第100話 招待状はもうすでに出されています 3
《♥優里》
曇り空の下、優里は椿原笑に「戻してよ!」と食ってかかった。「神沢君を高校に戻してよ!」
「それでは花嫁」とトカイの女秘書は言った。「一つ条件があります。この条件をクリアできたなら、彼を高校に戻して差し上げましょう」
「条件?」
「ええ。パイとチーズとぶどう酒の入ったバスケットを携えて、森の奥深くに住んでいる病気のおばあさんのところへお見舞いに行ってほしいのです」
「ずいぶん簡単な条件じゃない」
「そうとは限りませんよ。油断は禁物です。なにしろ森には、悪い狼が潜んでいますから――」
「くだらない冗談はそれくらいにして」と優里は茶番に付き合いきれず言った。「さっさと話してよ。本当の条件を」
椿原はかすかな笑みを浮かべた。そしてすぐにいつもの能面に戻り、こう告げた。
「『一緒の未来を目指すことはできない』。神沢悠介からその言葉を引き出してください。それが彼を復学させる、ただひとつの条件です」
最初に“条件”という言葉が椿原の口から出た時点で、優里にはそれがそんなに生易しいものではないことくらいわかっていた。
しかし。しかし、ここまで厳しい条件だとは……。
「インチキはダメですよ」と椿原は釘を刺すように続けた。「たとえば神沢悠介にかくがくしかじかで、と事情を打ち明けて、それを言ってもらうなんてのはもってのほかです。そんなことをしたら、悪い狼が出てきます。求められるのは、空疎なセリフではなく心から出た言葉なのです。よいですね? まぁ……花嫁にかぎって、まさかそんなくだらない冗談みたいな真似はなさらないと思いますが」
一緒の未来を目指すことはできない、と優里は無意識に口に出していた。それを悠介に言われるのを想像すると、目の前が真っ暗になった。
それを、とどうにか声を絞り出す。「それを、私が彼に言うんじゃ、だめなの?」
「花嫁、心からその言葉が出るのですか?」
「出るわけないじゃない」
「ではだめです」と椿原は断じた。「私どもの調査によれば、神沢悠介は聡明ではなくとも決して馬鹿ではない。それがあなたの本音ではないということくらい気づきます。誰かに言わされているということくらいわかります。別れは彼が切り出す必要があるのです」
優里は歯を食いしばったまま、何も言えなかった。九歳年上の椿原は大人の貫禄を見せつけるように、澄ました顔で続けた。
「タカセヤとトカイの婚姻は実行されます。私がさせます。ただ……万が一妨げるものがあるとすれば、それは神沢悠介の存在です。いいえ、もっと踏み込んだ言い方をすれば、彼の中にある、なんとしてもあなたと一緒の未来を目指すという想いです。針の先ほどの小さな可能性です。しかし、その可能性を侮った結果、気づけば喉元に針先が突きつけられているということもあり得ます。そうなる前に打ち砕かねばなりません。彼のその想いを」
「なるほどね」と優里は一連の出来事を思い出して言った。「はじめからこの取引を私に持ちかけるつもりで、神沢君を退学に追いやったってわけ」
「彼を退学させた理由は主に三つありました。一つは彼に警告を与えること。二つ目はあなたとの物理的な距離をとらせること。そして三つ目は――さすが花嫁です」
「有能な秘書さんね」と優里は皮肉を込めて言った。
「すみません花嫁」と椿原は言った。「私の立場もご理解ください。来年3月1日の披露宴をつつがなく成功させる。それが私に与えられた役割なのです。今の私は第二秘書という立場です。慶一郎様のスマートフォンに触れることすら許されてはいません。第一秘書になるため、役割をこなし、実績を積み上げなければいけないのです」
「それにしても、あまりにもやり方が汚い」
「私は目的のためなら手段は選ばないのです」椿原は決まり文句を口にすると、優里の肩に手を置いた。「神沢悠介が再び高校に戻るか否かはあなたの選択次第です。さぁどうします、花嫁?」
♯ ♯ ♯
夜になり、優里は自宅の私室で椿原の提案について考えていた。夕食は好物のマカロニグラタンだったが、ほとんど喉を通らなかった。明日は悠介を探す旅に出るのだが、その準備にも手がつかなかった。部屋の電気はつけず、タンクトップとショーツだけを身にまとい、ベッドに寝転がっている。
優里は結局、椿原への回答を保留して家に帰ってきた。こんな馬鹿げた提案は受け入れられない、と肩に手を置かれた時点では言い捨ててやるつもりでいたのだが、それができなかった。なぜなら悠介の顔を思い出してしまったからだ。大学に行くのが俺の夢なんだ、と目を輝かせて語っていた、いつかの悠介の顔を。
どうしよう? と優里はベッドの上で熟考した。
提案をのめば、彼の夢はかろうじてつながる。
提案を拒めば、彼の夢はほぼ完全に絶たれる。
提案をのめば、彼とまた学校で会える。
提案を拒めば、彼ともう学校で会えない。
でも提案をのむということは……。
ねぇ神沢君。私はどうしたらいいんだろう?
優里がベッドの上でふと身を起こすと、視界の隅に指輪が映った。去年のちょうど今頃、修学旅行で行った京都で悠介から贈られたものだ。偽物のダイヤのついた安物の指輪。でも本物の希望を与えてくれた宝物の指輪。
なんだか私が与えられてばっかりだな、と優里は思った。ヒカリゴケの洞窟の約束に始まり、希望の指輪、翻訳家になるという夢だってそうだ。それから夏の一夜の思い出だって。数えればきりがない。それにひきかえ、私は神沢君に何かを与えられただろうか? 何か――。
そこで優里の耳に、昼間の椿原の声がよみがえった。
『神沢悠介はあなたのせいでやめなくてもいい高校をやめ、やめなくてもいいアルバイトをやめ、諦めなくてもいい夢を諦めたのです。あなたが彼の未来を奪ったのです、花嫁』
違いない。悔しいが、あの女秘書の言う通りかもしれない。
私は彼に何かを与えるどころかむしろ、彼から奪っているんじゃないだろうか? それもとても大切なものを。
♯ ♯ ♯
結局答えは出ずに夜は明け、悠介を探しに行く朝を迎えた。
晴香や涼たちとはバスターミナルで待ち合わせていたが、そこへ向かう前に優里は一人で高校へ足を運んだ。目的はただ一つ。心に生じた迷いを、すべての始まりであるヒカリゴケの光に断ち切ってもらうために。
出発する前にどうしても迷いを消し去っておきたかった。どこにいるかはわからないけれど、神沢君は今、いくつもの不安を抱えているに間違いない。私の迷っている顔を見たりなんかしたら、さらに不安を増やしてしまう。
連休初日ではあるけれど、部活をする生徒のために校門は開かれていた。旅行バッグを肩にかけた優里は校内に入ると、スニーカーから上靴に履き替え、そのままヒカリゴケを飾ってある実習棟三階の旧手芸部室へ向かった。
途中、友人とは言えないまでも顔見知り程度の女子と何人かすれ違った。彼女たちはもれなく肩の旅行バッグに目を留めた。そのうちの一人は茶化すようにこう言った。「え、なになに? これからカレシと旅行デートでも行くの?」
優里は作り笑いを浮かべるのが精一杯だった。「そうだといいんだけどね」
本当にそうだといいんだけどね、と思いながら校舎を進み、優里は旧手芸部室のドアに手をかけた。そして無人の室内に入った。
これまでと様子が違うということは、瞬時にわかった。何度となく見てきた光景だ。迷いがあるときはいつもここに来て、答えを得ていたから。
ヒカリゴケから、輝きが消えていた。優里の肩から、バッグが落ちた。
優里は棚に駆け寄り、ヒカリゴケの入ったシャーレを手にとった。そして日光に当ててみた。逆にカーテンを閉めてみた。でもだめだった。もう一度カーテンを開けてもやはりだめだった。光は戻らなかった。どうしてだろう? わからない。とにかく、永遠に光り続けるはずの奇跡のヒカリゴケは、輝きを放つことをやめてしまった。
優里の中で、何かが音をたてて崩れた。
彼女はそのまま立ち尽くしていた。どれだけ時間が過ぎたかわからない。グラウンドでは「カレシと旅行デートでも行くの?」と茶化してきた女子が元気にサッカーボールを追いかけ回していた。
やがてスマートフォンが着信を知らせ、優里はそれに応じた。電話をかけてきたのは、涼だった。
「ねぇ高瀬さん。今どこにいるの? もうバスが出る時間だよ?」
『あなたが彼の未来を奪ったのです、花嫁』という椿原の声が頭の中で響いた。
「ごめん月島さん」と優里は言った。「私、行けないや」




