第97話 こんなに目覚めのいい朝はいつ以来だろう? 3
どあっふぁっふぁ!
その豪快で明快で壮快な笑い声をもう俺は聞くことができなかった。病院についた時にはすでに、じいさんの顔には白い布がかかっていた。
彼を囲むようにしてベッドのまわりに佇んでいたのは、月島家の人たちだった。半世紀以上もじいさんと連れ添ってきたばあさんは泣いていた。ふたりのあいだに生まれた京さんも泣いていた。入り婿の治さんも泣いていた。孫娘の姿はどういうわけかその輪の中になかった。
「涼は一人になりたいと言って、さっきここを出て行ったんだ」と治さんが教えてくれた。言外に、今はそっとしてあげてほしいというニュアンスが聞き取れた。どうやら俺が来る前に、なにかあったらしい。俺は無言でうなずいた。
「悠介君」と京さんが涙ながらに声をかけてきた。「もし嫌じゃなければ、あなたもおじいちゃんのお顔を見てあげてくれる?」
今の俺にできることといったら、それくらいしかない。「わかりました」
京さんはじいさんの顔にかかっていた白い布をそっと取った。俺は枕元へ進み、手を合わせてから、視線を落とした。
さほど苦しまずに逝ったことは、その穏やかな表情が物語っていた。あまりにも穏やかな顔をしているので、なんだかマッサージが気持ちよくてうたた寝しているだけのようにも見えた。
悠介、フィール・ソー・グッドじゃ、とかなんとか薄目を開けて言い出しそうな気がする。でも三人の止まらない涙が、もう二度とその目が開かないことを教えていた。
それから俺は、彼らからじいさんの死について説明を受けた。
風邪の延長じゃ、とじいさんは俺に言っていたけれど、やはり実際はそんな簡単な病気じゃなかった。たちの悪い病気だった。それでも最近は病状が快方に向かっており、近々一時退院もできそうだと医師にも言われていた。その矢先の容体急変だった。
家族はもちろん、医師ですらこの死は予測できなかった。もっとも、当の本人だけはなんとなくそれを悟っていた節があるという。「その証拠にね」と言って京さんは一枚の紙を俺に差し出してきた。「これは、おじいちゃんの薬入れから出てきたの。きっと、悠介君への遺言」
涼のことをどうかよろしく頼むぞ――。
そんなようなことが書いてあるとばかり俺は思った。でもそこには豪快で明快で壮快な字でこうあった。
「悠介! おまえさんもわしの孫だと思っておるぞ。さよならは言わん。幸せになれ!」
やめろよ、と俺は思った。やめろよ、じいさん。俺まで泣いちまうじゃないか。
♯ ♯ ♯
しばらく経って皆の目から涙も引いてきたところで、今夜から宿泊先をホテルに変えるよう京さんが打診してきた。
葬式の準備やらなんやらでバタバタして居心地の悪い思いをさせてしまう、というのがその理由だった。食事すらろくに用意できないかもしれないと京さんは申し訳なさそうに言った。もちろん俺に異存はなかった。余計な気を遣わせてしまって、むしろこっちの方が申し訳ないくらいだった。
そんなわけで俺はいったん亀沢の月島庵に戻ると、荷物をまとめて、教えられたホテルへと向かった。
そのホテルは錦糸町駅のすぐ近くにあった。京さんが手配してくれたのは、24階建てのとんでもなく立派なホテルだった。おそらくこのあたりで一番目立つホテルだ。俺はいっそう申し訳ない気分になりながら、中に入った。
♯ ♯ ♯
夜になった。
長い一日だった。体も心も疲れているはずなのに――立派なホテルの立派な部屋の立派なベッドに横になっているはずなのに――11時を過ぎても眠気はさっぱり訪れなかった。
仕方がないので俺は起き上がって窓のカーテンを開け、東京の夜景をぼんやり眺めた。
月島庵を継ぐ意思がないことをはっきり表明する。それもこの旅の目的のひとつだったわけだが、どうやらその目的は果たせぬまま東京を去ることになりそうだ。明日には通夜が、あさってには告別式が執り行われる。
僕は月島庵を継ぎません。
当代を亡くして悲しみにくれる人たちの前で、どうしたらそんな台詞を吐けるだろう? 無理だ。月島家の人たちがどうしようもない人間の集まりなら話は別だが、実際はそうじゃない。よくできた人たちの集まりだ。俺には無理だ。俺はそこまで鬼畜じゃない。
そのようなことをとりとめもなく考えていると、ドアにノックの音がした。俺は首をかしげた。ルームサービスを頼んだ覚えもなければ、指圧師を呼んだ覚えもなかった。いったい誰だろう? 誰が何の目的でこんな時間にここへ来たのだろう?
俺がドアを開けるとそこには月島が立っていた。彼女はTシャツにジーンズというラフな格好をして、素足にサンダルを履いていた。
「家を抜け出してきたぜ」と彼女は勇ましく言った。「ねぇ、入っていい?」
俺はうなずいた。そもそも月島家がとってくれた一室だ。断る道理はない。
彼女がベッドに腰を下ろしたので、俺は備え付けのスツールを机の下から引っ張りだし、そこに座った。
「すまんかったね」と彼女は言った。「じいさんの病気のことを黙っていて。『本当の病名は悠介には言うな』ってじいさんから家族一同きつく口止めされていたの。キミにだけは弱みを見せたくなかったんだろうね。そんなのは粋じゃないから。ああ見えても生粋の江戸っ子なの、あのじいさん。そういう人なの」
三日前、コーラを一気飲みするじいさんを俺は思い出した。そういう人なのだ。
「こっちこそすまんな」と俺は言った。「こんな立派な部屋を用意してもらって」
「気にしないで」と彼女は言った。「『悠介にもう一度会ってからじゃないと死ねない』っていうじいさんのワガママに付き合ってもらったんだもん。スイートルームでも安いくらいだ。ミニバーでもなんでもじゃんじゃん使ってよ」
喉が渇いていたので、俺はお言葉に甘えて、さっそく冷蔵庫を開けてみた。おまえも何か飲むか? と背後に尋ねたものの、返事はなかった。
どうしたんだろうと思って振り返ると、月島は泣いていた。その泣き声はテレビの音量ボタンを押しっぱなしにしているみたいに急速に大きくなった。俺は冷蔵庫を閉めて彼女の隣に腰掛けた。そして声をかけた。
「わかるよ。悲しいよな。俺も悲しいよ。俺も泣いたよ。俺でさえ泣くんだから、本当の孫のおまえが泣くのは無理もないよ」
月島はどういうわけか首を大きく横に振った。それから「違うの」と声にならない声で言った。「もちろんじいさんが死んだことは悲しい。とても悲しい。でも今泣いているのは、それだけが理由じゃない」
「というと?」
月島はジーンズのポケットから何を取り出した。それは三日前、病院のラウンジでじいさんが俺に見せてきた運動会の写真だった。写真の中の好好爺と幼稚園児は、笑顔で手をつないで走っている。
「じいさんの入院着の中から出てきた」と月島は写真を見て言った。「じいさんは最期にね、私の方へ手を伸ばしてきたの。他にも家族がまわりにいるのに、ばあさんでもママでもなく、孫のこの私の方へ。でも私はその手を――伸びてくるじいさんの手を――反射的に払いのけちゃったんだよ! この写真みたいに私と手をつなぐ。それがあの人の人生最後の願いだったんだ。それなのに……それなのに……!」
それで病室に月島の姿がなかったのか、と俺は今更ながら納得した。
彼女は泣きじゃくりながら続けた。
「私、もう自分が嫌だ。いっぱい可愛がってくれたじいさんの最後の願いすら叶えてやれない。こんな自分が嫌で嫌で仕方ない。生まれ変わりたい、普通の女の子に。もう嫌だ。じいさん、こんな孫で、ごめん」
月島は俺の左肩に顔をつけて泣き続けた。普段はクールな彼女がこれほどまでに感情を剥き出しにするのを見るのは、長い付き合いの中でこれが初めてだった。
俺は彼女が泣きやむまで黙って左肩を貸すことにした。小さな体に似合わない大きな泣き声を耳元で聞いていると、そのうち俺は自分の中で強烈な怒りが込み上げてくるのを感じた。それは他でもなく、中学時代の月島を暴行しようとした男たちに対する怒りだった。
きっとそいつらは今この時も世界のどこかで何食わぬ顔をしているんだろう。何に臆することもなくのうのうと生きているんだろう。でも月島はそうじゃない。男への恐怖が消えない。街角で男からポケットティッシュを受け取ることすらできない。家族の手さえ触れない。死にゆく祖父の手さえ。今この時も苦しんでいる。
おまえらこそ死ねばいいんだ、と俺は思った。
♯ ♯ ♯
月島は泣きやんだ後も俺の体から離れなかった。
「神沢、お願いがあるの」と彼女は俺の左肩にもたれかかったまま言った。
「お願い?」と俺は聞き返した。
月島は小さくうなずいた。そして言った。「私を抱いてほしい」
予期せぬその言葉は、俺の呼吸を何秒間かにわたって止めた。
「抱いてほしいというのは、つまり……」
「つまり、そういうこと」と彼女は真剣な声で言った。「私、この忌々しい病を克服したい。しなきゃいけない。このままじゃ未来に希望が持てない。『毒をもって毒を制す』じゃないけど、あの時の記憶を上書きするには、キミに抱かれる以外の方法はないと思う。お願い。私の空白を埋められるのは、キミだけなの。今夜のことは決して誰にも言わない。だから神沢、お願い。私を抱いてほしい」
俺は左肩に月島の体温を感じながら、目だけを動かして東京の夜景を眺めた。
さてどうしよう? 俺はその願いを聞き入れるべきか、それとも断るべきか。これはきわめて重要な選択だ。俺にとっても、月島にとっても。もちろん俺たちのまわりの多くの人たちにとっても。さてどうしよう?
どっちの選択肢を選んでも、得るものもあれば失うものもあるだろう。どっちの方が得るものが多いだろう? あるいは失うものが少ないだろう?
俺は頭を振った。これはそんな損得勘定で決めるべきことじゃない。俺はどうかしていた。やむを得ない。冷静でなんかいられない。
平静さを取り戻すべく、考えるのを一切やめて目を閉じた、その時だった。
意識の遠いところから、誰かの声がした。いつかどこかで聞いた、誰かの声。
「神沢、生きなきゃ!」
それは俺がすべてに絶望した中学時代、校舎の屋上で聞いた月島の声だった。その声がなければ、俺はおそらくそこで終わっていた。弱りきった俺をこの世界につなぎ止めたのは、月島だった。言ってみれば彼女は、その日以降の俺の未来を作ってくれたわけだ。
そういえばその時のお返しらしいお返しをまだしていないな、と俺は思った。月島のこの願いをもし断ればどうなるだろう? 彼女はこれから一生空白を抱えたまま生きていくことになるかもしれない。
俺は目を開けて、運動会の写真を見た。そこに写るボーイッシュな少女のふたつの瞳は、未来への希望に満ちあふれていた。
答えは出た。
「月島」と俺はささやくと、彼女の肩に手をまわし、その弱りきった体を優しく抱き寄せた。




