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【完結済】未来の君に、さよなら  作者: 朝倉夜空
第三学年・夏〈希望〉と〈初体験〉の物語
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第96話 誰かを満たすことは誰にでもできることじゃない 2


 高瀬が実家に戻ったことにより俺の〈初体験大作戦〉はあっけなく終わったわけだが、月島に想いを寄せるウブな後輩の〈初恋大作戦〉はまだ終わっちゃいなかった。


 お二人には僕の恋を後押ししてほしいのです、と丸目まるめまもるは言った。僕の恋が成就したあかつきには、高瀬先輩の政略結婚を壊しうるトカイの機密情報をお教えします、と。

 

 その取引に応じて彼のプラトニックな恋を応援してきた俺と高瀬は、市の中心部にある公園に来ていた。なんでもマルメはいよいよ今日、腹を決めて月島に交際を申し出るという。公園に隣接する神社がその舞台だ。俺たちは噴水の見えるベンチに隣り合って座って、その結果が出るのを待っていた。

 

 高瀬とこうして直接顔を合わせるのは、あの一夜以来初めてだった。あれから一週間が経っていた。八月にしては少々肌寒いせいか、高瀬は長袖の上に軽いカーディガンを羽織り、細身のブーツカットジーンズをはいていた。

 

 俺が一週間前までと違うのは、高瀬の素肌を見られないからといって、いちいち天候を恨んだりしないことだった。

 

 俺の脳裏には、装飾品一つ身につけず、月明かりだけをまとった彼女の姿が鮮明に焼き付いていた。芸術的な腰のくびれのかたちから左の乳房の下の小さなほくろに至るまで、俺はありありと思い浮かべることができた。彼女の服の下にどんな風景が広がっているのか、あまり豊かとはいえない想像力を働かせる必要はもうなくなったわけだ。

 

 もちろん高瀬にも変化はあった。彼女の変化は俺のそれよりも明らかだった。一言でざっくり言ってしまえば、垢抜けた。


 見た目そのものは一週間前までとさほど変わらないのだが、ちょっとした仕草や表情の作り方、話すときの口ぶりや間の置き方、そういう一挙手一投足に俺は大人っぽさを感じずにはいられなかった。この一週間のあいだに高瀬は誕生日を二回迎えたのかと思ったくらいだった。

 

 あの一夜の出来事を高瀬は初体験だと認識している。俺は初体験だと認識していない。短い間とはいえひとつになれたことで高瀬は満足できている。俺はそれだけでは満足できていない。高瀬は処女を卒業したと思っている。俺は童貞のままだと思っている。


 なるほど。俺だけが取り残されたように感じるのも、当然といえば当然だった。


 それはさておき、今の俺にはちょっと困ったことがあった。高瀬とこの公園で再会してから一時間ほど経つのだが、俺は彼女との会話にちっとも集中できずにいた。その理由ははっきりしている。


『“愛した男”の子』。数日前に太陽の奴が口にしたその言葉が、いまだに頭の中で繰り返されているせいだ。そしてその言葉は同時に、彼の立てた仮説を思い出させた。


 好きでもない男との望まない結婚を控えている高瀬さんの心には、どこかに“愛した男”の子が欲しいという思いがあったんじゃないか。というのがその仮説だった。


「神沢君、私の話、聞いてる?」

 俺ははっとして現実に戻った。「もちろん」


「それじゃ、何の話をしていたか、言える?」

「もちろん。GDPの話だよな?」


「なんで私が昼間の公園で国内総生産の話をしなきゃいけないの? しっかりしてよ、もう」

「ごめん、なんの話だっけ?」


「SNSだよ。一文字も合ってない。私は今日で、アイリのアカウントを消そうと思っているっていう話をしていたの!」

「どうして消すの?」


「どうしてって、だって、目標はもう果たせたから」

「目標」処女卒業がアイリのこの夏の目標だったな、と俺は思い出した。「うん」

 

 沈黙があった。長い沈黙だった。「ねぇ神沢君」と高瀬は言って、隣から俺の顔を覗き込んできた。「なにか気になっていることがあるんじゃない?」


「なんでわかるの?」

「わかるよ」と高瀬は当然のように答えた。「それくらいわかるよ。話してみて」


「でも」

「誰も知らない私のほくろの位置まで知ってるっていうのに、今さら何を隠すことがあるの?」

 

 俺はだいぶ迷った後で、思いきってくだんの件を話すことにした。ただし話題が話題だけに、慎重に言葉を選んで。もちろん、『“愛した男”の子』なんて表現は差し控える。

 

 高瀬は話を聞き終わると、カギのないクロスワードを解くような難しい顔をした。

「つまり、神沢君が言いたいのはこういうこと? あの日私は『大丈夫な日』だって言っていたけど、本当は全然大丈夫じゃなくて、むしろ『危ない日』だったんじゃないかって?」

 

 俺は小さく一度うなずいた。


「ないないない!」高瀬は大きく何度も手を振って笑った。「なぁんだ。そんなことを心配してたの? あのね神沢君。私はいくらなんでもそこまで悪い女じゃないよ。たしかにね、する日を二日遅らせたのは、心の準備っていうよりどちらかといえば体の準備だった。ただそれは、お尻におでき・・・ができていて、治す時間が欲しかったから。だって恥ずかしいでしょう? わざと危険日を狙って――なんて、さすがにそれは考えすぎだってば」


「そ、そうだよな、高瀬にかぎって!」自然と口から笑みがこぼれた。「変なことを聞いてごめん。俺が馬鹿だった。ははは……」


 そこで俺は、それでは、ともっともな疑問を抱いた。それではどうしてあの夜、高瀬は俺がエチケットとして枕元に用意していたものの装着を止めたのだろう? 俺はそれとなく尋ねてみた。


「神沢君が不思議に思うのも無理はないよね」

 高瀬はしばらくそれについて考えていた。授業中でも見ないくらい真剣な顔で。


「口でうまく説明するのはちょっと難しいな」とやがて彼女は言った。「だってこういうのって、理屈じゃないから。言葉にできないことを言葉にするのって、簡単じゃないよ。うーん。なんて言えばいいんだろう。私たちが前に進むためには、それが必要だと思ったから」

 

「私たち」と俺は繰り返した。「俺のためでもあったってことか?」

「そう。神沢君のためにも、ああすることが必要だったの」


「何も介さず、ひとつになること」


 高瀬は小さくうなずいた。


 これ以上追及するのはなんだか野暮なので、俺は納得することにした。


 ♯ ♯ ♯


 マルメが公園にやってきたのは、予定時刻を大幅にオーバーした午後二時過ぎのことだった。


 彼の姿が見えると俺と高瀬は会話を止めて、気持ちを切り替えた。果たして彼の初恋は実ったのだろうか? 告白は月島に受け入れられたのだろうか? 


 遠目からマルメを見るかぎり、どちらでもおかしくなかった。というのもその表情は五日ぶりに風呂に入ったみたいにすっきりしていた反面、そばに肝心の月島の姿はなかったからだ。


 マルメが歩いて近くまで来ると、俺と高瀬はベンチから立ち上がった。


「お待たせして申し訳ありません」と彼は本当に申し訳なさそうに言った。「今日こそ告白するぞと意気込んでいたのですが、いざ月島先輩とふたりきりになると、緊張から用意していた言葉が思うように出てこなくて……」

 

 俺と高瀬は顔を見合わせた。そして同じ性質の微笑みを浮かべた。思っていることもおそらく同じだった。かわいいな(かわいいね)。

「そんなもんだよ」と代表して俺が言った。「初恋なんだから」

 

 マルメは照れ臭そうに苦笑した後で、視線を俺と高瀬のあいだでしきりに往復させた。まるで二人をつなぐ糸でも見えたみたいに。

「つかぬことをお聞きしますが、先輩方、ここ最近、一緒にどこか遠くへ出かけたりしました?」

 

 高瀬は隣で息を呑んだ。俺も息を呑んだ。「なんでそう思うんだ?」


「いや、お二人の雰囲気がなんだか以前とは違う気がして……」


 実は一夜の大冒険に出かけていたんだ、なんて答えられるわけがない。

「なぁマルメ。俺たちのことは別にいいんだよ。今日の主役は俺たちじゃない。おまえだ。そうだろ?」


「そうだよ」高瀬はわざとらしく咳払いする。「それで主役の丸目君。告白の結果はどうだったの?」

 

 彼はすっきりした顔をしたまま少しうつむき、無言で首を横に振った。


「だめだったか」と俺は時間を置いてから言った。

「だめでした」とマルメは言った。「振られました」

 

 俺は言った。「その割には、ずいぶんすっきりした顔をしてるな?」


「月島先輩、僕にこう言ったんです。耳をかっぽじってよく聞きなさい丸目君。もし私がさかりのついたメス猫だとしても、君相手に発情することはないでしょう。そんなわけで、あきらめるんだニャー」


「あきらめるんだニャー……」俺は反復する。

「そういうこと言いそう……」高瀬は苦笑する。

 

 マルメは鼻先をかいた。

「そこまでキッパリ断られたら、そりゃあこんな顔にもなりますって。月島先輩、優しい人ですよ。僕が変に未練を残したりしないよう、曖昧な返答は避けて、わざとそういう言い方をしてくれたんです、きっと。いずれにしても、僕が振られたという事実に変わりはありません。僕の初恋は、ここでおしまいです」

 

 俺と高瀬は再度顔を見合わせた。今度も思っていることはおそらく同じだ。これでトカイの機密情報を教えてもらうことはできなくなったな(なったね)。他でもなく彼の恋の成就こそがその条件だった。


 とはいえマルメが気丈に振る舞っているのだから、俺たちが落胆を顔に出すわけにはいかなかった。


「ごめんね」高瀬は軽く頭を下げる。「私たち、あまり力になれなかったよね」

 

 彼は大きく手を振った。「やめてください。僕はお二人には本当に感謝しているんです。月島先輩と恋人にはなれませんでしたが、おかげさまで夢のような時間を過ごすことができました。もしお二人の協力がなければ、僕は声すらかけられず、ずっと遠くから眺めているだけだったでしょう。なにかお礼ができればいいのですが……」

 

 お礼、と聞いて欲が出た。「なぁマルメ」と俺は丁重に声をかけた。「無理を承知で言う。トカイの機密情報ってのを、教えてくれないかな? どうしても俺は高瀬の望まない結婚を止めたいんだ。止めなきゃいけないんだ。頼むよ」

 

 俺は彼の目をまっすぐに見た。恋というものを知った今のおまえなら俺の気持ちもわかるだろ。眼差しにそんな思いを込めて。

 

 マルメは真剣な顔つきでそれについて考えた。そして言った。

「わかりました。それでは、お礼として、半分・・だけお教えしましょう。それでもかまいませんか?」

 

 俺と高瀬は無言で深くうなずいた。


「一度しか言いません。しっかり心に留めてください」

 マルメはそう前置きすると、周囲に人がいないのをたしかめて、静かに話し始めた。


「僕の腹違いの兄・慶一郎は――つまり高瀬先輩の婚約者は――ある罪・・・を犯しています。それは比喩的な意味合いでも宗教的な意味合いでもなく、法に背く行為を意味する、正真正銘の罪です。もちろんそのことは表沙汰にはなっていません。トカイ内部でもそれを知っているのは本人を除けばおそらく僕だけでしょう。僕は知っています。兄が罪を犯していることを。それも決して小さくない罪を犯していることを。神沢先輩。僕が先輩にお話しできるのは、ここまでです」


「なるほど」と俺は、彼の言葉を一言一句頭に刻みつけてから言った。「トカイの次期社長が悪事に手を染めている。そんなことが明るみに出れば、クリーンなイメージが売りのトカイが大打撃を受けるのは必至。おのずとタカセヤとの政略結婚も立ち消えになる。そういうことか」

 

 マルメはうなずいた。「できることならすべてお話しして差し上げたいのですが、僕にもトカイの人間としての立場があります。これ以上秘密を口外するのは少なからずリスクを負うことになります。そのあたりの事情も、どうかご理解ください」


「わかってる。半分でも充分だ」俺は彼の肩を二度三度叩くと、高瀬の方を見た。彼女もこちらを見ていた。やはり思っていることは同じだ。やっと光が見えてきたな(見えてきたね)。


 暗く険しい森を地図も持たず歩いてきた俺たちにとって、それはかすかなものであっても、たしかに出口を示す光だった。


「それにしても、今日のお二人はやけに見つめ合いますね」マルメは冷やかすように言う。「まったく、これで何度目ですか? 以心伝心ってやつですか? 相思相愛なんですね。僕の理想のカップルですよ。ちなみに、お二人は何をきっかけにしてお付き合いを始めたんですか?」


 高瀬が肩をすくめる。「丸目君。私たち、交際しているわけじゃないんだよ」

「えぇ? 嘘でしょう?」


「嘘じゃないの。事情がいろいろあってね……」

 

 その事情のほとんどを生み出しているのは誰かといえば、俺だった。ちくりと高瀬に何か言われる前に、話を逸らすことにした。


「なぁマルメ。だからさっきから言ってるだろ。俺たちの話はいいんだよ。そういうおまえこそ、何をきっかけにして月島のことを好きになったんだ?」


「そういえば、それをまだ話していませんでしたね」

 そこで急に、日がかげった。まるで何かを暗示するように。


 マルメは言った。

「信じてもらえないかもしれませんが、ある夜、道を歩いていると、奇妙な格好の占い師に呼び止められましてね。僕はこう声をかけられたんです。あなた様はもうすでに“未来の君”に出会っております――」

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