第99話 ここから見える景色は嫌いじゃなかった 4
《♣悠介》
高校生という肩書きを失って何日かが経った。
何日が経ったのかは正確にはわからない。今が何月何日の何時かさえもわからない。わかっているのは夜らしきものを何度か迎えたことと、朝らしきものを何度か迎えたことだけだ。除夜の鐘らしきものは聞こえてこなかったから、いくらなんでも年は越していないだろう。
この何日かのあいだ俺は家中のカーテンを閉めきり、スマートフォンの電源も落とし、一歩も外に出ないで家に引きこもっていた。
顔も洗わなければ、髭も剃らなかった。郵便受けも開けなければ、テレビもつけなかった。マスターベーションすらしなかった。何度か玄関のチャイムが鳴ったがそれにも応答しなかった。水分補給と排泄を別にすれば、俺はただただベッドに横になって、起きているのか寝ているのかもよくわからないまま、時の流れに身を委ねていた。
そんな死人同然の俺をベッドから起こしたのは、身体に染みついた習慣だった。そろそろバイトに行く準備をしなきゃ、と俺は無意識に思った。考えてみれば、金土日の夜は場末の居酒屋で働くようになって、すでに二年半が経っていた。そりゃあ、染みつきもする。
今はきっと金曜日の夕方なんだろうな、と俺は推測した。そしてためしにテレビをつけてみた。案の定金曜日の夕方だけやっているドラマの再放送が映った。退学処分を受けたのはたしか火曜日だった。高校生ではなくなって三日が経っていたらしい。
バイトに行くか、と俺は思い立った。このまま暗い部屋にずっとこもっていたら、体にカビが生えかねない。孤独死しかねない。それに一定の生活費は必要だ。高校生ではなくなったからといって、なにも人生が終わったわけじゃない。あいつの人生終わったな、と言う奴は学校で一人くらいはいるかもしれないけど。
とにかくまずは顔を洗って髭を剃ろう。そう思って俺はベッドから下りて部屋を出た。
♯ ♯ ♯
開店一時間前の居酒屋“握り拳”に入ると、握り拳みたいなゴツゴツした顔のマスターがいつものように料理の仕込みをしていた。しかしいつもとは違って、その動きには精彩がなかった。「考え事をしている暇があったら仕事に集中する!」が信条のマスターにしては珍しく、何か考え事をしているらしい。
おう悠介、とマスターはやはり張りのない声で言った。
「座ってくれ。ちょっと話がある」
どうしたんだろうと思いつつも、俺は言われた通り二人がけのテーブル席に座った。マスターは仕込みを中断すると、重い足取りでカウンターの中から出てきた。そして大小二種類の封筒を手に持って、俺の向かいの席に腰を下ろした。
「あのな、悠介……」マスターは大きい方の封筒から何かを取り出した。それは写真だった。全部で五枚ある。被写体は五枚とも共通していた。鳴桜高校の制服を着た、一人の男子生徒だ。俺は写真から目をそらし――マスターの心中を察し――思わず頭を抱えた。その男子生徒は、他の誰でもなく自分自身だった。
「マスター。この写真、どうしたんですか?」
「三日前だったか。堅っ苦しいスーツを着た25、6歳の若いねぇちゃんが一人で来てよ、置いていきやがったんだ。『未成年の少年を夜遅くまで働かせている。こんなことが明るみに出れば、ちょっと面倒なことになりますよ?』つってな。最初は警察かとも思ったがそうでもない。なんなんだ、あの女は?」
その女の特徴についてくわしく尋ねる気力もなければ意味もなかった。トカイの関係者だろう、まず間違いなく。
「すみません、マスター。大学生だとずっと嘘をついていて」
「今だから打ち明けるが、おまえが高校生だってことは、二年半前に面接に来たその日からわかっていたよ」
「え?」
「大人をあんまりみくびるもんじゃねぇぞ、悠介。高校生と大学生を間違えるほど、おいらの目は節穴じゃねぇよ」
「それじゃ、どうして、雇ってくれたんですか?」
「面接の日におまえがなんて言ったか覚えているか? 『俺の夢を叶えるためにはここで働くしかないんです!』 そりゃあもうゴジラみてぇに口から火を吹くんじゃないかって勢いでそう言ったんだ。その熱意にすっかりほだされてしまってなぁ。おいらも昔は苦学生だった。しょうがねぇから、騙されてやることにしたんだよ」
俺は何も言えなかった。何が言えるだろう?
「ちなみに悠介。その“夢”っつうのは、いったいなんなんだ?」
「大学進学です」
聞いたおいらが馬鹿だった、というようにマスターは握り拳で自分の頬を軽く叩いた。それから写真を一枚手にとって、台本のセリフでも思い出すように頭上の何もない空間を見上げた。
「本当の大学生になれるよう応援したいのはやまやまだが、あいにくうちも客商売だ。この写真を置いていったねぇちゃんの言う通り、おまえを働かせていることが世間に知られたら、面倒なことになる。もし誰にもばれなければ、最後まで騙されてやるつもりだったが、そうもいかなくなった。というわけで悠介。すまんが、今日でクビだ」
俺はうなずくことしかできない。他に何ができるだろう? 不当な解雇だ、といったいどの口が言えるだろう?
マスターは写真を五枚とも破った。そして大きい封筒もろともゴミ箱に投げ捨てた。それから椅子の上で姿勢を正し、小さい方の封筒をゆっくり俺の前に差し出した。
「二年半のあいだ、どうもご苦労さんでした。本当に助かった。今月分の給料だ。少ないけど、色をつけておいた。学費の足しにしてくれ」
♯ ♯ ♯
店の外に出ると、空から雨が降り始めていた。いかにも秋の夜らしい冷たい雨だった。天気予報くらい見てくりゃよかった、と空を見上げて後悔したところで、マスターが傘を持たせてくれた。
返しに来るのは大学生になってからでいい、とマスターは言った。夢が叶った報告のついでに返してくれればいい、と、笑顔で。俺は高校を退学したことを言うべきかどうか迷ったが、その笑顔を見ると結局最後まで言えなかった。
この傘を返しに来ることは、おそらくないんだろう。
傘を打つ雨音を聞きながら俺は夜の街を歩いた。頭に浮かんでくるのは、やはりこれからのことだ。これからいったいどうしたらいいのだろう? 高校生という肩書きを失い、居酒屋のバイトも失った。社会とのつながりというものがなくなってしまった。
学校にも行っていない、働いてもいない、資格もなければ特技もない、ただの17歳。悲しいことにそれが今の俺だ。これからどうしたらいいのだろう?
何も思いつくことができず歩き続けて、踏切の前まで来た、その時だった。線路をはさんだ向かいに立っている人物を見て、俺は思わず傘を落とした。うつむきながら歩いていたせいで、5メートルの距離で対峙するまで、その存在に気づけなかった。
手先と口元以外の全身を覆う黒マント。大事そうに両手で抱えている水晶。忘れもしない。間違いない。“未来の君”の占い師だ。
「ご無沙汰しておりましたな」と占い師は、あの日と同じくしわがれた声で言った。するとそれが合図になったかのように、遮断機のバーが下りて警報器が鳴り始めた。マントの下の素顔をたしかめる――ついでに一発ぶん殴る――絶好の機会だったのだが、まぁいい。電車が通過した後でも遅くはない。
「よう!」と俺は警報器に負けない声で言った。あたりに人影はない。大声を出してもかまわないだろう。「ずっとあんたに会いたかったよ」
「わたくしも、ずっとお会いしとうございました」
「よせよ、気持ち悪い」
占い師は笑ったようだった。肩がいくぶん上下している。
俺は叫んだ。「それで、何の用だ?」
占い師は言った。「あなた様が道に迷っておいでのご様子でしたのでな。今一度道しるべになれればと思い、こうしてお目にかかった次第でございます」
「それはありがたいね」と皮肉っぽく返したけれど、タイミングが絶妙なことだけは、認めてやってよかった。「そういえば、二年半前に道端であんたに呼び止められたのも、バイトの帰りだったな。今とは違って、あの時は希望にあふれていたけれど」
「再会の喜びをわかちあいたいところですが、なにぶん今宵は雨にございます。雨は体に毒ゆえ、そう長くは対顔できませぬ。なにとぞ、ご承知置きを」
「それじゃあさっそく聞かせてくれよ。俺はこれからどうしたらいい?」
「お考えになることです」と占い師は言った。「あなた様がどうしてこのような苦境に陥ったのか。それをお考えになることです。さすれば、おのずと、進むべき道は見えてきましょう」
言われてみれば、その観点で考えたことはなかった。面白くないが俺は考えてみた。答えはすぐに出た。心のどこかでは、考えることを拒んでいたのかもしれない。
高瀬との約束を果たすべく――彼女の政略結婚を阻止すべく、トカイの周辺を嗅ぎ回ったからだ。するとわけのわからん女が現れて、陰でこそこそ動き出した。俺を社会から抹殺するために。そして今に至る。
「なるほどね」と俺は叫んだ。「あんたが言いたいのはつまりこういうことか。俺が“未来の君”――柏木ではなく、高瀬と一緒の未来を約束したから、こんな目に遭っていると」
「あなた様が“未来の君”と手を取り合って生きていく決断をしたならば、少なくともこの未来は訪れなかった。違いますかな?」
悔しいけれど、言い返したいけれど、ぐうの音も出なかった。
占い師は言った。「二年半前のあの夜、希望に溢れたあなた様をなにゆえお呼び止めしたか、おわかりですかな?」
俺は首を振った。
「何を隠そう」と占い師は水晶を大事そうに撫でて言った。「この水晶の中に見えましたのが、こうしてすべてを失い、肩を落として雨の中をとぼとぼ歩くあなた様の姿だったからです。それゆえ、お呼び止めしたのです。そして今宵、再びお目にかかったのです」
「なんだって!?」と俺は叫んだ。「高瀬と未来を約束する前のあの時点で、あんたは俺がこうなることをわかっていたっていうのか!?」
占い師は口元に含みのある笑みを浮かべた。そして言った。
「“未来の君”と手を取り合って生きていくことです。さすれば、道は開けるでしょう」
聞きたいことはまだまだあったが、そこで電車が近づいてきた。俺は急いで声を荒らげた。「おい! “未来の君”っていったいなんなんだ! というか、あんたは何者なんだ! あんたには何が見えているんだ!?」
占い師は何も答えなかった。俺は遮断機をまたごうとした。そこで電車が来たことに気づいて、その場に尻餅をついた。電車と線路のあいだから占い師の足が遠ざかるのが見えた。
十両編成の電車が通り過ぎると、占い師はその姿を消していた。
警報器が止まり、遮断機のバーが上がった。それでも俺は起き上がることができなかった。体にまったく力が入らなかった。傘を手にとることさえできない。とてもじゃないが占い師を追うことなんてできない。
雨が強くなってきた。おまけに無神経な車が水たまりをはねたせいで、泥水が顔に直撃した。こうなる未来も占い師には見えていたのだろうか?
なんだか、いろんなことがもうどうでもよくなってしまった。高校もバイトも大学も未来の君もなにもかも。
俺はふと思い立って給料袋をポケットから出して開けてみた。マスターは少しと言っていたけれど、実際にはだいぶ色をつけてくれていた。
そうだ、旅に出よう、と俺は思った。一人でどこかへ旅立とう。
俺のことを知る人が誰もいないところへ。何も考えなくていい、行ったことのない、どこか遠いところへ。




