第104話 でも今この時から先の未来は変えられる 3
《♠晴香》
多くの十代後半の少女と同じように、晴香は病院という場所が好きじゃなかった。
点滴を持ちながら歩く患者の不吉な乾いた咳の音とか、ナース同士の下世話な無駄話とか、壁にかかっている何を訴えたいのかよくわからない抽象画とか、決まってニュースか相撲中継が映っているテレビとか、そういうなんやかんやが嫌いで仕方なかった。
そんな場所に彼女が月に一度来なきゃいけない理由は、一つしかない。心臓に疾患があるからだ。それも世界で数百例しかないやっかいな疾患が。
高校を休んで朝から長い検査を受けた晴香は、主治医から説明を聞くため、げんなりしながらも診察室に入った。
「今日は叔母さんは一緒じゃないんだね」と医師は言った。晴香の主治医はあちこちのメディアから取材が来るほどの名医なのだが、威張ったり気取ったりすることのない、人当たりの良いおっちゃんだった。
「ついてくる気満々だったんだけどね、あたしが止めたの」晴香は正直に答える。「だって叔母さんのお腹には赤ちゃんがいるしさ、それにあたしももう少しで高校卒業だもん。いろんなことを一人でできるようにならなきゃね」
医師は感心したようにうなずき、カルテを見た。
「君は誕生日が二月だから、あと四ヶ月で18歳か。たしかに18といえば、もう大人だもんな」
「そうだよ。あと四ヶ月であたしは結婚だってできちゃうんだから。そんなわけで先生、あたしをあんまり子供扱いしないでよね」
参ったな、という顔で医師は近くのナースと笑い合った。しかし検査結果の書かれた紙を受け取ると、真剣な顔でそれに目を通した。
「うん、今回も特に悪化はしていないね。向こう一ヶ月もこれまで通り、普通に学校に通ってかまわないよ」
晴香はほっとする一方で、早くも次の検査が憂鬱になってきた。
「ねぇ先生。検査は月イチじゃなきゃダメ? べつに年イチでも良くない? 暇そうに見えるかもしれないけどね。あたしにだってやることがいっぱいあるんだよ。いつまでこんな窮屈な生活をしなきゃいけないの?」
喉元過ぎればなんとやらだな、と医師は呆れたようにつぶやいた。
「子供扱いするなと言うから敢えてきびしく言うけどね。半年前に命取りになりかねない発作が起きて、大手術をしたのを忘れてもらっちゃ困るよ。今こうして自分の足で病院に来ていること自体が奇跡と言ってもいいくらいなんだ。たかだか三四時間の検査にブーブー言ってちゃ、君に命をつないでくれた天国のお父さんに叱られるぞ」
そうだぞ晴香、と聞こえたような気がするから不思議だ。あんまり贅沢言うんじゃねぇ、と。うるさい、くたばれバカ親父、と言い返すよりも先に医師が口を開いた。
「半年前の手術が成功したことで、この難病もついに治療法が確立される。そう遠くない未来にもう不治の病じゃなくなるんだ。それまでの辛抱さ」
「そう遠くない未来って、いつ?」
「まぁ、どんなに早く見積もっても、四年ってとこかな」
「四年!?」晴香は悠介の顔を思い出した。こうしているあいだにも悠介が闘っているのだと思うと、いてもたってもいられなかった。で、立ち上がった。「あのね先生! あたしは今が大事なのよ、今この時が! 四年も我慢できないって!」
「まぁまぁ落ち着いて。そう興奮しなさんな」医師は何かを危惧するように腕組みして、唸った。「まさか、とは思うが、日常生活でもそうやって感情的になったりしてないだろうね?」
「えっ?」
「だめだよ。心臓に負担がかかるから。発作を誘発しかねない。君はいかにも気性が荒そうだが、くれぐれも感情に任せて怒ったり怒鳴ったりしないようにね」
ついきのうもトカイの女秘書相手にブチギレしたばかりなんです。なんて、とても言えやしない。
♯ ♯ ♯
結局一ヶ月後の検査を予約して病院を後にした晴香は、家に帰る前にちょっと寄り道することにした。
「天国のお父さん」という言葉を聞いたから、というわけではないけれど、たまにはバカ親父の墓参りでもしてやろうかと思い立った。なんだかんだ言っても主治医の言う通り、今自分が生きていられるのはあの人のおかげでもある。
平日午後三時前の墓地は、銀行の窓口と違って閑散としていた。それでも何人かの殊勝な人たちが故人を偲んで手を合わせたり花を供えたりしていた。
晴香が思わず目を瞬いたのは、そのうちの一人が父・恭一の墓前に立っていたからだった。女性だ。誰だろう? 洒落たベージュのピーコートを羽織り、黒のタイトジーンズを履いている。叔母ではない。妊婦はそんな格好はしない。
晴香は女性の背後にゆっくり近づいた。そして、はぁ、とため息をついた。この人が今富山の山奥ではなくこの街にいるということを、忘れてはいけなかった。
その憎らしい背中によっぽど「泥棒猫」と声をかけてやろうかとも思ったが、大人げないので、やめた。
「有希子さん、こんにちは」
彼女は驚くでもなく静かに振り返った。「誰かと思えば、晴香ちゃん。こんにちは」
「ひさしぶりだね」
「一年ぶりね」
「お父さんのお通夜以来?」
「そうね。とは言っても、お通夜は門前払いされたわけだけど」
「なにそれ、イヤミ?」
有希子は手を振った。そして自嘲気味に小さく笑った。
「仕方ないわよ。私は恭一の妻でもなんでもないんだから。それどころか、柏木家からすれば、『泥棒猫』なんだから」
言わなくてよかった、と晴香は思った。
有希子は言った。「晴香ちゃんもこの人のお墓参り?」
「そのつもりだったんだけどね、あなたの顔を見たらそんな気分じゃなくなっちゃった」
「ごめんなさいね。すぐ帰るから」
「待って」と晴香は言って、歩きかけた彼女を制した。「今からちょっと付き合ってよ。墓参りをする気分ではないけど、有希子さんと話をしたい気分。とても大事なお話」
♯ ♯ ♯
晴香は有希子を連れて墓地近くの小高い丘に移動した。晴れていればここから市街地が一望できるのだが、あいにく空は重い雲に覆われていた。気が滅入るけれどまぁいい。べつに彼氏とデートに来たわけじゃない。二人はピクニック用のテーブルに向かい合って座った。
「そういえば、双子は?」と晴香は尋ねた。
「知り合いに見てもらってる」と有希子は答えた。「私、仕事の帰りなの」
「仕事? なんの仕事してるの?」
「お弁当屋さんのパート。朝の六時から昼の二時まで、できあがったおかずをひたすらプラスチックの容器に詰める仕事。やりがいもないし時給も良くないけど、文句は言えない。生きていかなきゃいけないからね」
晴香はふと有希子の顔を見た。おい柏木、と今にも言い出しそうな雰囲気がある。思わず額に手を当てた。「いざ二人きりで面と向かうと、なんだか話しにくいな。有希子さん、悠介とそっくりなんだもん」
「あたりまえでしょう? 悠介は私が産んだ子なんだから」
得意げな表情がシャクにさわったが、晴香は見なかったことにした。喧嘩を吹っかけるためにここに来たわけじゃない。
「そう、話ってのは、他でもなく悠介のことなの」と晴香は言った。「あなたは今彼がどういう状況にあるかなんて、知らないんでしょう?」
「悠介に何かあったの?」
晴香はこの秋に悠介の身に降りかかったことを一から説明した。それを聞き終わると有希子は眉間にしわを寄せた。しわの寄り方まで悠介と似ていた。
「悠介が高校を退学させられた……」
「これまでにもピンチはあったけどさ、今回のは本当にマズいよ。人生最大のピンチって言っても大袈裟じゃないって」晴香はそこで背筋を伸ばし、相手の目を見た。「ねぇ有希子さん。悠介の力になってあげて。あいつを救ってあげて」
「そう言われても……。今の私にいったい何ができるっていうの?」
「なんだっていいのよ。お弁当屋さんの仕事と双子の世話で忙しいのはわかるけどさ、悠介だってあなたがお腹を痛めて産んだ子でしょう? その子の未来がこのままじゃ閉ざされちゃうかもしれないんだよ?」頭を下げる。「この通り。力を貸して」
晴香はしばらく待ってみたけれど、どんな回答も得られなかった。ならば、と顔を上げ、スマホで今日の日付を確認した。
「有希子さん。悠介の誕生日はさすがに覚えているよね?」
「もちろん。10月21日」
晴香はうなずいた。
「そう。今日が14日だから、あと一週間で悠介は18歳になる。18って言ったらもう大人だよ。ねぇ有希子さん。見方を変えればさ、これは、母親としてあなたが悠介のために何かをしてあげられる最後のチャンスじゃない。こんな時くらい、母親らしいことをしてやんなよ。このチャンスを逃すと、悠介の中ではもう一生、あなたは最低の母親だよ?」
有希子は灰色の空を一度見上げて、それからため息をついた。
「私がこれまで悠介にしてきたことを考えたら、今さらもう何をしたってあの子の中では私は最低の母親よ」
それを聞いて、晴香の中で溜まっていたものが爆発した。気づけばベンチから立ち上がっていた。
「なにうじうじしたこと言ってんのよ! 本当にどうしようもない人だね! 悠介は高校を辞めさせられても、ちょっとした空き時間があれば勉強してるんだよ? 大学に行ける可能性がある限りはがんばるって言って。これを聞いてもあなたは何も思わない? 何も感じない? 有希子さん。たしかに過去はどうやったって変えられない。でも、でも――」
「……晴香ちゃん?」
「でも――」
その先の言葉を紡ぐと同時に、晴香は胸をおさえて苦悶の表情を浮かべた。強烈な痛みに襲われていた。発作だ。
手術を終えて以来、この半年でいちばん大きいやつだ。たまらずうずくまる。呼吸が荒くなる。主治医の忠告を思い出す。父親の顔を思い出す。意識が遠くなる。有希子がテーブルの向こうから血相を変えてやってくる。そして体を抱える。
おい柏木! と悠介の声がする――。




