第101話 その顔を見ればきっと名前くらい尋ねてしまう 3
《♠晴香》
高校から帰ってきた晴香はセーラー服から鉄板焼かしわの仕事着に着替え、厨房でひとり鼻歌を歌いながら夜の部の開店準備をしていた。
店主で叔母のいずみは結婚式の打ち合わせをするため、婚約者に会いに行った。きっと今頃二人でお腹に手をあてて、「この子の名前はどうしようか」なんて話したりしているんだろう。幸せな時だ。いいよいいよ、と晴香は心から思った。これまで自分のために尽くしてくれた叔母さんにはどうか幸せになってほしい。それが晴香の願いだった。
いずみには負けるかもしれないけれど、実は晴香も晴香で幸せな気分になっていた。
というのも、今日は悠介がこの店にバイトに来る最初の日だからだ。もう30分もすれば悠介がやってくる。二人だけの時間が訪れる。
この店を居酒屋に改装して悠介と二人で切り盛りする。それが晴香の夢だ。叔母はこれから産科の定期検診やらなんやらで、店を空けることが多くなるだろう。その分だけ悠介と将来の予行演習をする機会も増えるということだ。そりゃ鼻歌だって出る。
お好み焼きで使うキャベツを切っていると、店の引き戸の開く音がした。
叔母だろうか? いや、帰ってくるにはまだ早い。悠介だろうか? いや、来るにはまだ早い。客だろうか? 店頭には「休憩中」の札を下げていたはずなのだが。いや、休憩中だからこそ来る“招かれざる客”を、晴香は一人だけ知っている。今この世の中で一番顔を見たくない女。あたしの夢を壊そうとする女。
重い足取りで厨房から出てみれば、案の定軒先には、ダークグレーのスーツを着た髪の短い無表情女がいた。
「ごきげんよう」と彼女はあくまでも事務的に言った。
襟に光る金色の鳥のバッジを見て晴香は眉をひそめた。
「あんたって、どうしていつも人が幸せな気分に浸っている時に来るわけ?」
「お気づきになりませんでした? 私は幸せの使者なのです」
「へぇ、意外」晴香は空笑いする。「あんたみたいな愛嬌ナシ女でも、冗談を言えるんだね」
「冗談のつもりはなかったのですが」と彼女はしれっと言った。「わたくしどもの提案はそちらにとっても必ずや有益なものになるはずです。それで、立ち退きの件は考えていただけましたか?」
やっぱり用件はそれか、と思って晴香はため息をついた。
「何度聞かれたって答えは同じ。立ち退くつもりはない。全然ない。何が有益よ。笑わせないでよ。トカイの新店舗を作るんだかなんだか知らないけど、この場所はあたしの夢を叶える場所なの。あたしが幸せになる場所なの。トカイの金儲けのための場所じゃないの。あんたは幸せの使者なんかじゃない。不幸の使者だよ!」
女はいつものように眉一つ動かさず、埒があかないとでも言いたげに肩をすくめた。そして無駄のない動きでバッグから何かを取り出した。それはチラシほどの大きさの紙だった。そこには鉄板焼かしわを中傷する文言がつらつらと書き連ねてあった。
「百枚あります」と女は言った。「提案に応じていただけないのであれば、商店街のあちらこちらにこのビラがまかれることになります」
晴香は握り拳を握った。「あんた、卑怯!」
「なんとでも言ってください。私は目的のためなら手段を選ばないのです」
そこで斜め向かいのラーメン屋から、晴香のよく見知った坊主頭がこちらに向かってきた。彼は女の背後からそのビラをかすめ取ると、それに目を通して肩を怒らせた。
「なになに? この店では儲けを多く出すため食材の産地偽装をしている? 期限切れの肉も平気で提供する?」彼は声をあげて笑う。それから女にメンチを切った。「あのな、こんなもんばらまいたって意味ねぇよ。この店の信用は1ミリたりとも落ちやしねぇ。鉄板焼かしわがサイコーのお好み焼きを食わせるサイコーの店だってことは、この商店街の人間はみーんなよく知ってんだ。オレたちの結束力を舐めんじゃねぇ!」
女はスラム街の落書きを見るような冷ややかな視線を彼に送ると、晴香の方に向き直った。
「また来ます。立ち退きの件、よく考えておいてくださいね。あ、そうそう。次は、返答次第では、少々手荒な真似をすることになるかもしれません。そうならずに済むことを祈っています」
もう来なくていい! と晴香が女の背中に怒鳴りつける前に、彼が口を開いた。
「あのいけすかねぇ女、うちにも来やがったよ」と彼は言った。「実際にこんなビラをばらまく気はないんだろ。そんなことしたら名誉キソンかなんかで訴えられちまうもんな。揺さぶりをかけて、立ち退きに応じさせるつもりなんだ。まったくひでぇよ。嘘ばっかり書きやがって。うちに来た時は『とにかくマズい』っていう内容だったな」
晴香は思わず苦笑する。「あんたのとこのラーメンがマズいってのは、完全な事実じゃない」
「う、うるせーよ! これでも必死でオヤジの味を勉強中なんだ!」
「とにかく、助かった。ありがと、エージ」
「ていうかな、晴香。おめぇはいっつもオレにタメ口きいてくるが、オレの方が三つ年上だからな? わかってるよな?」
「わかってるけどさ、そんなカンジがちっともしないんだよねぇ。なんでだろう?」
なんでだろう? と晴香はその理由を考えてみた。答えはすぐに出た。目線が10cmほど下がる。165cmの自分より背が低いからだ。身長のことを触れられようものなら、この男は力の限りに暴れ回るので、なんでだろうね、と言葉を濁しておいた。
鬼崎鋭次。なんだか任侠映画の役名みたいだが、それがエージの本名だった。
鋭次は弱冠20歳ながら、この商店街で50年以上続くラーメン店の店主を務めていた。
少年時代は手のつけられない不良で、学校にもろくに通わずケンカやバイクに明け暮れる日々を送っていた。そんな彼に転機が訪れたのは、二年前の春だ。それまで一人でスープの味を守り続けてきた父が病で他界したのだ。急死だった。
親孝行らしいことはひとつもしてやれなかった。そう悔やんだ鋭次は店を継ぐ決意をした。金髪のリーゼントをすっぱり切り落とし、金属バッドを中華鍋に持ち替え、改造バイクから出前のスクーターに乗り替えた。
しかしスープのレシピを伝えようとする生前の父の話に耳を貸さなかったせいで、なかなか伝統の味を再現することはできなかった。以前はテレビでもたびたび紹介されるような人気店だったのだが、客足は遠のく一方だった。
そのようにして鋭次の第二の人生は――スープ研究に明け暮れる日々は――始まった。
「あんたは立ち退きに応じた方がいいんじゃない?」と晴香は閑散とする店内を眺めて言った。「お客さんなんか一日に指で数えるほどしか来ないんだから、トカイから立ち退き料をふんだくった方が得でしょ」
「ざけんな!」鋭次は巻き舌になる。「あの店の厨房にはな、オヤジの汗と涙が染みついてんだ。それに病気がちのおふくろだっている。そう簡単に退けるかよ。オレはさんざん迷惑かけた両親のためにも、伝統の味を復活させて、この店ににぎわいを取り戻してみせる!」
晴香は時計を見てみた。あと15分もすれば悠介に会える。
「なぁ晴香」と鋭次はいつになく真剣な顔で言った。「いずみさんは結婚して半年後には店を出るんだよな? おめぇよ、これから一人じゃ何かと心細いだろ? もしトカイが新店舗の建設をあきらめても、この先もっとデカい企業がああだこうだ言ってくるかもしれねぇ。それにおめぇは、心臓にやっかいな病気だって抱えてやがる。なぁ晴香。オレと一緒にならねぇか? オレの女になれ。世界一幸せな女にしてやっからよ」
「それはなに? 告白ってこと?」
「おうよ。この鬼崎鋭次、一世一代の大勝負だぜ」
晴香はいちおうの礼儀として考えるフリをした。8秒が限界だった。
「あのねエージ。あたしはあんたとそういう関係にはなれないよ。あたしはね、あんたみたいに『昔はやんちゃしてたけど今は丸くなって両親のためにとか言っちゃうオレ、カッコイイだろ』みたいな男、ぜんぜんタイプじゃないの」
「別にそんなこと思ってねぇわ!」
「とにかく、ごめん。あきらめて」
「ったく、それじゃ、どんな男がタイプなんだ」鋭次はすぐにそれに思い当たったようで、かっと目を見開いた。「もしかしてあの野郎か! ちょくちょくおめぇが連れてきてる、いかにも頭でっかちな気難しそうな奴!」
彼は仏頂面をする。悠介の顔真似らしい。「まぁね」と晴香ははにかんで答えた。
「あんなモヤシ野郎のどこがいいってんだ! 腕っぷしは弱そうだし、肝っ玉は小さそうだし、男らしさなんかひとっつもありゃしねぇじゃねぇかっ!」
晴香は思わず顔をしかめた。自分のことをけなされるより腹が立った。
「ちょっとエージ。フラれたからってあたしの大切な人のことを悪く言うのはやめてよ。負け惜しみなんてみっともない。エージの方がよっぽど男らしくないよ!」
彼はよろめく。そのセリフは今までに食らったどんなパンチよりも効いたらしい。
「す、すまねぇ、つい。……それで、あの男とは恋仲なのか?」
「ううん。あたしの片思い」
「はぁ?」
「だって彼、他に好きな子がいるもん」
「なんだって!? おめぇより良い女がこの世にいるってのか!?」
「あたしはあたしの方がその子よりも良い女だと思ってるよ」と晴香は優里を思い浮かべて言った。「でも彼にとってはそうじゃないみたい」
「まったく。何考えてんのかよくわからん野郎だぜ。今度会ったら、しばき倒してやっかな?」
「エージ。そういうところだよ。あたしに振り向いてもらえないのは」
そう言って晴香は、それでは、と自問する。それでは、あたしが悠介に振り向いてもらえないのは、いったい、どういうところが原因なのだろう?
まだまだアタックが弱いのかもしれない。目的のためなら手段を選ばない。誰かがそう言っていた。あたしにもそれくらいの覚悟が必要なのかもしれない。そろそろ。




