第99話 ここから見える景色は嫌いじゃなかった 3
《♦涼》
“ゆう君”が高校から退学処分を受けたという知らせを、月島涼は枕に頭をあずけてこれから眠りにつこうという時に聞いた。まさに寝耳に水だった。それを晴香からスマートフォンで伝え聞き、涼は思わずベッドから飛び上がった。
「なんだとぉぉォォ!?」
もちろんにわかには信じられなかった。悪い冗談か何かだろうと思った。しかしすぐにそんなわけはないと考え直した。なにしろ“ゆう君”が風邪で学校を休んだだけで、校庭に地球外生命体が降り立ったかのように大騒ぎするのが柏木晴香という女だ。彼女にかぎって、そんな悪趣味な冗談を言うはずがなかった。
涼が翌日学校に行ってみると、実際に下駄箱から「神沢悠介」の名前は消え失せ、3年H組から彼の机と椅子が撤去されていた。ロッカーも空になっていた。まるでそんな生徒ははじめから存在していなかったかのように。
悪い夢でも見ているのだと涼は思いたかった。しかしあいにく何度頬を叩いてみても、ベッドから飛び上がって目を覚ますということはなかった。
校内から退学者が出たというニュースは、涼が所属する3年A組でも大きな話題になっていた。居酒屋で夜遅くまでアルバイトをしていたのなら自業自得だという声が生徒のあいだでは支配的だった。悠介に同情的な声はまったくといっていいほど聞こえてこなかった。涼はひそかに舌打ちした。
全国のほとんどの進学校がそうであるように、この鳴桜高校も何の不自由もなく育ってきた良家の子が数多く在籍している。きっとこいつらにはゆう君の苦悩なんて1ミリもわかりやしないのだろう。
言いたい奴は勝手に言ってりゃいいさ。そう思って涼がイヤフォンで雑音を遮断しようとしたところで、近くの席の男子が声をかけてきた。彼もご多分に漏れず、四期目の市議会議員を母にもつ生徒だった。
「おい月島、聞いたか? H組の神沢って奴が退学処分を食らったんだってよ。馬鹿だよなぁ。居酒屋なんかでバイトして、ただじゃ済むわけないだろ。うちは進学校だぞ? そんな簡単なこともわからないなんて、どれだけ馬鹿なんだよ」
涼は作り笑いを浮かべてイヤフォンを耳にはめようとした。しかし彼は間をあけず話し続けた。
「でもなんでそこまでして金が必要だったんだ? きっとあれだ。女の子を妊娠させて中絶費用を請求されたんだ。それか風俗にハマったか。それくらいしか考えられなくねぇ? どこまで馬鹿なんだよ」
殴りたくなる衝動を涼はおさえた。
「なぁ知ってるか?」と彼は揚々と続けた。
「神沢って、母親はよそに男作って逃げて、父親は服役中らしいじゃん。やっぱ、親がろくでもなきゃ、子もろくでもないんだな。両親もいないうえに高校まで退学なんて、人生終わったな。まぁいいのか、馬鹿なんだし。もう生きている意味なんかないよな。月島もそう思わないか?」
「思わないね」涼は即答した。さすがに聞き捨てならなかった。「おまえはもうちょっと想像力というものを養った方がいい。たしかアインシュタインだっけ? 『想像力は知識よりもはるかに重要だ』って言ったの。おまえみたいな想像力のかけらもない人間を見ていると、その言葉の意味がよくわかるよ。これだけは言っておく。ゆう君が生きている意味はあるよ。少なくとも、馬鹿丸出しのおまえよりは」
男子生徒の顔がみるみる紅潮するのを見届けると、涼は席を立ってこの忌々しい空間から出た。そして廊下の窓の外を眺め、ねぇゆう君、と心で語りかけた。取り乱してつい「ゆう君」って口に出しちゃったぜ。人前では絶対にその呼び名は使わないって決めていたのに。
これじゃあ私がキミを好きだってこと、クラスの連中にバレちゃうじゃないか。
♯ ♯ ♯
その日の放課後、日直の仕事を適当に終えた涼は、下校せずに二階のラウンジへ向かった。そこで一年生の丸目守と会う約束を取り付けていたからだ。スルメ君でもクルメ君でもなく、スウェーデンの都市名と同じマルメ君。
わずか二ヶ月前に交際の申し込みを断った異性を自分から呼び出すのは、少なからず気が咎めたけれど、涼はどうしてもマルメと直接会って話をする必要があった。スマホで連絡をとると、彼は振られたことに対して嫌味の一つを言うでもなく、会うことを快諾してくれた。根に持つタイプではなくて、よかった。
「ところでマルメ君」と涼はひとしきり世間話を終えた後で言った。「なんの話をするために来てもらったか、わかるよね?」
「神沢先輩の件ですよね」マルメはテーブルを挟んだ向かいの席で即答した。想像力のない男でもなくて、よかった。「僕ら一年生のあいだでも、今日は朝から神沢先輩の退学の話題でもちきりでした」
「それに関連して、マルメ君にいくつか聞きたいことがあるんだ」
「僕に答えられることでしたら、お答えします」
「本題に入る前にまずひとつ確認させて」と涼は努めて冷静に言った。「キミは丸目君ではあるけれど、トカイさんの人なんだよね? トカイ株式会社」
「その通りです」とマルメもいたって冷静に答えた。「名字は丸目ですが、僕はれっきとした鳥海の人間です。父は現社長の巌。兄は次期社長の慶一郎。兄とは腹違いの兄弟です。どっちが正妻の子かは――名字からお察しください」
涼は察した。目の前の落ち着き払った少年は、庶子ということだ。
「それではマルメ君。さっそくなんだけど、一番聞きたいことから聞くよ。たぶんそれはキミが一番聞かれたくないこと。でも許せ。もったいぶらずにいきなり核心を突くのが私流なんだ。今回の神沢の退学、トカイさんが関わってるよね?」
彼は当たりさわりのない笑みを浮かべたきり、黙りこくってしまった。どうやら「僕には答えられません」という意思表示らしい。
いいでしょう、と涼は思った。答えられないということは、とりもなおさず、何かを知っているということだ。ここまでは想定内だ。
あのねマルメ君。キミにもトカイの人間としての立場があるのかもしれないけど、私はなんとしても口を割らせるよ。私はどうしてもゆう君を助けたいんだ。そのためにあまり好きじゃないけど――話したくないことも話さなきゃいけないけど――ちょっと遠回りすることにしましょう。急がば回れ。プランBへ移行。
「質問を変えるね」と涼は平然と言った。「こないだの夏、キミは神沢と高瀬さんにこんな交渉を持ちかけたよね。トカイさんの急所となる秘密を教える代わりに、私との恋を応援してほしいって」
マルメは決まりが悪そうに頭をかいた。
「すみません、卑怯な真似をして。初恋だったものですから」
「今はそのことはいいんだ」涼は手を振る。「それで、その秘密って、キミのお兄さん――慶一郎さんに関することだよね?」
「そうです」
「お兄さんは、ある罪を犯しているんだよね?」
「そう、です」
「その罪って、連続婦女暴行だよね?」
「どうして月島先輩がそのことをご存じなんですか!?」マルメの顔は青ざめる。「僕はそこまで神沢先輩たちに話していませんよ!?」
「私も被害者の一人だから」涼はそう打ち明けて、小さく肩をすくめた。「もっとも、私の時は、未遂で終わったけど」
「もしかして、先輩が男性恐怖症になったのって……」
涼は短くうなずいた。「ヤラシイことは何もされてないんだけどさ、それでも車に無理やり乗せられた恐怖とかって、そう簡単に消えるものじゃなくてね」
マルメは両手で顔を覆った。合わせる顔がないという風に。
「そうとは知らず、申し訳ありませんでした」
「キミが謝ることはない」マルメ君が謝ることじゃない、と涼は心から思った。
ひとしきり沈黙があった。彼の顔から手が離れるのを待って、涼は口を開いた。
「ちなみに、キミはどうやってお兄さんの蛮行に気づいたの?」
「兄が一度社内でスマホをなくしたことがあったんです。見つけたのは僕でした。兄はトイレに置き忘れていたんです。直前の会議で生まれのことを兄に茶化されていた僕は、つい魔が差して、スマホの中を覗いてしまいました。するとそこには、そういう動画がいくつもあって……。ですからこのことを知っているのは、本人を除けば、社内でもおそらく僕だけのはずです」
良い趣味をしてるじゃないヒキガエル野郎、と涼は思った。そして息を大きく吐いた。「ではまた別の質問。全然話は変わるんだけど、キミが私を好きになったきっかけって、“未来の君”の占いなんだってね?」
「恥ずかしながら」マルメは認めて、頬を赤らめた。「幸せを望むなら先輩と一緒に生きていくよう占い師に告げられて、それで……」
しめしめ、と涼は思った。「それにしてもさ、“未来の君”って、なんなんだろうね?」
「なんなんでしょうね?」
「気になるよね」
「なりますね」
「占い師の正体がわかれば、それもわかるだろうね」
「でしょうね」
涼は制服のポケットからスマホを取り出し、ある画像を彼に見せた。
「キミならこれがなにかわかるよね?」
「もちろん。毎日のように見ています。トカイのバッジです」
「実は今から十年前、私たちの先輩にちょっぴり血の気の多い人がいてね。その人、占いの結果に納得いかなくて、占い師の胸ぐらを掴んだっていうんだ。その時にマントの下から転がり落ちたのが、このバッジなの。これが何を意味するか、キミならわかるよね」
「占い師はトカイと何かしら関わりのある人物、ということになりますね……」
「ここでいったん話を整理するね」と涼は言った。「高瀬さんの政略結婚だけじゃなく、私に起きた暴行未遂事件と“未来の君”の占い師、そのどちらにもトカイさんが関わっている。それが夏の終わりに私たちがたどりついた事実なの。それを受けてこの秋から神沢は動き出した。そして下された退学処分――。ねぇマルメ君。だいぶ遠回りしたけど、最初の質問に戻るよ。今回の神沢の退学、トカイさんが関わってるよね?」
マルメは再び当たりさわりのない笑みを浮かべた。しかし今度は口を開いた。
「兄が先輩に多大な迷惑をかけたうえに、“未来の君”の件までうちが関わっているとなれば、黙っているわけにはいきませんね……」
涼はガッツポーズしたくなる気持ちをおさえ、耳をすました。
「月島先輩の読み通りです」とマルメは言った。「神沢先輩の退学にはトカイが関わっています。ただし、全社を挙げて、ということではありません。本当です。動いているのは、一人の女性です。最近途中入社した、兄・慶一郎の秘書です。彼女がこの件を一人で動かしています。目的のためなら手段を選ばない、良く言えば優秀な、悪く言えば冷酷な、26歳の女性秘書です。月島先輩も気をつけてください。あの人は自分の目的を果たすためなら、なんだってやります。えげつないことだって、平気で……」
「たとえば高校に圧力をかけて、一人のあまり恵まれているとはいえない男子高校生を退学させたりね?」
「そういうことです」
「話してくれて、ありがとう」
待っててね、ゆう君、と涼は思った。キミのことは私が絶対に助けてあげるから。誰がなんと言おうとキミは生きている意味があるから。私に生きる意味を教えてくれた人だから。ゆう君は私が守るから。
「あの、月島先輩。僕も質問していいですか?」
「うん?」
「先輩は、神沢先輩のことが、好きなんですか?」
涼は固まった。マルメにそれを言った覚えはなかった。
「ど、どうして、そう思うの?」
「だって先輩、今、『ゆう君は私が守る』って……。ゆう君って、神沢先輩のことですよね?」
「なんだとぉぉォォ!?」涼は思わず席を立った。「私、今、そんなこと言った!?」
「ええ。独り言のようでしたが、たしかに」
涼は窓の外を眺め、「ゆう君」と心で語りかけた。ねぇゆう君。この調子だと、私がキミを好きだってこと、学校中にバレちゃうじゃないか。




