第99話 ここから見える景色は嫌いじゃなかった 2
《♣悠介》
「すまんな、神沢」
いつもこわもての篠田先生は、苦渋に満ちた顔でそう言った。
「おまえの処分が少しでも軽くなるよう、各方面に掛け合ってみたのだが、最悪の結果になってしまった。力及ばず、申し訳ない」
俺は首を横に振った。
「謝らなきゃいけないのは俺の方です。最後の最後まで面倒をかけてしまって、すみません」
「何を言う。受け持った生徒の面倒を卒業までみるのが、担任の仕事だ」
高校から退学処分が正式に下されて、30分が経っていた。気持ちの整理はついていなかったが、二年半使い続けてきたロッカーの整理を終えると、不思議なもので「この学校はもう自分の居場所ではないんだな」という実感が込み上げてきた。
担任に――厳密には元担任だが――声をかけられたのは、ちょうどそんな時だ。秋の夕日が射し込む放課後の教室には、他の生徒の姿はない。いつもは煩わしく思っていた騒がしさが、今はたまらなく恋しかった。
「仕方ありませんよね」と俺は空っぽになったロッカーを閉めて言った。「校則で厳しく禁止されているアルバイトを入学直後からやっていた。早朝に新聞配達をしたり昼間にスーパーでレジ打ちをしていたっていうんならまだしも、よりによって夜遅くまで居酒屋で。それを三年生になってもやめなかった。受験の年なのに。地域一の進学校であるこの高校にとって、これは大問題です。俺はどんな処分を受けても文句は言えません」
しばらく沈黙があった。
そろそろ帰ろうと荷物をまとめ始めたところで、先生が口を開いた。
「なぁ神沢。おまえは居酒屋でのバイトだけが退学処分の理由だと、本当にそう思っているのか?」
俺の手は止まった。「どういう意味ですか?」
「少し話がしたい。時間はあるか?」
「ええ、もう高校生じゃないので」
「す、すまん」
彼は廊下に人がいないことを確かめると、教室のドアを完全に閉めきってから、俺を適当な席に座らせた。そして自分もその向かいの席に腰を下ろした。
篠田先生の顔をこうして間近で見るのは、久し振りだった。眉間のシワが以前より増えているような気がしないでもなかった。誰のせいだろう? きっと俺のせいだろう。
「この退学処分はどうもおかしい」先生は腕を組んでそう切り出した。「今回の件はどう考えても不自然なんだ」
「不自然?」
「ああ。先生は、なにか裏があると思っている」
俺は黙って話の続きを待った。
「たしかに居酒屋でバイトをしていたのは、まぎれもない校則違反だ」と先生は言った。「その事実を学校側が把握した以上、なんらかの処罰は免れないだろう。しかし、しかしだ。おまえはなにも遊ぶための金が欲しかったわけじゃない。大学進学の費用を貯めるために夜遅くまで働いていた。新聞配達やスーパーのレジ打ちでは目標の金額に届かないというのもなるほど、言い分として筋が通っている。ご両親を頼ることができないおまえにとって、時給の良い居酒屋でバイトをするのは、大学に行くためやむにやまれぬ選択だった。そうだな?」
俺は深くうなずいた。それが学校側にした弁明だった。
篠田先生は今まさに通知表をつけるような顔で続けた。
「夜遅くまでバイトをしていたからといって、遅刻や無断欠席が常態化していたわけでもない。授業中に居眠りしていたわけでもない。学業をおろそかにしていたわけでもない。その証拠に成績も悪くない。これまでに何か大きい問題を起こした前科があるわけでもない。そしてなんといっても、おまえは卒業まで残りわずか四ヶ月の生徒だ。
そういった諸々の事情を総合的に勘案すれば、せいぜい厳重注意のうえ、十日ほどの停学というのが、過去のケースに照らし合わせても妥当な線なんだ。それが酌量の余地もなく一発退学というのは……。いくらなんでも罰が重すぎる。先生はこの高校でもうかれこれ20年近く勤めてきたが、こんなことは初めてだ。この処分はどうもおかしい。不自然にもほどがある」
「それで、なにか裏があると思うようになったんですね?」
篠田先生はゆっくりうなずいた。そしてぐっと身を乗り出した。
「これから先生が話すことは、神沢には突拍子もないことのように聞こえるかもしれない。でも笑わないで聞いてほしい。先生はこう考えている。おまえを退学させるよう、学校に対して、どこかから不当な圧力がかかったんじゃないかと」
「圧力?」
「そうだ。もちろん学校はそんなことをおおっぴらにできない。だからいかにももっともらしく、居酒屋バイトを処分の口実にした。先生はそう読んでいる」
「そう考えるだけの根拠のようなものはあるんですか?」
篠田先生は窓を横目で見て声のボリュームを落とした。
「実はここ最近、見慣れない女が校長室にたびたび出入りしていたんだ。パンツスーツを着た無愛想な20代中頃の女だ。一度呼び止めて話をしたことがある。あんたは何者なんだと。本人は教材の売り込みだと言っていたが、表情から雰囲気、仕草や使う言葉に至るまで、営業職のそれじゃなかった。
先生だって伊達に20年も社会人をしちゃいない。あの女は嘘をついている。それくらいはわかる。あれは人目に触れないような『ワケあり』の仕事をなりわいにしている人間だ。高校という場所にそぐわない女の不自然な出現と、おまえに下された不自然な退学処分。この二つの不自然な出来事が、無関係だとは先生には思えん」
「つまり、その女の人が俺を退学させるよう、学校に働きかけたということですか?」
篠田先生はうなずいた。
「なぁ神沢。おまえ、どこかの大きな組織なり団体なりに、けんかを売るような真似をしてないか? 藪をつついて蛇を出すようなことをしてないか? ちょっと考えてみろ。何か心当たりはないか?」
心当たりならあった。考えるまでもなくあった。他でもない、トカイだ。
夏の終わりにトカイの急所となりうる大きな秘密を握った俺は、この秋から積極的に動き出していた。未来を約束した高瀬とトカイの次期社長の政略結婚を阻止するために。トカイの次期社長は実は大きな罪を犯しているというのが、その秘密だった。
もちろん同時並行して、“未来の君”の占い師とトカイの関係についても調べ始めていた。
高校から退学処分を受けたのは、その矢先のことだった。
「心当たりはないですね」と俺は考えるふりをしてから答えた。本当のことを一から話すとなると日が暮れてしまうし、それに“未来の君”がどうのこうのなんてことを聞かせたら、また眉間のシワを増やしてしまう。「先生の考えすぎだと思いますよ」
「神沢。もうちょっと真剣に思い返してみろ。大事なことなんだ――」
俺は手のひらを広げて、それ以上の言葉を制した。
「どこかからの圧力があろうとなかろうと、俺が校則を破っていたことに変わりはないんです。その事実が消えるわけじゃありません。非は俺にあります。それに裏で何があったにせよ、処分はもう下ってしまったんです。今さらどうすることもできません」
それを聞くと篠田先生はやるせなさそうにため息をついた。まるで自分が懲戒免職を受けたかのように。
「あのな神沢。先生は教師として華々しい実績があるわけじゃない。おまけに見ての通りこわもてでぶっきらぼうな男で、生徒からの人気だってあるわけじゃない。それでもな、そんな先生でもな、これまで担任として受け持ってきた生徒は、一人残らず卒業させてきた。それが先生のささやかな誇りだ。先生はまだ諦めてないぞ。おまえをこの教室に戻す。そして卒業させる。そのためにやれるだけのことはやってみる。さいわい、職員室には力を貸してくれそうな先生も何人かいる。だからおまえも諦めるな」
ありがとうございます、と俺は社交辞令的に言った。この学校というきわめて特殊な小世界において、一度下された決定がそう簡単に覆らないことは、世間知らずの俺でもわかっていた。
荷物をまとめた俺は、最後に篠田先生に許可をもらって、自分の席に座らせてもらった。
これから授業が始まるかのように椅子を引き背筋を伸ばすと、この席から見えた風景の記憶がよみがえってきた。
まぁ、どれもこれもろくでもない記憶ばかりだった。
高瀬の後ろ姿に見惚れるあまりテストが解けないということがあった。
柏木にパンを盗み食いされて昼食抜きということがあった。
月島に廊下からパチンコで狙撃されるということがあった。
太陽に頼まれて代返をして教師に叱られるということがあった。
うん、ろくでもない。どうしようもない。
俺は二年半使ってきた机に手を触れた。そして椅子から立ち上がって、でも、と思った。
でも、ここから見える景色は嫌いじゃなかった。
ぜんぜん嫌いじゃなかった。




