第101話 その顔を見ればきっと名前くらい尋ねてしまう 2
《♣悠介》
家に一人でいたってヤラシイことを考えるだけなんだから、うちのお好み焼きを食べて精をつけなさい。
そう言う柏木に家からほぼ強制的に連れ出され、俺は“鉄板焼かしわ”に来ていた。ヤラシイ想像をさせたくないのに精をつけさせるのは矛盾しているように思えたが、黙ってお言葉に甘えることにした。
店はちょうど三時から五時のいわゆる“中休み中”で、柏木の叔母のいずみさんは買い出しに出ていた。柏木が厨房でお好み焼きの準備をしてくれているあいだ、俺は二人がけの席に座っておとなしく待っていた。
店内のよそおいが以前と大きく変わっているのは、すぐにわかった。がやがやしたワイドショーやらバラエティを垂れ流していたテレビが撤去され、その代わりに値の張りそうなごっついスピーカーが設置されている。そこからはエルガーの『愛の挨拶』が流れていた。
「クラシックをかけるようになったんだな?」と俺は厨房の柏木に声をかけてみた。「なんでだ?」
「ああ、それはね、いずみ叔母さんが妊娠したから」
「妊娠!?」
「二ヶ月なの」姪はこともなげに言う。「叔母さん、『クラシックが胎教に良い』ってお客さんから聞いて、すっかりその気になっちゃって」
「それはそれは」ここに来るといつも何かに驚かされる。もし将来的にこの店を継いだら、退屈だけはしないだろう。
お好み焼きは柏木が焼いてくれた。豚肉、牛すじ、いか、ほたて、チーズ――などなど計八種の具材がふんだんに入ったかしわスペシャル。それほど腹は減っていなかったが、目の前の鉄板から立ちのぼる香ばしいソースの匂いは、否応なく食欲を刺激した。
かしわスペシャルが焼き上がると、柏木はステンレスのヘラを器用に使ってそれを六等分し、そのうち一切れを皿に取り分けた。そしてそのまま自分の口に運んだ。
俺は椅子からずり落ちそうになる。「おまえが食べるのかよ!」
「作ってたらつい食べたくなっちゃって」柏木は二口目を頬張った。「まぁいいじゃない。お好み焼きならうちには売るほどあるんだから。いくらでも焼いてあげるっての」
結局俺はかしわスペシャルを一枚いただき、柏木は二枚平らげた。柏木の方が精をつけてどうするのかという疑問はさておき、それはとんでもなくうまいお好み焼きだった。
何はともあれ、心臓の持病は落ち着いているようで、その点は安心してよかった。
柏木は向かいの席で満足そうに腹をさすってから、思い出したように口を開いた。
「そうそう。きのうの放課後、学校で作戦会議を開いたの。あたしと優里と月島と葉山君の四人で。そこで話し合った内容を、悠介も知っておいた方がいいよね?」
知っておいた方がよかった。「頼む」
「結論から言っちゃうと、どうすれば悠介を高校に戻せるか、これだっていう名案は出なかったんだ。ごめんね」
「謝ることはない」俺からすれば、感謝しかない。
「ただね」と柏木は言った。「優里だけは、なにか考えがあるみたいなの」
「考え?」
「それがさ、くわしいことは今は話せないらしくて。とにかく『考えがある』とだけ。優里はこうも言ってた。うまくいくとは限らないけど、私はこの方法に賭けてみるって」
俺は聞いているしるしにうなずいた。
「そんなわけで、優里以外のあたしたちも、それぞれできることをやっていこうって議決して、会議は終わったんだ」
「なるほど」と俺は言った。「それにしても、なんだろうな、高瀬の考えって?」
想像もつかない、というように柏木は手を振った。そして訝しそうに眉をひそめた。
「ここ何日か、なんだか優里の様子がおかしいんだよね。悠介を探しに行く日なんか、前日までは誰より張り切っていたのに、朝になってドタキャンするし。きのうだって、目のまわりを真っ赤にして会議に来るし。まるで直前まで泣きじゃくっていたみたいに。優里は花粉症がひどくてって言うけど、フツーこんな秋に花粉症になんかなる?」
たぶんならない。それにだいたい、彼女が花粉症で悩んでいるなんて話は聞いたことがない。
ひょっとして高瀬に何か起こったのだろうか? それもあまり好ましくない種類のことが。ひとしきり考えてみたけれど、思い当たる節はなかった。
そこで例のごっついスピーカーから、耳馴染みのある曲が聞こえてきた。母・有希子が好きでよく聴いていた曲だ。俺は気づけばピアノの音色に合わせてハミングしていた。
「知ってる曲?」と柏木は言った。
俺はうなずいた。「『亡き王女のためのパヴァーヌ』って曲だよ」
「ぱばーぬ」彼女は舌を噛みそうになる。スピーカーを恨めしそうに睨む。「興味ないや」
「それじゃ興味が出そうな話をしてやろうか」と俺は興味本位で言った。「この曲を作ったラヴェルって人は、不幸にも事故で記憶障害になっちまうんだ。それである時たまたまこの曲を聴いて、こう尋ねるんだ。『美しい曲ですね。なんていう曲ですか?』って。自分で作った曲なのに。どうだ? おもしろいだろ?」
「ぱばーぬ」柏木は腕を組んで唸った。「ごめん、興味ないや」
「そうかい」
「でもさ、悠介がクラシックの難しい曲名を知ってたり、うんちくを語れるなんて、すっごく意外なんだけど。なんかさ、そういう悠介もいいね。ステキ。惚れ直しちゃった」
「やめてくれ」俺は照れる。「たいしたことない。母親の影響なんだよ。クラシック以外は音楽とは認めない偏屈な人間と生まれた時から一緒に暮らしてみろ。誰だって嫌でも詳しくなるから」
「ぱばーぬ」と柏木は相変わらず興味なさそうに言った。それからはっとして手を叩いた。「いっけない。大事なことを話し忘れてた。ぱばーぬだのらべーるだのはどうでもいいの。あたしたち庶民は芸術より労働。ねぇ悠介。この店でバイトしない?」
「バイト? また急だな」
「ほら、いずみ叔母さんが妊娠したって言ったじゃない? これからお腹もぐんぐん大きくなってくるし、定期的に産科に通う必要もあるから、バイトの人を雇おうかってちょうど二人で話してたの。悠介は学校だけじゃなく居酒屋のバイトまで辞めさせられたんでしょう? 家でゴロゴロしているよりはうちで働いた方が良いと思うけどな。ちなみに、ゴージャスなまかないつきだよ。なんと、このお好み焼き、食べ放題!」
なにも俺は家でゴロゴロしているつもりはなかった。高校に戻るため、自分なりにアクションを起こすつもりだった。そこまで他力本願な男じゃない。
いずれにせよ柏木の提案は悪い話じゃないように思えた。アクションを起こすと言ってもまだ具体的にどう動くか決まっていないし、それに金も稼ぎたい。社会とのつながりを取り戻したい。なによりまかないが魅力的だ。食べ放題。俺は椅子の上で襟を正した。
「それじゃ、世話になろうかな」
「うん、採用」
♯ ♯ ♯
明日からバイトとして働くことに決まって“鉄板焼かしわ”をあとにした俺は、一人で家路についていた。秋風の吹く陽の落ちかけた街では、心なしか人々が肩を寄せて歩いているように思えた。
そのうち俺はふと久々にスマホを見てみようと思い立った。高校から退学処分を受けて以来、なんだか見るのが怖くてずっと放ったらかしていた。でも今なら見る勇気がある。なぜだろう? かしわスペシャルで精がついたからかもしれない。
俺はスマホをポケットから取り出すと、いくぶん緊張しつつも画面に目を落とした。そこにはやはりおびただしい数の通知があった。着信通知があり、メッセージ通知があった。俺は立ち止まってそのひとつひとつに目を通した。メッセージの趣旨はどれも俺を案じるものだった。
発信者の欄には柏木、月島、太陽の名はもちろん、元担任の篠田先生、それから俺のファンを公言する変人の湯川君の名前もあった。藤堂アリスの名前さえあった。なかでももっとも多く目に留まったのは、「高瀬優里」の名前だった。彼女がもっとも俺を気遣い、もっともまめに連絡をくれていた。
高瀬に会いたいな、と俺は思った。考えてみればもう二週間近く彼女の顔を見ていない。今から会えないかな、と俺は高瀬にメッセージを送ってみた。
返信はなかなか来なかった。10分待っても来なかった。15分待っても来なかった。とはいえ俺には待ちくたびれてイラついたり、ましてや相手を責める権利はなかった。高瀬はもっとずっと長いあいだ俺からの返信を待ち続けていたのだから。20分経ったところで、スマホがメッセージを受信した。
〈会うのはちょっと難しい〉
ならば仕方ない。声を聞くだけで我慢しよう。電話で話せないかな、と俺は送信した。
〈電話もちょっと難しい〉
ならば仕方ない。文字のやりとりで我慢しよう。
〈ごめんね〉と高瀬は続けた。
〈謝らなきゃいけないのはこっちの方だよ〉と俺は反省して返した。〈連絡に応じなかったり、黙って行方をくらましたり、余計な心配をかけたり。なんか、いろいろと、ごめん〉
長文でたしなめられることも覚悟したが、返ってきたのは〈無事でよかった〉という短文だけだった。
〈ひとつ聞かせてね〉と高瀬は俺に拍子抜けする間も与えず続けた。〈神沢君は、高校に戻れるなら、戻りたいんだよね?〉
戻りたいに決まっていた。〈戻りたいに決まってるだろ〉と俺はスマホに打ち込んだ。
〈二人で一緒に大学に行く。そう約束したじゃないか。高瀬も知ってるように、俺の夢は高校に来るまではずっと大学に行くことだった。でも高校で高瀬と出会って夢が変わった。今の俺の夢は、高瀬と一緒に大学に行くことだ。俺はその夢を諦めていない〉
またしても返信はなかなか来なかった。俺は何かまずいことでも言っただろうか?
しばらくしてようやく新しいメッセージが届いた。
〈神沢君。私……〉
私?
〈あのね……〉
あのね?
〈ううん、やっぱりなんでもない。ごめんね〉
結局そのままメッセージのやりとりは終わった。俺は思わず天を仰いでため息をついた。
柏木の言っていた通りだ。高瀬の様子がどこかおかしい。文字だけとはいえ、機械越しとはいえ、二週間ぶりにコミュニケーションを交わしたというのに、あまりにも素っ気ない。まるで彼女のなかで大事な何かが消えてしまったかのようだ。何かの光が。
おかしいことといえば、もう一つあった。俺の耳では先ほどからずっと、『亡き王女のためのパヴァーヌ』が流れていた。繰り返し繰り返し、何度も。
普段はそんなこと、滅多にないのに。




