第104話 でも今この時から先の未来は変えられる 1
《♦涼》
「はいよ、これが約束のブツだ」
放課後、空き教室に忍び入った涼は、周囲をうかがいながら手提げ袋を葉山太陽に渡した。その中には密輸したトカレフ拳銃――ではもちろんなくて、白玉あんみつが入っていた。5パックある。購買から買い占めてきた。
「サンキューな」言うが早いか太陽はそのうちひとつの容器を開けて、こしあんがたっぷりかかった白玉を頬張った。「うめぇ! これこれ! これが食いたかったんだ! 購買のがいっちゃんうまいんだよ!」
太陽は1パックだけを家で食べるために残して、あとの4パックをあっという間に平らげてしまった。その食いっぷりを見て涼は笑うしかなかった。
「そんなに好きなら、自分で買えばいいのに」
「それができねーから頼んだんだよ」大病院の跡取りは舌なめずりする。「うちの病院はこの秋から糖尿病治療に力を入れ始めたんだ。そこのせがれが学校で毎日毎日馬鹿みたいに白玉あんみつばっかり買ってみろ。この世知辛いご時世だ。誰に何を言われるかわかんねぇ」
「まぁ気持ちはわかる」と涼は正直に言った。「私も実家が東京の老舗せんべい店だから、東京みやげとして定番の某ばななが人前では食べられないのだ。ネットで何を書かれるかわかんないからね。あのばなな、本当はすごい好きなのに」
「老舗せんべい店の娘も何かと大変だな」
「大病院の息子ほどじゃないさ」涼は苦笑した。そして前髪を軽く手で払った。そろそろ本題に入ろう。「さてさて葉山氏。大好物の白玉あんみつを買う代わりに一仕事引き受けてもらったわけだが、そっちの方はうまくいった?」
「大変だったぜ」と言いつつも太陽はうなずいた。「おたくに頼まれた通り、悠介に聞いてきましたよ。さんざん怪しまれながら。もしおまえが高瀬さんと出会っていなかったら、柏木晴香と月島涼、どっちを選ぶんだって」
「それで、神沢の答えは?」
「教えなきゃだめ?」
「だめ」
「正直に言っていいんだな?」
「もちろん」
「聞いても怒るなよ」
「ちょっと待った」涼は怒った。「もう答えを言ってるようなもんじゃないか!」
「これはなぐさめで言うわけじゃねぇけどな」太陽は気まずそうに鼻をかく。「悠介は迷ったんだぞ、すごく。本当だぞ? だいたい、一度はどっちも良い子だから決められないって答えたくらいだ」
「それじゃ何が決め手になったわけ? 胸か? 尻か? ああ、あいつは脚フェチだから、脚だな!? 柏木は美脚だもんな」
「結婚だよ」と太陽は真面目な声で答えた。「どっちを自分の花嫁にするのか。悠介の奴、その視点で考えてみると、わりとあっさり答えが出たようだ」
「キイィィ」涼はハンカチを噛みたかったが、あいにくポケットには入っていなかった。地団駄を踏みたかったが、あいにく下は校長室だった。だから1パックだけ残っていた白玉あんみつに手を伸ばした。
「おい! 何しやがる! 人が風呂上がりの楽しみにとっておいたのに!」
涼は聞こえないふりをしてそれを平らげた。味はよくわからなかった。でも冷静さはちょっと戻った。
「それで、神沢はなにゆえ結婚を意識したとたん、柏木を選んだのさ?」
太陽は空っぽのカップを見て、諦めたようにため息をついた。
「なんでも自分の人生がもし物語だとすると、柏木がヒロインなんじゃないかってあいつは前々から感じていたらしい。主人公がヒロインと結婚するのは自然な流れだ。最高のハッピーエンドだ。まぁ早い話が、悠介にとって柏木はやっぱり“特別な存在”ってことなんじゃねぇの?」
「キイィィ」あいにく、もう食べるものもなかった。
しばし沈黙があった。
「なぁ月島さんよ。なんだってこんなことが知りたかったんだ? わざわざオレを悠介の元に差し向けてまで、あいつの本音を聞きたかった理由はなんだ?」
ゆう君をめぐるレースから高瀬さんがリタイアした今、私と柏木のどっちが先を走っているのか把握しておきたかった。それが答えだが、もちろん正直に教えるわけにはいかない。
「いやね、実家が何かとうるさいのだよ。悠介君を跡取りとして迎え入れる話はどうなってるの、とかなんとか、ね」
「老舗せんべい屋の娘も何かと大変だな」
連続強姦魔と結婚しなきゃいけないスーパーマーケットの娘ほどじゃないさ、と涼は思った。
♯ ♯ ♯
クラスメイトのカラオケの誘いを断って学校をあとにした涼は、その足で駅前の市立図書館へ向かった。マイクに向かって「キイィィ」と絶叫してもよかったが、それよりも調べなきゃいけないことがあった。
他でもなく、トカイの次期社長・鳥海慶一郎の犯した罪について。
あのヒキガエル野郎の悪事を白日の下に晒してトカイに打撃を与えれば、悠介を高校に戻せるかもしれないという考えだ。
太陽は四人の教師と占い師の関係を調べることで、晴香はトカイの女秘書のことを調べることで、それぞれ悠介の力になろうとしている。優里に至っては、彼との未来を諦めることで。自分だけが呑気に歌を歌っているわけにはいかない。
どうせ私はゆう君の特別な存在じゃないさ、とすぐに拗ねちゃうのが私の悪いところだ。それならばもっと特別な存在になってやる、とすぐに切り替えられるのが私の良いところだ。負けるな、涼っち。進め、涼っち。
自分を鼓舞して図書館についた涼は、まず過去の新聞をあたってみることにした。
男二人組に無理やりワゴン車に乗せられたものの、必死の抵抗もあって事なきを得たのは今からもう四年半前、中二の春のことだった。
涼はその当時の地方紙の縮刷版を調べた。しかしそのような事件の記事はどこにもなかった。かなり根気強く探したけれど見つからなかった。でも涼はめげなかった。これはゆう君のための闘いであると同時に、自分のための闘いでもあるのだ。
次に涼は館内の検索端末を使って、事件のことを扱っている雑誌がないか探してみることにした。キーワードの欄にこの街の名前や「暴行」「未解決」「ワゴン車」というような言葉を打ち込んでいく。いろんな組み合わせを試していく。
そんな作業を延々と続けて手首がしびれてきた時だった。やっと一冊の雑誌がヒットした。それはローカルの総合月刊誌だった。五年前の十月号。時期的にもおおむね符合する。涼は軽くメモをとった。そしてすぐに雑誌のバックナンバー置き場に向かった。
その月刊誌は書架の端の方にあった。六月号と七月号は貸し出し中だった。八月号と九月号をよけて十月号を掴みかけたところで、他の誰かの手もそれを掴んだ。涼ははっとして手を引っ込めた。その誰かもはっとして手を引っ込めた。相手は華奢なお姉さんだった。彼女はにこやかに微笑んだ。
「もしこれが古い恋愛映画でもし私が男だったら、『これが運命の出会いであった』ってナレーションが流れるところね」
言われてみればたしかに、と思って涼も微笑んだ。
「雑誌じゃなくて詩集ならもっと絵になったんですけどね」
「違いない」お姉さんは今度はくすくす笑った。
涼はあらためて書架の十月号に目をやった。そして手を差し出した。「お先にどうぞ」
「いいのよ、遠慮しないで。ずいぶん険しい顔で端末を操作していたようだけど、急いでいるんじゃないの?」
「でも」年上は敬うもんじゃ、というのが亡き祖父の数少ない教えだった。「でも」
お姉さんは涼の制服と表情を見て、肩をすくめた。「あのね、どっちが年上かなんて考えなくていいの。年齢なんてなんの努力もしなくたって増えていくものなんだから。私は年が上だからという理由だけで、若い子に大きな顔をしたくないわ」
そこまで言われては、これ以上譲歩するのはかえって失礼だ。涼は軽く会釈して、遠慮なく十月号に手を伸ばした。「読み終わったら、戻しておきますね」
お姉さんは嫌味のない笑みを浮かべて手を振ると、暇つぶしでも探すように、新刊のコーナーへ向かった。
素敵な人だな、と涼は思った。警戒心の強い涼が初対面の人間に好感を持つのはとても珍しかった。一年に一人いるかいないかだ。洒落っ気のある、笑顔が魅力的なお姉さん。
きっと歳は25か26くらいだろう。ベリーショートが似合っている。ダークグレーのスーツも決まっている。装飾品でムダに着飾らないのもいい。何をしている人だろう? マスコミ関係という感じもしないし、教育関係という感じもしない。
そこで涼は手に持っているものを思い出し、はっと我に返った。今は人のことを詮索している場合じゃない。せっかく見つけたこの雑誌をいち早く読まなくては。
記事が記事だけに、涼はまわりに人のいない場所を選んで椅子に腰掛けた。目的の記事は誌面の終盤に、見開き二ページにわたって掲載されていた。
『戦慄! 恐怖の黒ワゴン! 女性に忍び寄る魔の手! 悪魔の正体とは!?』
○○市周辺では今年に入り、一人で帰宅途中の女性を狙った卑劣な犯行が相次いでいる――(中略)――非力な女性をワゴン車に力尽くで押し込み暴行を働く男たちとはいったい何者なのか。小誌ではその悪魔の正体に迫るため、被害に遭う前に逃げることができたA子さん(21歳)とB子さん(17歳)に話を伺った。
涼は震える体を自分で抱きしめるように手をあてがった。おそろしいことに、その記事の下にあるのはトカイの広告だった。悪魔のリーダーはトカイの次期社長だ節穴ども、とよっぽど叫んでやりたかった。でもなんとか我慢した。そんなことをしたって何の意味もない。図書館から摘まみ出されるだけだ。
どうにかしてA子さんやB子さんとコンタクトがとれないだろうか? 私一人が告発してもその声はかき消される。でも三人の声なら――。
そんなことを集中して考えていたせいだろう、背後に誰かが立っていることに、全く気づけなかった。いつからだろう? 涼は慌てて振り返った。そこにいたのは、あの素敵なお姉さんだった。
「気を悪くしたらごめんなさいね」と彼女はさっきとは打って変わって、まったくの無表情で言った。そして雑誌の記事に目を落とした。「もしかしてあなた、この事件の被害者なの?」
涼は迷った後でうなずいた。なんだかこの人に嘘はつけなかった。「未遂ですが」
「犯人の顔は、見てる?」
「はい」
それを聞くとお姉さんは名刺を取り出し、涼に持たせた。そこには「私立探偵 松原絵美」とあった。
「今度でいい」と彼女は涼の肩に優しく手を置いて言った。「この事件に関して、今度ゆっくりお話を聞かせてほしいの」




