第96話 誰かを満たすことは誰にでもできることじゃない 3
「今年の夏休みもキミには東京に来てもらうぜ」
そう言って月島が寄越してきた航空券の日付が翌日に迫り、俺は家で朝から旅支度をしていた。
玄関のチャイムが慎み深く鳴ったのは、洗って干したトランクスをバッグに詰めていた午後三時だった。玄関のドアを開けるとそこには――チャイムの鳴り方でだいたい予想はついたが――高瀬が立っていた。彼女はノースリーブのワンピースを着て、右手からデパートの紙袋をさげていた。
「明日から東京でしょ?」と言って彼女はその紙袋をくいっと持ちあげた。「去年の夏お世話になった月島庵の人たちと、それから唯ちゃんへの、おみやげ。私の代わりに神沢君に渡してもらおうと思って」
こまやかな心づかいのできる素敵なお嬢さんだ、と惚れ直してばかりもいられなかった。高瀬はなにも土産を俺に預けるためだけにうちに来たわけではないはずだ。もう一つ他に目的があるはずだ。というか、それこそがメインの目的のはずだ。
案の定高瀬は紙袋を俺に手渡した後も、なかなか帰る素振りを見せなかった。炎天下の下いつまでも戸口に立たせておくわけにもいかないので、俺は彼女を家に招き入れた。そしてグラスに冷えた麦茶を入れて出した。高瀬はそれを美味しそうに飲んだ。「それにしても、びっくりしたよね」と彼女はグラスを置いて言った。「まさか丸目君も“未来の君”の占いを受けていたなんて……」
「まったくだ」と俺は言った。「これで“未来の君”のペアはもう一組増えたわけだ。俺と柏木。高瀬と周防。そして丸目と月島」
「あなたが幸せを望むならば、運命で結ばれた“未来の君”と共に生きていかねばならない――」高瀬は老占い師のその言葉を繰り返すと、右手でこめかみを抑えた。「本当になんなんだろう、“未来の君”って。そして誰なんだろう、占い師って」
「トカイの悪事を暴くのも大事だけど、その謎を解くことも忘れちゃいけない」
俺は冬に唯が残していった置き手紙をファイルから取り出し、そこに書かれた娘からのメッセージに今一度目を通した。
〈ミライのキミのうらないは、でたらめ、うそっぱちだよ!〉
〈ミライのキミは、しあわせもふこうもよばない〉
〈だからパパは、すきなようにいきていいんだよ!〉
「ちょうどいい機会だ」俺は手紙をたたんでファイルに戻した。「唯は――唯の母親は“未来の君”と占い師について何か重要なことを知っている。東京に行くついでに、川崎にいる二人に会って、じっくり話を聞いてくる」
高瀬はうなずいた。「唯ちゃんによろしくね」
それからしばらくとりとめのない話をした後で、高瀬は俺があまり聞きたくなかった六文字を口にした。「つきしまさん」と彼女は言った。その「月島さん」には、いつになく攻撃的な響きが聞き取れた。
ほら来たぞ、と俺は身構えた。俺が月島と越えてはいけない一線を越えたりしないよう、釘を刺す。それが高瀬がうちに来たもう一つの目的だ。
「月島さん、今年の夏休みは、なんの用で神沢君を実家に連れていくの?」
俺は平静を装ってそれに答えた。
「あいつのじいさん、高瀬もよく覚えてるだろ? ビートルズを歌いながらせんべいを焼いていた月島庵の名物店主。あのじいさん、最近あまり体調が良くないらしいんだ。それで俺に会わせろってうるさいんだと」
「ふぅん」と高瀬は言った。「やっぱり神沢君も月島庵に泊まるの?」
「みたいだね」
「どれくらい?」
「一週間」
「一週間? そんなに必要?」
「それは俺じゃなくて月島に言ってもらわないと」
高瀬は面白くなさそうに口を尖らせると、目ざとく荷造り中のバッグを見つけて、勝手にその中をまさぐった。ひい、ふう、みい……とトランクスの枚数を数え、そのうち1枚を手にとった。
「7日間の外泊で普通10枚もパンツ持っていく? 月島さんと何するつもり?」
「待て待て待て」俺の下着を高瀬が素手で持っているという事実に感動している場合じゃなかった。「俺が明日から行くのは真冬のレイキャビクじゃない。真夏の東京だ。そりゃ汗だってかくだろ。肌着は多いに越したことはない。よく見てみろ、シャツだって10枚入ってる。あまり勘繰るなって」
それを聞くと高瀬はトランクスをいやに丁寧にたたんで、バッグの奥に押し込んだ。そしてこちらに向き直り、髪を耳にかけた。
「ねぇ神沢君。私たちの仲だもん。私が何を言いたいか、わかってるよね?」
俺はうなずくしかなかった。
「女の勘を侮ってはいけないってことも、わかってるよね?」
俺はうなずいた。
「私がどんな性格かも、わかってるよね?」
俺はうなずいた。
「それじゃ、もし月島さんと何かあったら……もちろん、わかってるよね?」
「あのさ」と俺はおそるおそる口を開いた。「いちおう、聞かせてもらえるかな。答え合わせっていうと、語弊があるかもしれないけど」
高瀬は視線をゆっくり俺の下腹部あたりまで下ろし、それから元に戻した。そして口元に優しい笑みを浮かべ、こう宣告した。
「悪い子には、お仕置きだよ」
♯ ♯ ♯
「おうおう、怖い女だねぇ」
隣のシートで月島は大袈裟に身震いする。羽田へ向かうボーイング767機は、快適な空の旅を我々に提供していた。
「お仕置きってなんだろう? わかった。キミのムスコ君をちょんぎる気なんだ」
冗談には聞こえなかった。俺は思わず股間をおさえた。
「やめろよ。本当に痛くなってきただろ」
「お仕置き予告がキミへの釘刺しだとしたら、おおかたアレは私への釘刺しだね」
月島は頭上の荷物棚を見上げる。そこには俺が高瀬から預かった紙袋が入っていた。
「おみやげの存在それ自体がひとつのメッセージだよね。『私は見ているからね』っていう。あの小綺麗な包装紙の下からどす黒い声が聞こえてくるようだよ。『月島さん、このあいだはどうもありがとう。言っておくけど、神沢君は私の男だからね。私のだーリンに手を出したら、承知しないからね』。おー、おそろしやおそろしや。怖い女だねぇ」
彼女はさらに耳をすます仕草をして、まさか中身は時限爆弾なんじゃないか、と続けた。さすがにそれは冗談にしか聞こえなかった。「だったら、搭乗ゲートで引っかかってるだろ」
月島はクールに笑って、窓の外に目をやった。
「さて神沢。眼下に蔵王連峰も見えてきた。東京に着く前にやはりあの話をせねばあるまい。18歳4ヶ月を迎えたお姉さんが聞く。17歳9ヶ月にして迎えた初体験は、どうだった?」
「俺はあれが初体験だとは思っていない」と俺はきっぱり言った。「あいにく、誰かさんに途中で妨害されたもんでね」
「お気の毒に。世の中にはひどいことする奴がいるもんだね」
「どの口が言ってんだ、なぁ?」
「この口が、ですが、なにか?」
「その口をふさいでやろうか?」
「キミのキスで?」
「言ってろ」と俺は、あの夜の無念さを思い出し言った。そしてアームレストに肘を突き、だんまりを決め込んだ。
「まぁそうカリカリしなさんな。愛しの高瀬さんと3.6㎝とはいえ交わることができたのだから、良かったじゃないか」
「ちょっと待て」と俺は早くも沈黙を解いた。「なんでおまえがそこまで具体的な数字を知ってるんだよ?」
「なんてことはない。葉山君から聞き出したのさ。あの地方都市にもようやくできた家系ラーメン店の無料クーポンと引き換えに」
あの野郎、俺の機密情報はラーメン一杯より安いのか、と俺は1万メートル下にいる悪友を恨んだ。
「なるほど」と隣で月島は脚を組んで言った。「キミは3.6㎝では初体験とは思えない。ふむふむ。男は最後までやってなんぼ。たしかに無理もなかろう。それでは高瀬さんはどうなの?」
「それがさ」俺は無意識にため息をついた。「高瀬はすっかり初体験を済ませた気でいるんだよ。雰囲気とかもすごく大人びちゃってさ。夏休み明けに急に垢抜ける女子がいるだろ? あんな感じだ。なんていうか、安直な表現だけど、生まれ変わったようにさえ見える。なんでそうなるんだろう? 最後までしたわけじゃないのに」
月島は蔵王連峰を見下ろしながらそれについて考えていた。
「私はそのわけがなんとなくわかる気がするな」
「聞かせてくれ」
「高瀬さん、ずっと空白を抱えていたんだよ」月島は真剣な顔でそう言った。「高校卒業後に、望まない結婚をすることが決まった、その時から。それからずっとあの子は、自分の内側で大事なものが損なわれたような感覚をもって生きてきたはず。でもいっときとはいえキミとひとつになることで、キミの中の何かがその空白を埋めたんじゃないかな。
神沢の中にはなにかしらそういう特別なものがあるよ。その特別な何かを言葉で説明するのは難しいけど。でもさ、とにかく、誰かを満たすことは誰にでもできることじゃない。キミだからこそ、高瀬さんの空白を埋めることができたんだよ」
俺は気づけば服の上から自分の体をまさぐっていた。それを見て月島はくすくす笑った。特別なものが手で触れられるわけないでしょという風に。そんな彼女を見ていると、ひとつ疑問が浮かんだ。
「あのさ」と俺は口を開いた。「この件について、やけに淡々と話してるように見えるんだけど、嫉妬とかしてないのか?」
「愚問を肥料にして育つ豆の木がもしあったとしたら、今頃窓の外につるの先端が見えるような愚問だな」そう月島は答えた。「それでは聞き返すが、嫉妬しているからといって、他の乗客の迷惑も顧みず、ワシは袖を噛んでキーキー金切り声で泣きわめきゃいいのか? ああっ?」
「すまんかった」
月島はお茶目に舌を出し、頭上の荷物棚を見上げた。
「イエーイ。高瀬さん、見てる? このままじゃちっとも面白くないから、東京で神沢を寝取ってやるんだからね。果たしてお嬢様のだーリンは、7日間も我慢できるでしょうか?」
俺は何も聞こえなかったふりをして、快適な空の旅を楽しむことにした。そう決めた直後、近くのキャビンアテンダントさんが口にした「おしぼり」が「お仕置き」に聞こえてしまい、上空1万メートルにおいて自己嫌悪に陥る。




