第100話 招待状はもうすでに出されています 2
《♣悠介》
「あんれまぁ、お兄ちゃん。高校さ、辞めてきたって言うのかい」
見たこともない配色のバスを朝から三本乗り継いで着いたのは、聞いたこともない名前の村だった。三本目のバスに乗る際に、重そうな荷物を持ってあげたのがきっかけで、俺はこの村で牧場を営んでいるというばあさんとすっかり仲良くなった。どれくらいかというと、高校を退学したことを話せるくらいには。それを打ち明けるとばあさんは、隣の席から心配そうにこちらの顔を見てきた。
「なして高校さ辞めてしまったのさ?」
辞めさせられたんだ、とは格好が悪くて言えなかった。仕方なく、嘘をつく。
「おばあちゃんね、俺は気づいちゃったんだよ。窮屈な制服を着て、狭っ苦しい教室で、自分を偽って、教師の顔色をうかがいながら生きるのは性に合わないって。そんなのは、なにか違うなって」
「そしたら、あれかい」とばあさんは得意顔で言った。「これはお兄ちゃんの“自分探しの旅”ってやつなのかい?」
「ま、まぁ、そんなところかな」まずいな、と俺は思った。このままだと嘘に嘘を重ねることになる。取り返しのつかないことになる前に、話題を変えることにした。
「それにしても、いいところだね」と俺は窓の外を眺めて言った。「このバスに乗ってからずっと風景が変わらない。青い空と白い雲と緑の大地。コンビニもタピオカ屋も行列ができているラーメン屋もない。こういう場所に俺は来たかったんだよ」
「若い人には退屈なところだよ? なんせ人より牛の方が多い村なんだから」
「それがいいんじゃないの」見てみれば、バスの中にも数えるほどしか乗客はいなかった。さすがに牛は乗っていない。
「お兄ちゃん、あんた、どこから来たのさ?」
隠すこともないので、俺は正直に生まれ育った街を答えた。
「あんれまぁ、大きいところでないの」
俺は寂れた中心街を思い出して手を振った。「20万人いるかいないかのイナカですよ」
「千人いるかいないかのこの村からしたら、立派なトカイだよ」
俺はぎこちない笑みを浮かべた。トカイ。それは今この世界で最も聞きたくない三文字の言葉だった。「コロス」より「ノロウ」より聞きたくなかった。もちろんばあさんは「都会」のつもりで言ったのだろうが、俺はどうしても「鳥海」の方を思い浮かべてしまった。
「そうだお兄ちゃん、トカイの生活は――」
「あのねおばあちゃん」と俺は言葉を遮った。「トカイの話はよそう。ね?」
「どうしてだい?」
「ごめんね。実は俺さ、“トカイ”っていう言葉を聞くとお腹が痛くなっちゃう病気なんだ」
「あんれまぁ。初耳だぁ。トカイにはそんな珍しい病気があるんだねぇ。トカイはおっかないところだねぇ」
嘘をついた罰だろうか。なんだか本当に腹が痛くなってきた。
バスが停留所に止まって新しい乗客が乗り込んでくるたび、彼らはまるで肌の色の違う異国人を見るような目つきで俺を見た。でもそれはまさに俺が求めていた視線だった。
自分のことを知る人間が一人としていないところ。そんな場所を目指して朝四時に起きて旅に出たのだった。ここがいいな、と俺は思った。気に入った。この村に何日か留まるとしよう。俺はそれをさっそくばあさんに話した。
「どこか泊まるあてはあるのかい?」
いいえ、と俺は答えた。
「それはだめだ。自分探しの前に寝床探しだよ、お兄ちゃん」
はい、と俺は答えた。
そうだ、とばあさんは何かを思いついたように手を叩いた。「うちの牧場の仕事を手伝わないかい? 寝床とご飯とお風呂は用意してあげられるよ」
それは願ってもない申し出だった。「いいんですか?」
「ちょうど働き手が欲しかったところなんだ」とばあさんは嬉しそうに言った。「それに、お兄ちゃんをうちの孫娘に会わせてやりたいんだよ。孫はえらい面食いでねぇ。村の粗野な男どもには見向きもしないんだ」
「やめてくださいよ。俺だって別に格好良くはないですよ」
「いやいや、あんた、なかなかの色男だよ。さすがトカイの男は違うわ」
俺はぎこちない笑みを浮かべることしかできない。ばあさん、まさかトカイの回し者じゃないよね。そう勘繰りたくもなる。
♯ ♯ ♯
かくして俺は自分探し中の若者として、最果てみたいな村にある牧場に住み込みで働くこととなった。
朝まだ暗いうちに起きて牛に餌をやり、牛の乳を搾る。昼前に牛を放牧し、牛舎の掃除をする。夕方になると牛を牛舎に戻し、また餌をやり、また乳を搾る。
そんな牛づくしの生活もなかなか悪くなかった。少なくとも進学やらバイトやらトカイやら“未来の君”のことやらは考えずに済んだ。それくらい牧場の仕事は多忙だった。いったいどんな物好きが朝五時に牛の乳を搾りながら偏差値について真剣に考えるだろう?
とにかくそんな風にして、あっという間に数日が過ぎた。
仕事のやり方をつきっきりで俺に教えてくれたのは、孫娘の風子さんだ。今年の春に高校を卒業したばかりの19歳。極度の近眼らしく、いつも度の強い丸眼鏡をかけていた。
学年がひとつしか違わないというのもあって、俺たちはすっかり仲良くなった。どれくらいかというと、互いを風ちゃん、悠ちゃんと呼び合えるくらいには。
今日もいつものように放牧作業を終えた俺と風ちゃんは、広大な牧草地の真ん中で彼女お手製の弁当を食べていた。青空の下、牛の鳴き声をBGMにして。
「なぁ悠ちゃん」と風ちゃんは隣で言った。「お婆ちゃん、バスでうちのことなんか言ってなかった?」
「ううん、特には」
「本当?」
「ああ、そういえば」牛のことで頭がいっぱいで、すぐには思い出せなかった。「面食いって言ってたかな。えらい面食いだって」
風ちゃんは恥ずかしそうにはにかんだ。それから俺の顔を見て、鼻先から何かをとった。それは米粒だった。
「せっかくのイケメンが台無しだよ、悠ちゃん」
「イケメンじゃないって、俺は」
「あのね、この村にはね、若い男の人自体が少ないの。いるのは年寄りばーっかし。悠ちゃんは、うちが今まで会った男の人の中で、一番カッコいいよ」
いったい何人の顔を思い浮かべているのかやや気になるが、そう言われて悪い気はしなかった。
「悠ちゃんはどこの高校に通っていたの?」
多分知らないと思うけど、と前置きしてから俺は正直に答えた。
「鳴桜高校!?」風ちゃんはずれた眼鏡をかけ直した。「知ってる知ってる! うちだって3月まで高校生だったんだから。毎年有名大学に何人も合格者を出しているすごいところだ! あんれまぁ、悠ちゃんはカッコいいだけじゃなく、頭までいいんだなぁ……」
大学の話はできればしないでほしかったが、そう言われて悪い気はしなかった。
風ちゃんは卵焼きを食べかけてため息をついた。
「うちなんか悠ちゃんとは釣り合わないよね。美人じゃないし」
そういえばまじまじと彼女の顔を見たことはなかった。「ちょっと眼鏡をとってみて」
風ちゃんは弁当箱を置いて丸眼鏡を外した。たしかに美人とは言いがたいかもしれないけれど、顔だち自体は比較的整っていた。現在牛に注いでいるエネルギーを化粧やオシャレに傾ければ大化けしそうな気がしないでもなかった。
鼻先のほくろさえなければ好みの顔なのに――と思ったが、それはほくろじゃなかった。黒ごまだった。俺は手を伸ばしてそれをとってやった。
「せっかくのかわいい顔が台無しだよ、風ちゃん」
彼女はぽっと頬を染めた。そしていかにも嬉しそうに笑った。ひとしきりにこにこした後で、何かを決意したように息を吐いた。それから口を開いた。
「あのね悠ちゃん。運命って、信じる?」
牛が鳴いた。「運命?」
「うちな、悠ちゃんの顔を一目見た瞬間、全身に電気が走るのを感じたんだわ。この出会いは、運命だと思うんだわ。だから、だからな、悠ちゃん。ずっとこの村で――」
「ああっ!?」
「な、なにさっ!?」
俺が素っ頓狂な声をあげたのは、視界のはるか先に見えるはずのないものが見えたからだった。それは人だった。三人いる。三人が誰なのか遠くからでもすぐにわかる。親の顔より見た顔だ。
間違いない。前から柏木、太陽、月島の三人だ。
俺は混乱した。なんであいつらがここにいるんだろう? というか、何しに来たんだろう? いや、それはなんとなくわかる。十中八九、俺を探しに来たんだろう。
でもなぜ居場所がわかったんだろう? 俺は旅先を誰かに言った覚えはない。それにだいたい、この村に留まっているのだって、成り行きに任せてのことだ。あらかじめ決めていたわけじゃない。それなのにどうして俺がこの村にいることがわかったんだろう? そして、あのメンバーで来たのなら、どうしてその中に高瀬がいないんだろう?
さっぱりわけがわからなかった。そうこうしている間にも三人はこちらに着実に近づいてきていた。
「風ちゃん、隠れられる場所はないかな?」
「何言ってんのさ。ここは牧草地だ」
俺はあたりを見渡してみた。たしかに木一本生えていない。
「変装ならなんとかなるかも」風ちゃんはそう言って、例の丸眼鏡を俺にかけさせた。さらに髪を七三分けにすると、弁当箱からとった海苔で髭を作り、それを俺の口まわりに貼り付けた。「バッチリ! うちのお父さんにしか見えない!」
俺は魔法瓶の鏡面部分で自分の顔を見てみた。たしかにバッチリだった。戦前の気難しい大蔵大臣にしか見えない。やがて三人がやってきた。
「ねぇおっちゃん」とまずは柏木が気さくに話しかけてきた。「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「なんだね」と俺は、出しうる一番低い声で返した。
「あたしたち、お腹ペコペコでさぁ。もう死にそうなんだよね。この辺にレストランとかないかなぁ?」
俺は腕を組んだ。「見ての通り、ここはなんにもない村だ。そんな小洒落たモンはない」
次に太陽が前に出た。「おっさん。オレもひとつ質問していいっすか?」
「なんだね?」
「この村に最近、外から若い兄ちゃんが来なかった? 17、8くらいの、オレたちとちょうど同じ年くらいの」
俺は首を振った。「見ての通り、ここは人より牛の方が多い村だ。そんなヨソ者が来たら、すぐわかる」
三人は顔を見合わせた。そして月島が無表情で手を挙げた。
「それじゃあ、私から最後の質問」
「なんだね?」と俺は言った。
「おじさんは、本当におじさんなの?」
「ど、どういう意味だね?」
彼女は俺の口髭を牛みたいにむしゃむしゃ食べた。そして言った。
「ねぇ神沢。こんなところで、何やってんの?」
青空の下、牛が鳴く。




