真似はしないって」
むむむむ、と柏木は真剣な顔で考え込んだ。それから、んんんん、と唇を尖らせた。「それじゃ、悠介からキスしてくれたら、約束する。熱いキスで、ドキドキさせて」
俺は心底呆れた。「さっそく心臓に負担をかけてどうするんだよ」
♯ ♯ ♯
無鉄砲な姪っ子を心配してやってきたいずみさんに付き添いのバトンを渡し、俺は病院をあとにした。
それにしても、柏木はよく喧嘩を吹っかけなかったな、と俺は家路につきながら思った。恭一の墓前でたまたま母と会ったそうだが、去年までの柏木ならばまず間違いなく余計なことを言って一悶着起こしていた。たとえば「泥棒猫」とかなんとか罵声を母の背中に浴びせたりして。
あれでも一日一日着実に大人に近づいているらしい。
それはさておき、俺はとにかく腹がへっていた。無理もない。昼から何も食べていない。時刻は夜の十時を過ぎていた。
24時間営業の牛丼屋に入ろうか、それともコンビニで弁当でも買おうかとひとしきり考え、やがてそれが無駄な迷いであることに気がついた。慌てて家を飛び出してきたせいで、そもそも財布を持ってきていなかった。
やっぱり今夜は一度作りかけたカップラーメンで済ますことにしよう。そう決めて肩を落としながら家の前までつくと、玄関の前に何かが置いてあることに気づいた。
それは上品な花柄の紙袋だった。
俺は警戒しつつも紙袋を持ち上げて中を覗き込んだ。そこにはラップに巻かれたおにぎりが二つと、肉じゃがの入ったタッパが入っていた。見ればメッセージカードのようなものもある。「温めて食べてください。寒くなってきました。風邪などひかないように」
送り主の名前はどこにも書かれていなかったけれど、それはたいした問題じゃなかった。こんなことをする人間は世界で一人しかいない。
よりによって肉じゃがかよ、と思うとひとりでに笑いが込み上げてきた。「おふくろの味」の代表格と言ってもいい料理を選ぶあの人の感覚には、首をかしげるしかない。
なぁ母さん、と俺は心で呼びかけた。俺の中であんたが最低の母親だという認識はこの程度のことじゃ変わらない。
でも少なくとも、俺が今夜カップラーメンを晩飯にするっていう未来を変えてくれたのは、他でもなくあんただ。
とにかく腹ペコではあるし、うまそうな匂いもするし、ありがたくいただくことにする。




