第101話 その顔を見ればきっと名前くらい尋ねてしまう 4
《♣悠介》
「鉄板焼かしわ」でバイトとして働くようになって5日が経った。柏木の誘いに乗って正解だった。
新しく覚えなきゃいけないことが多すぎて「本当に高校に戻れるんだろうか?」というようなことを考えている暇はほぼないし、それにたとえふとした瞬間にそういう不安が浮かんでも、せわしなく店内を動き回っていると、そのうち自然に忘れてしまえるからだ。
お客さんはほとんどが何十年とこの店に通っている商店街の常連かその家族だった。
みんなおおらかな人で、まだ仕事に慣れない俺のミスは笑って許してくれた。18年ぶりにこの店に雇われた新人バイトは廃れる一方の商店街の救世主にでも見えたのか、ホルモン焼きを肴にハイボールを飲みに来る八百屋のおっちゃんは採れたてのとうもろこしを持たせてくれた。旦那の愚痴を肴にビールを飲みに来る鮮魚店のおばちゃんは今が旬のサンマを持たせてくれた。みんな多少のクセはあるものの、基本的にはとても良い人たちだった。
クラスメイトから上司となった柏木の、時代錯誤的なパワハラまがいの言動さえなければ最高の職場なのだが、まぁ、あまり贅沢を言えた立場でもない。
俺は中休み中の4時からの仕事に間に合うよう5分前に店に着いた。
いつもは開いている鍵がどういうわけか今日はかかっていた。仕方がないので柏木に渡されていた合鍵を使って戸を開けた。店内には誰もいなかった。いずみさんはたしか今日は産婦人科に通院する日だ。では鬼上司は? そう思って店の中を進むと、カウンターに何やら書き置きがあった。柏木の字だった。
「悠介へ。体育のバスケットで汗をかいちゃったから、シャワーを浴びてるね。悠介はあたしのベッドで待っててね♥」
二階の彼女の部屋へ足が一瞬向きかけたが、理性がそれを制した。まったく、これから仕事だというのに、部下をいたずらに惑わしてどうするのか。
俺は呆れて冗談の書かれた紙を胸ポケットに入れると、気をまぎらわすため、箒とちりとりを持って店先に出た。
柏木の裸体を想像しないよう気をつけながら掃き掃除に勤しんでいると、やがて誰かに見られている感覚を覚えた。いや、ガンを飛ばされているという表現の方がしっくりくる。それくらいそれは攻撃的な眼差しだった。
どうやら斜め向かいの方からその視線は向けられている。そこにはいつ見ても客のいないラーメン屋があった。俺を睨みつけていたのはそこの店主だった。背の低い坊主頭。やたら人相が悪い。交番の横に掲示してある指名手配犯一覧にあっても驚かない顔だ。あまり友好的な関係を築けない人種だということは、目が合って二秒でわかった。
三秒後には男が店から出てきた。そしてあろうことかこちらに向かって歩いてきた。威圧的に肩を揺らして、のしのしと。彼は俺の前まで来ると、真下から突き上げるように顔を見上げてきた。
「おめぇ、身長は何センチだ?」
俺はびくびくしながらも四月の身体測定を思い出した。「172cmですが」
その返答は、彼の中の何かを刺激したらしかった。「ざけんな!」と来た。「170台だからって調子こいてんじゃねえぞ。オレは150台だがしっかり生きている。男の価値は身長なんかで決まらねえ。それをよく覚えておきやがれ、このモヤシ野郎!」
この生命体はいったいなんなんだろう? わからない。わかるのは、背が低いということにとてつもないコンプレックスを持っているということだけだ。
「身長って、自分が思っているよりもまわりの人は意識してないそうですよ。だから、あまり気にしない方が……」
「気にしてねえよ!」男は巻き舌になる。「いいか、よく聞けモヤシ。たしかに日本人の男の平均身長は170を越えている。オレはそこには遠く及ばねぇ。でもそれがどうしたってんだ。オレは握力だったら平均以上だ! だから身長のことなんかちっとも気にしてねぇよ!」
細かい統計を持ち出してくるあたり、よっぽど普段から気にしているようだが、面倒なので黙っていた。
「ていうかな、身長のことはどうでもいいんだよ!」と彼は自分から切り出したくせに言った。「オレが本当に話したいのは、晴香のことだ」
そのことを考えたくなくて掃除をしていたのに、彼は一方的に話し続ける。
「おめぇは晴香以外に惚れている女がいるそうだな?」
俺は小さくうなずいた。俺は高瀬が好きだ。もちろん口には出さないが。
「おいモヤシ。晴香はおめぇみたいな男にはもったいない女だ。ツラも良いし気立ても良い。度胸もあるし機転も利く。そんな女がおめぇを好いてくれてるってのに、他の女にうつつを抜かしてるっつーのは、どういうことだ?」
そう言われても、としか答えようがない。「そう言われても」
「だいたいよ、他に惚れてる女がいるってのに、なんでこうやってちょいちょい晴香に会いに来てんだよ? とうとう5日前からこの店で働き始めたそうじゃねぇか。さてはおめぇ、あわよくば晴香とも深い仲になろうっつー魂胆じゃねぇのか?」
「そんなことないですよ」
「オレの目を見てもそう言えるか?」
ああっ!? とすごんで彼は、俺の胸ぐらをつかんだ。その衝撃で、一番起こってはいけないことが起こった。先ほどポケットに入れたものが飛び出てしまった。例の柏木の書き置きだ。道に落ちたその紙を俺と彼は奪い合った。しかし彼は自慢の日本人男性平均以上の握力をもって争奪戦を制すると、そこに書かれたメッセージを声に出して読み始めた。
悠介へ。体育のバスケットで汗をかいちゃったから、シャワーを浴びてるね。悠介はあたしのベッドで待っててね♥。ハートマークまで律儀に読み上げると、彼は、激高した。
「おいこらてめぇ! なんだよこれは!? ぶっ飛ばすぞ!」
騒ぎを聞きつけたのか、そこで店内から柏木が駆けつけてきた。バスタオルを一枚巻いただけの姿で。
「ちょっとエージ! 悠介に絡まないでよ! やめなきゃ警察呼ぶよ!」
「警察でもなんでも呼びやがれ。オレは怖いもんなんかねぇ」
「あっそ。もうあんたとは口をきいてあげないけど、それでもやめない?」
それを聞くと男はよろめいた。まるで強烈なフックを食らったかのように。このままでは格好がつかないと思ったのか、彼は俺を睨むとこう啖呵をきった。
「言っておくが、オレは晴香とこの店を守ってやれる。なんせこの世に怖いもんなんかねぇからな。覚えとけ、モヤシ野郎」
「その『モヤシ』っていうの、やめてくださいよ」
「モヤシはモヤシじゃねぇか」
俺がもやしならあんたはまめじぇねぇか。もう少しでそう出かかったが、どうにか堪えた。そんなこと言ったら、本当にぶっ飛ばされる。
♯ ♯ ♯
柏木が“エージ”と呼び捨てにしていたからこの生命体はてっきり同い年かと思っていたが、実際は俺より三つも年上だった。もちろん俺は呼び捨てにする勇気がないので鋭次さんと呼ぶことにした。柏木が二階の私室で髪を乾かしているあいだ、俺たちは店舗の二人がけの席に座って話をしていた。
晴香に惚れたのは二年前の春だ、と鋭次さんは尋ねてもいないのに言った。
俺があいつと高校で会ったのもその頃です、と俺は言った。
この二年半のあいだオレのことを晴香はよく話してただろ、と彼は言った。
元不良の20歳の背の低いラーメン屋の話なんて柏木から一度も聞いたことがなかったが、俺は不要な摩擦を避けるため、笑顔でうなずいておいた。
店の引き戸がどこか不吉な音を立てて開いたのは、仕事着に着替えた柏木が階段から下りてきた時だ。店の前には「休憩中」の札を下げていたはずなのだが。
「ごきげんよう」とその来客は言った。ダークグレーのスーツを着た、髪の短いお姉さんだった。25、6歳だろうか。きれいな人だ。ちょっとタイプだな、と思って鼻の下を伸ばした俺は馬鹿だった。よく見るとスーツの襟の部分には、あの忌々しいトカイのバッジがあった。
柏木と鋭次さんは彼女と面識があるのか、すでに顔をしかめていた。
「立ち退きの件、考えていただけましたか?」とその女は男二人に目もくれず言った。立ち退き?
すかさず柏木が応じる。「あんたね、しつこい! これで何回目? 七万回来られたって答えは変わらないから。ここを立ち退くつもりはありません。どうぞお帰りくださいませ」
女は帰らなかった。柏木のつれない回答は織り込み済みであるようだった。無表情で肩をすくめると、店の外に向けて手招きをした。
するとその直後、いかめしい顔つきの男が現れた。本物だ、と俺は本能的に思った。頭の中で『仁義なき戦い』のテーマが流れる。鋭次さんとはまとっているオーラがまるで違う。龍とタツノオトシゴくらい違う。間違いない。そっちの筋の人だ。背中に背負っている龍のせいで公衆浴場に入れない方々だ。小指がないかもしれない。
「このお店、人気あるのよ」と女は彼に芝居がかった声で言った。「お昼時なんか満席で入れないくらいなんだから。そうそう。お兄さん、良いお店探していたでしょう。仕事仲間を連れて、今度いらっしゃいよ」
なるほど。女の考えはこうだ。こんないかにもな連中が押し掛けてくる店なんて、一般の客は怖くて寄りつかないわよ。そんなのは嫌でしょう? だから大人しく立ち退きに応じなさいよ。
柏木も女の意図がわかったらしく、もどかしそうに唇を噛んだ。
「あんた、やり方が本当の本当に汚い」
「前に予告しましたよね? 『次は少々手荒な真似をするかもしれません』って。こっちも七万回だって言いますよ。私は目的のためなら手段を選ばないのです」
しばしの静寂のあとで、俺は信じがたい言葉を聞くことになった。耳打ちしてきたのは、鋭次さんだ。
「おいモヤシ。おめぇ、どうにかしろ」
「えぇ!?」今この時だけは、モヤシでよかった。「無理ですよ! 鋭次さんこそどうにかしてくださいよ」
オレは晴香とこの店を守ってやれる。なんせこの世に怖いもんなんかねぇからな。数分前にそう豪語してみせたのは、他でもなく彼自身だった。こんなに早く覚悟が試されるなんて読めねぇよ、と思ったかは不明だが、鋭次さんは困惑の色を浮かべつつ、男の元へ歩み寄った。
「お、おう、言っとくけどな。晴香とこの店に何かあったら、ただじゃおかねぇからな」
男はびくとも動じない。「ただじゃおかないって、どうするんだ?」
「ぶ、ぶっ飛ばすまでよ」
「おい坊主。今にもションベンちびりそうな顔してるぞ? ひとつ忠告しといてやる。素人があまり乱暴な言葉を使うもんじゃない」
鋭次さんがへなへなとその場にへたり込むと、女は男に下がるよう指示し、それから自分も帰りかけた。そこで初めてほんの一瞬俺と目が合った。すると彼女は俺と柏木を交互に見やり、何かを納得したようにかすかな笑みを浮かべた。
「そういうことですか。これはおもしろくなってきましたね。今日はここに来て正解でした。望んでいた回答は得られませんでしたが、それを上回る収穫がありました。大収穫です」
♯ ♯ ♯
「鉄板焼かしわ」でのバイトを終え、俺は一人で帰路についていた。疲れた。美しいはずの秋の月を見上げる気も起きないほど疲れた。本業以外で大変な一日だった。
偽者のヤバい男に出会い、本物のヤバい男に出会い、襟にトカイのバッジをつけた女に出会った。疲れた。
そこで俺はふと、高瀬の声が聞きたいなと思った。電話越しでもいいから高瀬と話ができれば、この疲れも瞬時に吹き飛ぶ。
俺は無意識にスマホを取り出していた。そして彼女に電話をかけようとした。そこではっと我に返った。忘れちゃいけない。高瀬はなんだか最近ずっと俺に素っ気ない態度を取っている。会えなくなって三週間が経つというのに、彼女からの連絡らしい連絡はいまだゼロだ。電話をかけたって、きっと出てくれない。
ため息をついて、スマホをしまいかけた、その時だった。端末がメッセージを受信した。それを見て俺は思わず空を見上げた。月は思っていた以上に美しかった。
「神沢君、電話でちょっと話せないかな?」




