第95話 君は嘘のつき方を知らない 2
もちろんチェリーに時を戻す能力などなかった。
高瀬は二階の私室に戻ったきり、中から鍵をかけて立てこもってしまった。階段を駆けのぼった俺はドアの前に立って、彼女が六畳間のどこにいても聞こえるよう大きな声で呼びかけた。
「高瀬、怒ったなら謝る! すまんかった! その、とにかくだな、話をしよう!」
一分待ってみても応答はなかった。二分待ってみても何もなかった。彼女はヘッドフォンを装着して外界の音を遮断しているのだろうか?
「高瀬! 俺の声が聞こえていたら、せめて返事だけでもしてくれ!」
「聞こえてる」今度はすぐに返ってきた。「だからそんなに叫ばなくても大丈夫」
その抑揚も生気も愛想もない声は、思いのほかすぐ近くから発せられていた。距離でいえば30cmばかり。高さでいえば俺の膝あたり。どうやら高瀬はドアに背中をつけた状態で、体育座りしているようだ。俺は声のボリュームを落とした。
「もう一度謝る。ごめんな」
「謝らなくていい」
「怒ってないのか?」
「怒ってなんかいない。ただただ、恥ずかしいだけ」
恥ずかしいだけ、と俺は内心で繰り返した。
「SNSを見られていたなんて恥ずかしいよ」と高瀬はドアの向こうで言った。「裸を見られるより恥ずかしいよ。心が丸裸になったも同然なんだから」
俺は高瀬が“アイリ”としてSNSに書き込んでいた投稿内容を思い返してみた。そして”だーリン”を俺に置き換えてみた。
〈初体験を済ませることがこの夏の目標〉
〈処女なんかさっさと捨てちゃいたい〉
〈結婚まで純潔を守りたいなんて思ってない〉
〈初めての人は神沢君がいい〉
〈神沢君に押し倒されたい〉
たしかに普段の高瀬なら、たとえ拷問を受けようとも口にしないようなことばかりだ。部屋に鍵をかけて閉じこもってしまうのも無理はなかった。俺がどんな言葉をかければいいかわからず黙っていると、ドア越しにまるで一世紀前の映画を再生したようなぼんやりした声が聞こえてきた。
「神沢君。今までありがとうね。幸せになってね。食あたりには気をつけてね。夜更かしは万病の元だよ。20歳以外の人に『弱冠』を使うのは誤用だよ。『カタログ』はイギリス英語とアメリカ英語でスペルが違うよ。空がきれいだな。夏の空っていいな。トナカイがソリを引いてる。そんなバナナ。一人称が自分の名前の女は流罪。あっ、一番星だ。きれいだな。SNSなんかやらなきゃよかった」
「おい高瀬!」俺は心配になってドアを叩いた。「だいぶ頭が混乱してるようだけど、大丈夫か!? 頼むから、鍵を開けてくれ!」
「開けられないよ!」彼女は一転、けたたましい声で怒鳴った。混乱は収まったらしいが、今度は情緒が乱れているらしい。「いつから気づいていたの? 私がSNSをやっていたこと」
「高瀬とこの家で暮らすようになって三日目あたりかな」と俺は正直に答えた。
「ということは神沢君は同居生活中ほとんどずっと、スマホで私の心を覗きつつ、何食わぬ顔で一緒にご飯を食べたりチェリーの散歩に行ったりしてたわけだ。何も知らないで清楚なイメージをかたくなに守ろうとする私は、さぞ滑稽だったでしょうね」
室内から何やらがさごそと物音が聞こえだした。
「何してる?」と俺は尋ねた。
「帰る準備」と高瀬は答えた。「はじめは怒ってなかったけど、なんだかだんだんムカムカしてきた。だから家に帰る」
「待て待て待て! 落ち着けって。親父さん、言ってただろう? 心の整理に三日はかかるって。きっと一人でいろいろ考えたいんだって。今帰ったら全部台無しだって!」
物音は次第に小さくなり、やがてやんだ。高瀬はどうにか思い留まったらしい。そしてまたドアに背を預けて座ったらしい。吐息がすぐそばから聞こえる。
♯ ♯ ♯
それからしばらく膠着状態が続き、ドア一枚を隔てた話し合いはなんだか籠城戦の様相を呈してきた。高瀬が鍵を開ける気配はまったくなかった。俺はこれといった打開策を思いつけなかった。お手上げだった。
こんな時こそ誰かに相談できればいいのだが、あいにくまたいつ高瀬が突発的に『帰る』と言い出さないとも限らない。だからここを退くわけにはいかない。かといって電話で誰かに知恵を借りるわけにもいかない。お手上げだった。
もう上げる手もなくなったので、やむなく座ってスマホを見てみると、明里さんからこちらの様子をうかがうメッセージが届いていた。これだ、と俺は思った。メッセージのやりとりならば、ここにいながら相談ができる。しかも声を出さずに。
俺は科学技術の進歩に感謝しながら、今の状況を文字だけで明里さんに説明した。
「ふむふむ。つまりドアの鍵を開けさせるには、まず心の鍵を開けなきゃいけないってことね」
うまいこと言いますね、と感心している場合じゃなかった。
「そんなわけで、大ピンチなんです」
「何言ってんのよ。大ピンチどころか大チャンスじゃない」
「大チャンス?」
「そう。悠介君。これは大人の階段をのぼる絶好のチャンスよ。というかもう、のぼったも同然じゃない」
俺は先ほど駆けのぼってきた我が家の階段を横目で見た。「そうなんですか?」
「そうよ。今君の前にあるドアは大人へのドア。まさに最終関門。そこを開けることさえできれば、君は晴れて大人になれる」
「ごめんなさい。くわしい説明をお願いします」
「考えてもごらんなさい。いきさつはどうあれ、『優里が君にバージンを捧げたい』という情報を今あなたたちは共有しているのよ? 君は優里の本心を知った。君がそれを知ったということを優里は知った。そしたらもう、後はいちゃいちゃするだけじゃない。優里だって本当なら、ドアを開けて君を部屋に招き入れたいはず。ところが人一倍意地っ張りで見栄っ張りな性格がそれを妨げてる。だから鍵がかかってる」
「意地っ張りで見栄っ張りな妹さんに僕はどう対処すればいいでしょうか?」
「仕方ない。優里の姉歴17年の私がトクベツに教えてあげましょう」明里さんは少しもったいをつけてから、こう提案した。「優里のSNSなんか見ていないってドア越しに言ってあげなさい」
いやいや、とあやうく出かかる。
「さすがに今さらそれは無理がありますって。嘘もいいところじゃないですか」
俺は明里さんが冗談でも言っているのかと思った。しかし彼女は本気も本気だった。
「やっぱり童貞クンね。まだまだ青いわね。君は嘘のつき方を知らない。もちろんそのままなんの捻りもなく言うのはNG。だから、ちょっと気を利かせるの」
「気を利かせる?」
「そう、たとえばこんな風にね――」
♯ ♯ ♯
俺は明里さんに感謝のメッセージを送ると、スマホをしまって立ち上がった。そして彼女の助言を思い浮かべて、口を開いた。
「高瀬、聞いてくれ。俺は高瀬のSNSを見てなんかいない。俺が見ていたのは、アイリっていうどこかの女子高生のSNSだ」
そんなバナナ、と返ってこないのは、ひとまず安堵してよかった。俺は続けた。
「アイリってのは高瀬と真逆の性格なんだ。信じられるか? 『初体験を済ませるのがこの夏の目標』なんてことを平気でSNSに書き込んじゃうんだぞ。おまけに理想のシチュエーションとかまで。使う言葉もけっこう乱暴だし、言いたいことはあけすけに言っちゃうし、とてもじゃないが優等生ともヒロインとも呼べないんだ。でもさ、意地も見栄も張らない自分に正直なそんなアイリが、俺は嫌いじゃないよ」
しばらく待ってみてもドアの向こうから返事はなかった。それでも息づかいの聞こえる位置の変化で、高瀬が立ち上がったことはわかった。さすが高瀬の姉歴17年の明里さんだ。もう一押しだ、と俺は確信した。何を言おうかまた明里さんに尋ねようかとも思ったが、俺はスマホに伸ばしかけた手を引っ込めた。
最後くらい自分の言葉で語りかけるべきだ。
「高瀬。今だから打ち明けるけど――打ち明けるのは死ぬほど恥ずかしいけど――俺のこの夏の目標も、実は初体験を済ませることだった。格好つけてそんな素振りは見せなかったけどな、頭の中はそのことでずっといっぱいだった。相手は誰でもいいってわけじゃない。俺は――いや、俺も――初体験の相手は、高瀬がいい」
気が遠くなるほど長い沈黙があった。ドアの向こうの息づかいも聞こえなかった。やがて外で花火の打ち上がる音がした。それは祝砲としてはちょっとだけフライング気味だった。鍵の開く音がして、それから高瀬が姿を現した。
「いいよ」と彼女はしっかりした声で言った。「神沢君。部屋に入って。いいよ、しよう。初体験」
海が割れて、山がそびえた。空が燃えて、俺は勃った。
「今のは俺の聞き間違いじゃないよな?」
高瀬はうつむいてはにかんだ。「こんなセリフ、何度も言わせないで」
俺は半歩進んでようやく部屋に入った。「本当にいいんだな?」
「うん、いいよ」
「相手は俺でいいのか?」
「神沢君じゃなきゃだめなの」と高瀬は言った。「神沢君こそ、本当に私でいいの?」
「いいよ」と俺は言った。「高瀬じゃなきゃだめなんだ」
「わかった、しよう」と高瀬は言った。たしかに言った。そうは言ったものの、半歩後ろに後ずさった。そして胸の前で両手を広げた。「でも、今日はちょっとごめん」
「どうして?」
「今日はもう絶対にないと思ってたから、心の準備ができてないの。だから時間がほしい。もう一度気持ちを作り直すための」
俺は高瀬の服を今すぐ脱がしたい衝動をぐっと抑えた。デキる男にはゆとりがあると偉大なるネット記事に書いてあった。焦りは禁物だ。
「もちろん待つよ」と俺は無害な笑みを顔に貼りつけて言った。「高瀬の心の準備ができるまで、いつまでも待つよ」
「ありがとう」彼女はほっとしたように小さく息を吐いた。「でも、いつまでもってわけにもいかないよね。そうだな、あさってにしよう。終業式の日に」
「この家で過ごす最後の日だな」
「最後の日の夜に」
「最後の日の夜に」
「ごめんね、面倒言って」と高瀬は両手を合わせて言った。「でもわかって。女の子はいろいろあるの」
わかった、というしるしに俺はうなずいた。すると高瀬は唇を拭くような仕草をした。
「キスだけでも、しておく?」
せっかくだが俺は遠慮しておいた。なにしろ海が割れている。山がそびえている。空が燃えている。一度始めたら歯止めが利かなくなるに決まっている。
♯ ♯ ♯
それから俺たちは、いつも通りささやかな夕食をとり、いつも通り別々の部屋で眠り、いつも通り午前7時に起床した。そしていつも通りあくびをしながら高校へ向かった。
校門をくぐると高瀬はきりっと表情を引き締め、優等生の顔になった。
英語の授業ではいつも通り見事なリーディングを披露し、プールの授業ではいつも通り男子どものよこしまな視線を集め、休み時間にはいつも通り友人と冗談を言い合って笑った。
午後の全校集会で彼女は風紀委員として体育館のステージに立った。そして700人弱の生徒に対し委員会を代表して訓辞を述べた。内容は有り体にいえば、一部の不届きな生徒の不純異性交遊を戒めるものだった。
「このところ在校生の不健全な姿がたびたび市民の方々に目撃されています」と彼女は壇上で言葉を選んで言った。「いいですか、みなさん。夏だからといって浮かれてはいけません。伝統ある鳴桜高校の生徒としての自覚をしっかり持ち、高校生という立場をわきまえた分別のある行動をとってください。特に三年生。下級生の模範となるべきみなさんが節度を守れず風紀を乱すのは、とても恥ずかしいことですよ」
品行方正な優等生によるその説得力のある演説は、いつも通り教師連中の拍手を誘い、いつも通り全校生徒の姿勢を正した。何もかもがいつも通りだった。俺が必死で笑うのを堪えていたこと以外は。
一方で初体験をつつがなく遂行するための準備も着実に進んでいった。気の利かない来客に邪魔をされぬよう玄関の呼び出し音を消し、空気の読めない害虫にムードを壊されぬよう家中に殺虫剤を仕掛けた。
そしてチェリーの面倒は、明里さんにみてもらうことにした。
やはり家に犬がいるとどうしても気が散って、できることもできなくなってしまうし、もし事の最中に鳴き声でも聞こえてきたら、うまくいくものもいかなくなってしまう。それにややもすると飼い主が虐められていると勘違いして、俺に襲いかかってくるかもしれない。
事情を説明すると、明里さんは二つ返事でそれを快諾してくれた。お姉さんとしても妹に一日でも早く処女を卒業してほしいのだ。断る理由はない。そんなわけで俺は、同居生活の終わりを待たずして、一足先にチェリーに別れを告げた。
『チェリーに別れを告げた』
ふと思い立って実際に声に出してみると、それは俺の耳には、なんだか歴史書の一文のように響いた。
♯ ♯ ♯
そのようにして時は慌ただしく過ぎ去り、いよいよその日の朝を迎えた。
7月25日。
三年生の一学期最後の日であり、高瀬との同居生活最後の日であり、童貞最後の日である。俺は明日には大人の男になっている。目を覚ますとファンファーレこそ鳴らなかったが、警報も鳴らなかった。何の変哲もない、夏の朝だった。
俺にはひとつ気がかりなことがあった。
果たして高瀬は、初体験を迎えるにあたって心の準備ができたのだろうか? 女の子はいろいろあるのと彼女は言っていた。このわずか一日半のあいだに、そのいろいろなことを消化できたのだろうか?
しかしもちろん朝食時に顔を会わせるやいなや「今夜だよな? 今夜でいいんだよな?」なんて無粋なことを尋ねるわけにはいかない。でも高瀬の本心は知りたかった。そこで俺は文明の利器を頼った。スマートフォンで“アイリ”のSNSを覗くと、そこは一日半ぶりに動きがあった。
「7月25日。いろいろあったけど、今夜、だーリンと初体験を迎えます。これも応援してくれたみんなのおかげだね。これまでありがとう」
フォロワーたちからは続々励ましの声が届いていた。なかでもひときわ感慨深そうなのは、アイリの姉御的存在だった最古参氏だ。
「ちょっと気が早いけど、まずはおめでとう。いい? 今夜こそ絶対に成功させるんだよ。成功あるのみ。おっとっと。成功と性交をかけているわけじゃないよ」
「わかってるって」とアイリは笑顔つきで返した。「成功させるために、最後のアドバイスをもらってもいいかな?」
「もちろん」と最古参氏は請け合った。「するなら彼の部屋がいい。だーリンさん、繊細そうだから、彼が勝手知ったる場所の方がうまくいくよ。そして電気はつけた方がいい。だーリンさん、不器用そうだから、暗いと何かと手間取るよ」
「勉強になる」とアイリは返した。
「それから」と最古参氏は続けた。「どうしてもうまくいくかどうか不安なら、最後はもう神頼み。縁起物を家の前に置きなさい。エンギモノ。ちなみに私も女子高生だけど、福助人形とだるまを置いてコトに臨んだら、なんの邪魔も入らず、最高の初体験になったぜ」
「エンギモノだね。わかった!」
「幸運を祈る!」
福助人形とだるま? と俺は思った。最古参氏はいくぶん変わり者のようだ。アカウント名をあらためて見てみると、「オーイシクラノスケ」とあった。忠臣蔵で有名な、赤穂藩士のあの大石内蔵助のことだろう。
年頃の女子が大石内蔵助? と俺は思った。やはり最古参氏は変わり者のようだ。
なにはともあれ、高瀬の心の準備ができたことはわかった。それがわかれば十分だ。今夜、俺は、チェリーに別れを告げる。
海が割れて、山がそびえた。空が燃えて、道が開けた。
あとは脇目もふらず、この道をひたすら前に進むだけだ。




