第103話 助演女優として最後まで堂々と演じきるだけ 3
《♥優里》
学校から帰るバスの中で、優里はつり革につかまりながら、負けず嫌いの性格を呪っていた。自身の発言を思い出すと、今にも顔から火が出そうだった。正面に座るサラリーマンの残り少ない髪を焼いてしまうくらい強い火が。私はなんであんな嘘をついちゃったんだろう?
「神沢とどこまでしたの?」月島涼にそう聞かれたのは、今日の昼休みのことだ。
その質問に対し優里は最後までしたと答えた。それ自体はあの夏の彼との一夜を思い返せば、あながち完全な嘘というわけでもない。問題はその後だ。つい見栄を張って『何もかもした』と誇張して言ってしまった。AからZまで何もかも、と。あげくの果てには『頭がおかしくなっちゃいそうなくらい何度もした』とさえ。
私は神沢君との未来をあきらめる。これからは月島さんを応援する。そう宣言したことを忘れたわけではないし、その言葉を今さら撤回するつもりもない。
それでもあの時は――あの時だけはなぜか――抑え込んでいた涼への対抗心がひとりでに込み上げてきた。神沢君にいちばん求められているのは私だという自負までおまけでついてきた。
その結果、気づけば嘘に嘘を重ねていた。つまらない嘘。くだらない嘘。なんの意味もない嘘。なにをやってるんだろう、私は。
そこでちょっとバスが揺れて、隣の乗客のバッグが優里の肩を打った。隣にいたのはブランド品で着飾った三十前後の女だった。女は謝るどころか制服を着た優里を見下すような目で見てきた。優里はカチンと来てぎろりと睨み返してやった。そしてまた自身の性格を呪った。筋金入りの負けず嫌いだった。
その直後、隣の女は舌打ちして何かをつぶやいた。ガキのくせに。どうやらそう言ったらしい。聞き捨てならなかったが、こんないい年して礼儀も知らない女の言うことは放っておくことにした。それよりもっと聞き捨てならないことを私は耳にしている。
今日の昼休み、同じ質問を涼に聞き返すと、彼女はこう答えた。「全部した」と。それからあろうことか「AからΩまでした」と。そしてこともあろうに「これ以上試す体位がないくらい何度もした」と。
本当だろうか? と優里は疑った。そして夏の一夜を思い出した。私の服を脱がすだけで爆弾の解体作業をしているみたいに手が震えるあの神沢君に、そんな度胸があるだろうか?
いや、ない。あるわけがない。
どうも嘘っぽい。さては月島さんは見栄を張って、話を盛ったんじゃないだろうか。負けず嫌いの誰かみたいに。そうに違いない。
そこで優里ははっとした。自分の立場を思い出すと、自嘲せずにはいられなかった。なにをさっきから神沢君の恋人みたいな思考回路になっているのか。
今の私にとっては彼がどこで何をしようとどうでもいいことだ。月島さんの答えが本当だからといって苛立つこともないし、嘘だからといって安堵することもない。というかどちらかといえば、本当であってくれた方がいいくらいだ。なぜなら神沢君と月島さんがそういう仲になるというのは、この私が望んでいたことなのだから。
自分のせいで高校を退学させられた悠介を復学させる。それはもちろんだが、そこに加えてもうひとつ、悠介と晴香が一緒になるのを阻止するというのも、優里が自分に課している使命だった。
それにしても、月島涼という女はいったいどういう神経をしているんだろう? 普通、なんの脈絡もなくそういう話を持ち出してくるだろうか? 修学旅行の夜じゃあるまいし。ましてや屋上とはいえ、進学校の校舎内で。あんな話をもし誰かに盗み聞きでもされていたらどうするのか。
たとえば――と思って優里はぞっとした。たとえば、私と同じくらいかそれ以上に負けず嫌いな、あの女とかに。
♯ ♯ ♯
バスを降りた優里は、家へと向かって歩きながら悠介のことを考えていた。
ちゃんとご飯は食べているんだろうか?
寝る前に歯はみがいているんだろうか?
変な宗教にのめり込んだりしていないだろうか?
おかしな女に入れ込んだりしていないだろうか?
神沢君に会いたいな、とふと思った。三分間だけでもいいから直接会って話がしたい。顔を見て、声を聞いて、そしてもしかなうなら、抱きしめてほしい。強く。
月島さんの恋を応援すると言ったのになんて女だ、ともしこの心の声が漏れていたら誰かがなじるかもしれない。それでも会いたいものは会いたい。会いたいと思うだけなら自由だ。世界で一番会いたい人のことを考えるだけなら自由だ。誰にとやかく言われる筋合いはない。
奇跡的に道の向こうから神沢君が歩いてきたりしないかな。そんな淡い期待を抱きつつ進んでいくと、やがて見慣れたダークグレーのスーツが目に入った。それで優里の顔は引きつった。奇跡にあやかろうとした私が馬鹿だった。道の向こうから歩いてきたのは、世界で一番会いたくない人物だった。
「あら」と椿原笑は立ち止まって言った。「誰かと思えば、あなたでしたか。ごきげんよう、花嫁」
「その呼び方はやめて」
優里も足を止めて、彼女を睨んだ。今日はよく年上の女を睨む日だ。
「それにしても花嫁」椿原は屈しない。「ここで会うなんて奇遇ですね。今お帰りですか?」
「そのクサい芝居もやめて。何が奇遇よ。どうせ私がこの時間にこの道を通ることも調査済みなんでしょ」
トカイの有能な女秘書は肩をすくめた。
「花嫁。私と会うのは、あまりうれしくないですか?」
「あまりなんてもんじゃない。全然うれしくない」
「会えてうれしいと思っていただける人間になれるよう、努力いたします」
無駄な努力だ、と優里は思った。そして、これは逃してくれないな、とも思った。
「それで、なんの用?」
「もちろん取引の件です」と椿原は言った。「いかがです? 『一緒の未来を目指すことはできない』。その言葉を神沢悠介から引き出せそうですか?」
「そのためにいろいろ手を打ってる。心配しないで。大丈夫だから」
「しかし、取引成立から今日で十日を迎えます。いささか手間取っているようにも思えるのですが」
「あのね」と優里は前髪をかきあげて言った。負けず嫌いがまた顔をのぞかせていた。「そんなに簡単にことが運ぶわけないでしょう? 私がその言葉を引き出さなきゃいけないのは、そのへんのどうでもいい男からじゃないんだから。私と一緒の未来を目指している男からなんだから。神沢君のなかでは私が一番大切な女なんだから」
それを聞くと椿原はどういうわけか憐むような目で優里を見てきた。そして言った。
「失礼を承知で言わせていただくと、花嫁はひとつ、勘違いをなさっているようです」
「どういう意味?」
「こちらをご覧ください」
椿原はバッグからタブレット端末を取り出した。そしてそこに一枚の画像を表示させた。それが一瞬視界に入っただけで、優里の胸はずきんと痛んだ。画像から目をそらさずにはいられなかった。でもきちんと見ないわけにもいかなかった。加工が施された、フェイク画像かもしれない。
でもそれはどうやら本物らしかった。タブレットの中では、悠介が晴香の体を抱きしめていた。服の上からではあるけれど、とても強く。
「つい先ほど撮影したものです」椿原は淡々と告げた。「実はわたくし、“鉄板焼かしわ”にこの場所から立ち退いてもらうよう交渉役を上から仰せつかっているのです。驚きました。今日も交渉におもむいてみれば、店の中でこのような事態になっているのですから。邪魔してはいけませんのでね。今日のところは交渉をあきらめて、帰ってきた次第なのです」
優里は何も言えなかった。眉をひそめただけだった。
「なんでも柏木晴香の夢は今ある店舗を居酒屋に改装して、神沢悠介と一緒に経営することらしいですね。そして神沢悠介はこの店でアルバイトを始めている。将来的には愛の巣となるかもしれない店の中でのこの抱擁。これはいったい何を意味するのでしょう?」
優里は何も言えなかった。唇を噛んだだけだった。
椿原は写真を仔細に眺めた。それから言った。
「それにしても見事な抱擁です。まるで映画やドラマのワンシーンを切り取ったみたいだ。ラブストーリーでしょうか? それともヒューマンドラマでしょうか? どっちにしろ花嫁。神沢悠介の物語においては、柏木晴香こそが主演女優なのですよ。あなたではありません。花嫁はそこを勘違いなさっている。彼の物語ではあなたは、助演女優の一人に過ぎないのです」
♯ ♯ ♯
優里はまっすぐ家には帰らず、近くの河川敷へと足を運んでいた。川辺のグラウンドでは私服の小学生たちが野球をやっていた。彼女は石段に腰掛けてそれをぼんやり眺めながら、椿原の去り際の言葉を思い返していた。
神沢悠介の物語においては、柏木晴香こそが主演女優なのです、と椿原は言った。あなたは助演女優なのです、と。
わざわざ学校帰りに待ち伏せされてまで指摘されなくたって、それくらいのことはなんとなくずっと前からわかっていた。神沢君の“未来の君”は晴香だと知らされた、あの時から。
負けず嫌いの性格がそれを認めたくなかっただけだ。もしくは自分の立場を表す適切な表現が思いつけなかっただけだ。
助演女優。
声に出してみて優里は思わず笑った。言い得て妙だ。これ以上適切な表現は思いつかない。感心すらした。悔しいけれど、あの女、うまいことを言う。秘書からコピーライターにでも転職した方がいい。
考えてみれば、例の占いそれ自体がそもそも物語じみている。幸せを望むなら“未来の君”と手を取り合って生きることです――。うん、映画やドラマの世界でしか聞かない話だ。そして神沢君の“未来の君”は晴香だ。私じゃない。
いずれにせよ、これでふんぎりがついた。これまでは口では神沢君を高校に戻してみせると言いながらも、心では嫌な女を演じることに抵抗を感じていた。本心を偽ることに。
でもこれで吹っ切れた。私の役割ははっきりした。助演女優として最後まで堂々と演じきるだけ。それが神沢君のために私ができるただ一つのことだ。
それからしばらく経って、優里はあることを思い立って、石段から立ち上がった。そして川辺のグラウンドまで下りて、野球少年たちに声をかけた。
「ねぇ、お姉さんにも一回、打たせてよ」
少年たちは進学校の制服を着た謎の「代打・私」にえらく困惑していた。でもそのうち物わかりのよさそうな少年が金属バットを渡してくれた。優里は二度三度スイングの練習をしてから、右バッターボックスに入った。
ピッチャーは相手がきれいなお姉さんだからといって手加減しなかった。初球から厳しい球を厳しいコースに放り込んできた。それでもツーストライクになって少し油断したのか、ど真ん中に山なりの甘い球が来た。優里は心を無にして思いきりバットを振り抜いた。
小気味よい音をたてて白球は空高く舞い上がり、ショートの頭を越え、レフトの頭を越え、鳥の頭すら越え、そしてそのまま、ぎりぎりではあるけれど、外野の柵を越えた。
嘘でしょ、と優里はバッターボックスで固まったまま思った。内野安打を打てれば上出来だった。センター前ヒットを打てれば御の字だった。助演女優にだって見せ場はあるんだと自分に言い聞かせたかっただけだった。
気づけばいつしか、グラウンドの少年たちの目が輝いていた。尊敬の眼差しで見てくる。拍手が起きる。今日の主役だ、と声が重なる。
そんなことないよ、と優里は謙遜しかけて、すがすがしい笑みを浮かべた。
ちょっとくらい主演女優の気分を味わったって、バチは当たらない。




