第101話 その顔を見ればきっと名前くらい尋ねてしまう 1
《♦涼》
その日の放課後、涼は優里の待つ音楽室へと向かっていた。悠介を連れ戻す旅から帰ってきて三日が経っていた。
一人だけ旅に同行しなかった優里への報告も兼ねて、晴香と太陽も含めた四人での作戦会議が30分後に開かれるのだが、「その前にどうしても月島さんとふたりきりで会って話がしたい」と優里本人から直々に申し入れがあった。優里とはそれなりに長い付き合いになるけれど、こんなことは初めてだった。
ふたりきりの話? と思って涼は首をかしげた。
なんの話だろう? もしかして、優里が旅をドタキャンした理由はゴルフボール大のイボ痔が出たからだと嘘をついたのが彼女の耳に入ったのだろうか? そうかもしれない。その下品な嘘が心に一点の汚れもない清楚なお嬢様の逆鱗に触れたのかもしれない。
せめてピンポン玉にしときゃよかったぜ、と涼が後悔しながら廊下を進んでいると、そのうちピアノの音色を耳が拾った。それは音楽室から聞こえていた。さてはお嬢様が弾いているね。そう思ってドアの窓から室内を覗いてみれば、やはりピアノの前には優里の後ろ姿があった。
待ち合わせた時間まではまだ5分ほどあった。ちょっぴり早く着いてしまったらしい。涼は静かにドアを開けて音楽室に忍び込むように入ると、壁にもたれかかってピアノの旋律に耳をすました。
それはしっとりとした繊細なメロディが印象的な、どこか物悲しい曲だった。はかなく、せつなく、わびしい。しかし不思議なことに、神経を研ぎすまして聴いていると、心が癒やされていくような感覚があった。
はかなさの中にも明るさがあった。せつなさの中にも優しさがあった。わびしさの中にも温かさがあった。その曲は涼に、真っ暗な部屋からかすかな希望を持って月を見上げる少女の姿を連想させた。
なんて曲だろう? 個人的にはとても好きな曲だ。クラシックだということはかろうじてわかる。でも曲名も作曲者名もわからない。涼は現代洋楽なら好んで聴くが、クラシック音楽にはまったく通じていなかった。
それにしても、と涼は優里を見て唸った。それにしても、背筋をぴんと伸ばし、鍵盤上で軽やかに指を躍らせるその後ろ姿は、とても絵になっている。なんというか、ザ・ヒロインというような風格がある。私がピアノを弾いたってああはならない。お遊戯会だ。悔しいが、とにかく絵になっている。同性ながら惚れぼれしてしまう。こりゃあゆう君が首ったけになるのも無理はないな。そう思ったところで、曲は終了した。
「ブラボー」涼は拍手で演奏をたたえた。
優里は椅子の上で悲鳴をあげて仰け反った。「月島さん! いつからいたの!? ていうか、いたなら言ってよ、もう……」
涼は両手を合わせながら優里の元へ歩み寄った。
「あまりにすばらしい演奏だったから、つい聞き入ってしまって。素敵な曲だね」
「わりと有名な曲だから、月島さんも名前くらいは知ってるでしょ?」
「もちろん」と涼は後先考えず答えてしまった。「えーと、うーんと……。ああ、ど忘れしちゃった」
「亡き王女のためのパヴァーヌ」
「そうそう、泣く王女のためのマドレーヌ」
「ちなみに、誰の曲かも知ってるよね?」
「ごめん、知ったかぶった」
「ごめん、わかってて聞いた」優里はいたずらっぽく笑った。「ラヴェル。近代を代表する天才作曲家」
涼は楽譜を拝借した。そしてラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』と頭にたたき込んだ。家に帰ったら、ネットで調べてもう一度聴いてみよう。
「この曲にはおもしろい逸話があってね」と優里は言った。「ラヴェルは晩年、言葉もうまく喋れないほどのひどい記憶障害になっちゃうんだけど、この曲を聴いてこう尋ねたそうなの。『美しい曲だね。誰が作ったなんていう名前の曲なんだい?』って」
「自分の曲なのに」
「そう。記憶は失っても、ラヴェルの心のどこかには、この曲への想いが生きていたんだろうね。そんなエピソードも含めて、とても好きな曲なんだ」
涼は楽譜を返し、時計を見た。ちょうど待ち合わせた時間になっていた。
「クラシック談義に花を咲かせるのも悪くないけど、そろそろ本題に入ろうよ。この後の作戦会議に遅刻なんかしてごらんなさい。やかましいのが黙ってない」
晴香のことだね、と普段なら苦笑交じりに返してくるはずなのに、優里は眉ひとつ動かさず黙って椅子から立ち上がった。そしていつになく重い足取りで窓際まで進んだ。彼女はそこで立ち止まったきり、しばらく何も喋らなかった。下品な嘘が理由でここに呼び出されたわけではないのは、その気高い背中を見ればわかった。やがて優里は口を開いた。
「私、神沢君との未来をあきらめる」
並大抵のことでは驚かない涼も、さすがに耳を疑った。しかし優里はたしかにそう言った。彼女の言い間違いでもなければ、私の聞き間違いでもない。涼はすぐに頭を働かせた。
ゆう君が退学処分を受けたこと。その退学にトカイが関与していること。彼を連れ戻す旅に優里が来なかったこと。それらも併せて考えると、ある一つの可能性に思い当たった。
「ねぇ高瀬さん」と涼はその背中に声をかけた。「ひょっとして、トカイからなにか取引みたいなものでも持ちかけられてる?」
優里はゆっくり振り向いた。「さすが月島さんだね。鋭い」
「神沢の退学に関する取引でしょ?」
優里はうなずいた。「神沢君を高校に戻したければ、『あること』をするよう、トカイから要求されてる」
「あること?」
「あること、としか言えない。ごめん。あまりくわしくは話せないの。神沢君本人の耳に入った時点でこの取引は破談だから。でも鋭い月島さんなら、どんなことか、なんとなくわかるよね?」
涼はなんとなくわかった。とにかくそれは、彼との未来をあきらめなきゃいけないようなことだ。彼女はよほどのことを要求されている。涼はわかったしるしにうなずいた。
優里もうなずいた。
「理不尽な要求だよ。不公平な取引だよ。だってそもそも神沢君を退学させたのはトカイなんだから……。絶対にうまくいくとは限らない。トカイが約束を守るとは限らない。それでも私は、この取引に応じようと思う。理不尽でも不公平でも、現実を考えれば、それが神沢君のために私ができる唯一のことだもの。彼を高校に戻すのと引き換えに、私は彼との未来をあきらめる」
「本当にそれでいいの……と言いたいところだけど、どうやら決意は固いようだね」
「こう見えても私、けっこう頑固だから」
「でもよくわからないな」と涼は正直に言った。「高瀬さんがとってもつらい決断を下したということはわかった。でも、どうしてそれを私に打ち明けるんだろう? 私一人だけに?」
優里は涼の方に歩み寄ってきた。「私はね、神沢君が私以外の人と一緒になるのなら、晴香じゃなく、月島さんを選んでほしいと思ってるの」
「ほう?」その心は?
「月島さんはもし神沢君と一緒になったら、彼を東京の実家に連れていくんでしょう?」
「でしょうね」と涼は答えた。「うちのせんべい屋を継いでもらうことになるでしょうね」
「だよね」と優里は言った。「でももし神沢君が晴香と一緒になったら、彼はこの街に留まり続けることになるでしょう?」
「でしょうね」と涼は答えた。「柏木の店を居酒屋に改装して、二人で切り盛りすることになるでしょうね」
「だよね」と優里は言った。そして一度深呼吸した。「私はこのままいけば鳥海慶一郎と結婚する。トカイの社長夫人として、この街で一生過ごすことになる。うん、別にいいよ。それでタカセヤが――この街の多くの人が――救われるんだから。そのためのいけにえになる覚悟はある。でもね月島さん。私はね、いけにえとして生きるのなら――神沢君と同じ道を歩まないのなら――彼と再会するわけにはいかないの。だってもしこの街のどこかでばったり会ったりなんかしたら、間違いなく私の胸は震えてしまう。一度決めた覚悟が揺らいでしまう。もしその時私が記憶を失っていたとしても、その顔を見ればきっと名前くらい尋ねてしまう」
なんだか聞いたことのある話だな、と涼は思った。すぐにピンときた。ついさっき聞いたばかりだった。
「昔々どこかにいた天才作曲家のように」
優里ははっとした。そして照れ臭そうに苦笑いした。「ぜんぜん意図してなかったけど、言われてみればそうだね。自分の作った曲の名前を尋ねた晩年のラヴェルみたいだね」
「つまり高瀬さんの心のどこかでは、神沢への想いが生き続けているわけだ」
「と、とにかく、神沢君には、どこか遠いところへ行ってほしいの。二度と会わなくて済む、すごく遠いところへ」
「たとえば、東京都墨田区亀沢にある老舗せんべい店とかだね?」
優里は深くうなずいた。
「そういうわけで、私はこれから月島さんを応援しようと思ってる。月島さんの恋を。でも何の説明もなしに応援すれば、なにか裏があるんじゃないかって勘繰られちゃう。だからこうして月島さんにだけは事情を打ち明けることにしたの」
涼はいろんなことが腑に落ちたが、ひとつだけ疑問が残った。
「もし神沢がうちの店を継ぐなら、別に学歴なんかいらないんだよ? だからなにも無理してトカイの理不尽な要求をのまなくたっていいのに」
「それとこれとは話が別」と優里は即答した。「神沢君がどれだけの思いを持ってこの進学校に進んできたのか、私が説明するまでもなく、中学時代から彼を知ってる月島さんならよくわかってるでしょう? 神沢君にとってこの高校は夢であり希望なの。そんな高校を彼が私のせいで卒業できないなんて、私が許せると思う?」
「頑固な人だ」と涼は思わずつぶやいた。
大事な話はすべて終わったようだ。涼は軽く背伸びをして一度深呼吸した。すると目の前の頑固なお嬢様に対して、これまで抱いたことのない感情が芽生えているのを感じた。それで涼はちょっと驚いた。
「ねぇ高瀬さん。私たち、なんで同じ男を好きになっちゃったんだろうね? もっと違うかたちで知り合っていたら、きっとそこそこ良い友達になれたよね?」
「えっ?」優里はきょとんとした。「私たち、今まで友達じゃなかったの?」
「えっ?」今度は涼がきょとんとした。「私のこと、友達だと思ってくれていたの?」
「違うの?」
やっちまった、と涼は思った。慌てて言葉を取り繕う。「ああっ! なんかゴメン! その、違うの。いや、違うっていっても友達じゃないって意味じゃなく。あれ? どっちだ? 私は何を言ってんだ? ええと、どうすればいいでござるか……」
めずらしく取り乱す涼がよほど可笑しかったのか、優里はくすくす笑い始めた。
「いいよいいよ。そういうところが月島さんのいいところだよ。飾らないところ」
どうやらそれは嫌味ではないようだった。涼はほっとして笑い始めた。すると優里の笑い声はいっそう大きくなった。二人はひとしきり笑い合った。その後で優里の目から何かがこぼれ落ちた。それは涙だった。涼はいつでも笑うのをやめる準備ができていた。だからすぐに彼女の肩を優しく撫でた。
「つらいよな」
「つらいよ」
「苦しいよな」
「苦しいよ」
「私だって高瀬さんと同じ立場だったら泣くよ」
「ちょっと胸を貸してね」と優里は声にならない声で言って、胸に顔を埋めてきた。
涼は優里が泣きやむまで、その震える体を抱きしめることにした。涙が止まるまで、どれだけ長く時間がかかっても。




