第95話 君は嘘のつき方を知らない 1
高瀬とひとつ屋根の下で暮らす最後の三日間が始まった。
この同居生活が永遠に続くと思っていたほど俺は脳天気じゃないけれど、それにしたってまさか、三日後に終わりを迎えることになるとはさすがに思わなかった。
母・有希子に別れを告げるという高瀬父の覚悟はどうやら本物のようだし、俺は大願成就のため、この三日間の予定を大幅に変更する必要があった。
釧路の親戚が死んだと嘘をついて学校の委員会を別の生徒に代わってもらい、佐世保の親戚が死んだと嘘をついて進路面談を先延ばしにしてもらい、ロッテルダムの親戚が死んだと嘘をついて居酒屋のバイトを休ませてもらった。
一秒でも多く高瀬と共に過ごす時間を増やして、一度でも多く初体験に持ち込む機会を増やそうという作戦だ。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるともいう。
あまり健全とはいえない目的のためにあまり上品とはいえない嘘をつくのは気がとがめるけれど、限られた時間で目的を達するためには綺麗事ばかりも言っていられない。いざとなれば南極の親戚にも死んでもらわなきゃいけない。
さいわいこれ以上嘘を重ねずに済んで学校から高瀬と一緒に帰宅すると、彼女は目をこすってあくびをした。そして自分の部屋で昼寝がしたいと言い出した。どうぞどうぞと俺は嫌な顔ひとつせず答えた。
嘘をついてまで生み出した時間が減るにも関わらず、俺がそんな反応をした理由はただひとつ。
彼女も嘘をついていることがわかっていたからだ。
高瀬は眠くなんかなかった。悪と戦うヒーローには変身の決まり文句があるように、「昼寝がしたい」は彼女がもう一人の自分に変身する時の常套句だった。
なぜ変身する必要があるかといえば、俺には言えない本音をSNSで吐き出すために他ならない。“アイリ”というのが高瀬の持つもう一つの名前だった。
彼女がこそこそと部屋に戻ったのを見届けると、俺はいそいそと隣の自室へ入った。そしてスマホからSNSを開き、その時を待った。
案の定五分もしないうちに、アイリのアカウントに動きがあった。決して腹のうちを明かさない高瀬が果たしてこの三日間をどう捉えているのか。それをあらかじめ把握できれば、目的はより果たしやすくなる。
「だーリンの家に住むのもあと三日だけになっちゃった! 急すぎるって!」
同感だぜアイリ、と俺は壁を見てつぶやいた。
「私が家出していたのはうちの家族問題が原因だから、それが解決して実家に帰れるのは本当はうれしいことなんだけど、なんかフクザツ……」
同情するぜアイリ、と俺はささやいた。
「だーリンと一緒の時間を作るために、親戚をいっぱい殺しちゃった。小樽のおばさん、浜松のおじさん。元気なのにごめんね!」
同罪だなアイリ、と俺は独りごちた。
しばらくそんな風に当たりさわりのない近況報告が続いた。やがて最古参のフォロワーがアイリに質問を投げかけた。
「なんだか予定が変わったみたいだけど、この夏に処女を卒業するっていう目標に変わりはないの?」
はからずもそれは、俺が最も気になっていたことだった。
果たしてアイリは「変わらないよ」と答えた。「この三日間が終われば夏休みに入るから、だーリンとそんなに会えなくなっちゃう。だから今日明日あさってがとても大事!」
その投稿を見て俺は安堵した。知りたい情報を引き出した最古参氏には菓子折りの一つでも持っていきたいくらいだった。最古参氏はアイリにこう返信した。
「それならSNSなんかやってないで、どうすれば目標を達成できるか考えなきゃ!」
「それが思いつかないから、SNSをやってるんだって」アイリは苦笑いの絵文字を添えて、そう語る。「みんな、知恵を貸してよ」
さっそく他のフォロワーが発言した。
「だーリンさんが鈍いから悪いんだよねぇ。そんな男さっさと見限っちゃって、他の男を探せば?」
余計な入れ知恵するな、とあやうく叫びかけた俺をなだめたのは、アイリの投稿だ。
「だめだめだめ! それだけはだめ。初体験できれば相手は誰でもいいわけじゃないから! 初めての人は、だーリンって決めてるんだから!」
「だーリンさんにはもったいない人だね」
「ほんと、それ」
新参のフォロワーどもは盛り上がる。
やかましい、と俺は言った。
「それじゃこういうのはどう?」ほどなく最古参氏が提案した。「もういっそ、あれこれ難しいことは考えないで、だーリンに正直に伝えるの。ねぇだーリン、エッチしよって」
「それができたら苦労しないって」とアイリはすかさず返した。「もしそんなこと言ったりなんかしたら、だーリンが私に抱いてるイメージを壊しちゃう」
「イメージ?」
「真面目で清楚で無垢でお淑やか。だーリンの中の私は、言うなれば何かの物語の王道ヒロインなの」
「本当のアイリさんは?」
「本当の私は」アイリはそこでしばし間を置いた。隣の部屋から自嘲する声が聞こえた気がした。「本当の私は、そんなに立派じゃないよ。いけないことだっていっぱい想像する、普通の女の子だよ」
♯ ♯ ♯
古いフォロワーからも新しいフォロワーからもこれといった名案はなかなか出なかった。俺はアイリと彼らのやりとりを石像のように固まって注視していた。やがてアイリは「不安なことがあって」と切り出した。
「私がSNSでこうして本音を漏らしていること、だーリンにバレてるかもしれないの」
「なんでそう思うの?」と最古参氏が尋ねた。
「前に理想の初体験のシチュエーションをここに投稿したでしょ? そしたらだーリン、その直後にそのままの行動をとってきたの。まるでその投稿文を読んで暗記していたみたいに」
「今この時もだーリン、アイリさんのSNSを隣の部屋で見てたりして。石像みたいに固まって」
俺は最古参氏の投稿に驚いて思わずスマホを放り投げた。そしてそんなことをしても意味はないのに、慌てて教科書のめくる音や鉛筆を削る音を立てた。それから遠目でおそるおそるスマホを見た。
「やめてよ」とアイリは返していた。「もしだーリンに今までの書き込みを見られてたら、もう一生顔を合わせられない」
♯ ♯ ♯
高瀬が昼寝を終えて部屋から出てきたのは、俺が彼女に対する接し方を大いに反省した三十分後のことだ。
夕方になって外の暑さもだいぶやわらいできたので、俺たちはチェリーの散歩に出かけることにした。
右も左もわからない土地に連れてこられてはじめは戸惑っていたボーダーコリーも、今じゃすっかり道に詳しくなって、逆に俺たちを先導するくらいだった。
チェリーは今日も軽快な足取りで進んでいたのだが、何を思ったかふいにリードの先で立ち止まった。そしてその場におすわりした。するとその直後、夕方五時を知らせる市の時報チャイムが鳴り渡った。それに呼応するようにチェリーは遠吠えした。俺がきょとんとしていると、高瀬が口を開いた。
「儀式みたいなものなの。散歩中に五時になると、必ずこうなるんだ」
「すごいな」と俺は感心して言った。「立ち止まるのとチャイムが鳴るの、ほとんど同時だったぞ」
「すごいでしょ」と高瀬はうれしそうに言った。「チェリーにはね、子犬の頃から時間を察知する能力があるの」
「時の番人だ」
「それを言うなら、時の番犬でしょ?」
そんな風に俺たちはたわいない話をしながら夏の夕方の街を歩き続けた。四十分ほど歩いて家が見えてきたところで、高瀬の両親の話題になった。
「いろいろあったけど良かったよな」と俺は言った。「直行さんが改心して、高瀬家が一家離散せずに済んで」
「おかげさまで」と高瀬家の次女は言った。そしてリードを俺に手渡して、スマホを確認した。「お母さんもほっとしてる。『悠介君には感謝してもしきれない』だそうです」
俺は首を振って謙遜した。
「そういえばびっくりしたんだけど、お母さん、お父さんが帰ってきたら、もう一人子どもをつくる気でいるみたい」
「えぇ!?」俺も素直にびっくりした。「直行さんと仲直りの証ってことか?」
「それもあるだろうけど、ほら、半年後に私が高校を卒業すると、お母さんは急に手持ち無沙汰になっちゃうでしょう? お弁当作りもPTA活動もママ友付き合いもなくなっちゃう。何もすることがなくなって、急に老け込むのが嫌なんじゃない?」
「本気なんだ?」
「名前をどうしようか考えてるくらいだから、本気だよね」そこで高瀬はスマホを見て、くすっと笑った。「神沢君。お母さんから名付け親になってって言われてるよ」
俺は首を振って遠慮した。
「遠慮することないのに」高瀬は面白がる。「だってもし本当に赤ちゃんができたら、仲直りさせた神沢君の功績でしょう? ねぇ、コウノトリさん。ちょっと考えてみてよ」
そう言われると、悪い気はしなかった。「男の子か女の子かにもよるよな?」
「きっと女の子だよ。うちは女の子家系だから」
「たしか高瀬家の女の子は名前の最後に『り』がつくんだよな?」
「そうそう。お母さんは汐里。姉は明里。私は優里。そしてこの子はチェリー」
「OK。女の子だと仮定して考えてみる」
俺は実際に考えてみた。かなり真剣に考えてみた。そのうち心地よい風が全身を優しく撫でるように吹き付けてきて、ほんの一瞬だけ気がゆるんだ。そこで俺は良い名前を思いついた。これは良い名前だ。気づけば勝手に口が動いていた。
「アイリってのはどうだろう? そうだな。アイは愛するの愛で、リはもちろん――」
風はとっくにやんでいた。
俺が重大な過ちに気づいて固まるよりも先に、高瀬が固まった。見れば彼女の顔は、まるで小学生が作った節分のお面みたいに真っ赤に染まっていた。
アイリって今言ったのは誰だ! と俺がわけのわからんことを口走ったところで、高瀬は一人で駆け出し、家に入ってしまった。
立ち尽くす俺を「バカな男だ」と言いたそうな目で見上げていたのは、チェリーだ。俺はしゃがんで、わらにもすがる思いでチェリーの頭を撫でた。
「なぁおまえ、時の番犬なんだろう? 一分でいいから、時間を戻すことはできないかな?」




