第102話 キャンディが溶けてしまわないように 1
《♥優里》
「神沢君、電話でちょっと話せないかな?」
優里が「しまった」と思った時にはすでに、手遅れだった。送るつもりのないそのメッセージを悠介のスマートフォンに送ってしまっていた。くしゃみのはずみでタップしてはいけないアイコンをタップしてしまっていた。
なぜ送る気のない文章をスマホ画面に打ち込んでいたのか。理由は一つしかない。そうすることで、彼の声を聞きたいという気持ちを鎮めたかったから。まるで海に行きたくても行けなかった少年が、イルカの絵を描いてちょっとでも自分を慰めるように。
「どうしよう……」優里は私室のベッドの上で慌てふためいた。
“一緒の未来を目指すことはできない”
優里は悠介を高校に復学させるため、彼からその言葉を引き出さなきゃいけなかった。そこに至るプロセスの第一歩として彼女がとったのが、「神沢君に冷たくしよう作戦」だった。
ひたすら素っ気ない態度をとり続けて、私への不信感を彼に抱かせる。はじめはまだ小さな風船だ。しかしそれは少しずつ彼の中で膨らみ続け、そしてやがて破裂する。
ここ数日、悠介からの連絡がぱったり来なくなったことを考えれば、どうやら作戦は順調に進んでいるとみてよかった。
それなのに、だ。それなのに、自分から「電話でちょっと話せないかな?」はない。それもよりによって夜の9時過ぎという男女にとってなかなかスイートな時間に。これまでの苦労が水の泡になってしまう。
どうしよう? 送る相手を間違えたことにしようか? いや、神沢君と名指ししてしまっている。どうしよう? そうだ、取り消せばいいんだ、と優里は閃いた。頭が混乱しすぎて、そんな簡単なことすら思いつけなかった。
しかし取り消すよりも先に、電話がかかってきた。もちろん悠介からだった。どうしよう? どうしようもなにも、出ないのが正解だ。頭ではよくわかっている。わかっているけれど……。
彼の声を聞きたいという思いが、もう一度くしゃみを起こさせた。優里は通話アイコンをタップすると、電話で冷たい受け答えをすれば問題ない、と自分に言い聞かせてスマホを耳に近づけた。
「もしもし」と悠介は言った。
「もしもし」と優里はにべもなく言った。「何の用?」
「何の用って。電話で話せないかなって高瀬からメッセージが来ていたから」
優里ははっとした。すっかり忘れていた。これではただの変な女だ。
「そ、そうだったね、ごめん」
「いいんだ」悠介は優しく笑った。「高瀬こそ俺に何か用があったんじゃないの?」
声が聞きたかった、なんてもちろん言えない。
「あったはずなんだけど、なんだったかな……」
「なんでもいいさ。ちょうどよかったよ。実はさ、俺もちょうど高瀬に電話をかけようかと思っていたところだったんだ」
「なんで?」
「笑わない?」
「笑わない」
「その、どうしても高瀬の声が聞きたくなって」
鏡に映った口元は、だらしないくらいゆるみきっていた。どうしよう。ニヤニヤが止まらない。
「ごめん、よく聞こえなかった」と優里は咄嗟に嘘をついていた。「もう一回言って?」
「ああ、どうしても高瀬の声が聞きたかったんだ」
うっとりしてそのまま抱き枕に頭をうずめかけたところで、彼女はやっと我に返った。いけないいけない。喜んでいる場合じゃない。彼に冷たくしなくては。
「知ってた?」と彼女はうれしい気持ちに蓋をして言った。「スマホから聞こえてくる声って、実は偽者なんだよ。本物の声をそのまま相手に届けようとすると、データ量が膨大すぎて、通信が重くなるんだって。それで何千とある人工音声の中から、一番近いものに変換して相手に送っているの。だから厳密に言えば、これは私の声じゃないんだ」
こんな女イヤでしょう? と優里は思った。いつか見た雑学番組の受け売りをひけらかして良いムードをぶち壊す女。もし私が男だったら、こんな女との電話は今すぐにでも切りたい。神沢君もさぞしらけているんだろうな。そう思って耳をすましてみれば、あろうことか、いつになく快活な声が返ってきた。
「マジかよ!? そうなんだ。知らなかった! それにしても、高瀬って本当に物知りだよなぁ。話しているだけで勉強になるよ! 言われていればたしかに、電話で聞く声よりも、じかに会って聞く高瀬の声の方がずっとかわいいもんな!」
どうして普段は気の利いたことなんてひとつも言えないくせに、今日にかぎって女心をくすぐるようなことを言うのだろうこの男は? 優里は歯痒くて仕方なかった。神沢君。高校に戻りたくないの? あやうくそう言いかけたくらいだ。
「でもさ高瀬。偽者の声だろうがなんだろうが、こうして高瀬と話せてうれしいよ」
同感だった。無意識にジュエリースタンドの指輪に目が行く。悠介から贈られた、偽者のダイヤのついた偽者の指輪。
たとえ偽者だとしても本物以上に尊く感じられることがあるのを、優里は身をもって知っている。
それからも人工音声を用いた会話は続いた。優里は心を鬼にして、できるだけ簡素で冷淡な相づちを打ち続けた。やがて話題は、悠介のバイトのことになった。柏木の鉄板焼き屋で働いてるんだ、と彼はいくぶん後ろめたそうに言った。住み込みで? と優里は聞いてみた。そんなわけないだろ、と彼は笑って否定した。よかった。
「実はさ、今日、店にトカイの社員が来たんだよ。なんでも今店が建っているあたりにトカイの新店舗を建てる計画があるみたいで、柏木にここから立ち退けっていうんだ。女の社員だった。高瀬はその女に心当たりはないかな?」
ある。一人だけ。まさか。花嫁、というあの耳障りな声がよみがえる。
「その女社員の特徴は?」
「髪は短くて、地味なダークグレーのスーツを着て、とにかく無愛想だった。無愛想な俺に言われるんだから、よっぽどだ。でも仕事はできるんだろうな。『目的のためなら手段は選ばないのです』が決まり文句らしい」
優里は口の中にたまった唾液を呑み込んだ。間違いない。椿原笑だ。鳥海慶一郎の女秘書。その女こそが悠介を退学させるべく裏で糸を引いていた張本人なのだが、あいにく退学の真相を彼に教えることは、椿原から厳しく禁じられていた。
「わかんないな」としか優里は答えようがなかった。
「そっか」と悠介は残念そうに言った。
しばらく沈黙があった。石のように硬い沈黙だった。やがてスマホ越しに咳払いが聞こえてきた。取ってつけたような咳払いだった。彼は言った。
「あのさ高瀬。ここ最近、なんだか俺に冷たくない? つれないというか、よそよそしいというか。俺、高瀬の機嫌を損ねるようなことをしたかな? もしそうなら教えてほしいんだ。鈍い男で申し訳ないとは思うけど」
自然なかたちで彼を突き放す――風船を大きく膨らませる――絶好のチャンスが訪れた。それじゃ言わせてもらうけどね、と切り出して、次々に彼への不満をぶつければいい。本当に思っていることでも本当は思っていないことでもいい。一の不満を百に拡大してもいい。とにかくけちょんけちょんに思いつく限り言ってやればいい。それが結果的に、彼のためになる。
しかし、優里にはそうすることができなかった。喉まで言葉が出かかっているのだが、それらを口にしようとすると、どうしてもジュエリースタンドの指輪が目に入った。
それで結局、体調が良くないから休むね、と言って電話を切った。
彼女はスマホを置いてベッドから下りると、ジュエリースタンドの元へ向かった。もういっそ、こんなものは外に投げ捨ててしまおう。そんな思いに駆られて指輪を引っつかむと、窓を開け、腕を大きく振りかぶった。
左手の薬指が疼いたのは、まさに指輪が手から放たれようという瞬間だった。その疼きはひとつの記憶をよみがえらせた。
京都の路地裏で、悠介によって左手の薬指に指輪を通された記憶。誰にも祝福されない、偽者の結婚式。優里はすんでのところで腕を下ろすと、その場に力なく座りこんだ。そして指輪を見てため息をついた。
私は鳥海慶一郎の花嫁になるために生まれてきたわけじゃない。私が生まれてきたのは――。
あらかじめ想像できたことだけど、「一緒の未来を目指すことはできない」と悠介から引き出すのは、やはりそんなに簡単なことじゃない。
どうしよう、と気づけば言っている。なんだか今日一日で一年分のどうしようを口にした気がする。もうこれ以上言っちゃいけない。
もうちょっと神沢君の声を聞きたいな、と優里は思った。今度はこっちからかけ直そうか。それともまたくしゃみの力に頼ろうか。
どうしよう?




