第93話 良いニュースは遅れてやってくる 3
「このセクシー涼ちゃんに女らしさを感じないだと!?」
丸目守にデートのセッティングを頼まれた俺は、翌日さっそく月島に会いに行った。事情を話すやいなや彼女はここが校内であることを忘れて気色ばんだ。
「私から女らしさを感じないって抜かすのはどこのすっとこどっこいだ! 今からその節穴野郎をここに連れてきやがれ。私の色気で悩殺してやるっちゅうねん!」
「落ち着けって!」俺は制服を脱ごうとする月島をなだめた。「マルメは何もおまえに色気がないとは言ってないんだよ。あくまでもおまえの魅力は“人間性”だって言いたいんだよ。一言も貶したりなんかしていない。だから落ち着けって」
「まったくもって納得いかん」月島は腕を組み、鼻を膨らませる。「だってそうだろう? 私の人間性に惚れたと言うが、そのファッキンボーイはつい三ヶ月間に入学してきたばかりじゃないか。そんな一年坊主に私の何がわかるってんだ!」
「わかる奴にはわかるんじゃねぇの?」俺にはマルメが適当なことを言っているとは思えなかった。「実際おまえは良い奴だし、人間性は言動や雰囲気に滲み出るとよく言うし。おまえの人の良さは隠しきれないんだろ」
「ば、ばか野郎」月島はかいてもいない汗を拭う仕草をする。「私が『いいひと』だと思ったら大間違いだ。小さい子どもの前でこれ見よがしにお菓子を箱買いしちゃうし、行きつけの美容室のオウムに卑猥な言葉を教え込んじゃうし、全校生徒が必死にドミノを並べている中こっそり位牌を置いちゃうし。そんな私のどこが善人だと言うのだね? そう、私は極悪人間なのさっ」
はいはい、と俺はその戯言を聞き流した。今日も調子が良さそうでなによりだ。
「とにかくだな、マルメだかスルメだか知らんが、お姉さんはちょっと前までオムツを着けていたガキんちょなんかとは付き合えないよ。わかった? はいは?」
はいわかりましたと簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
「言っておくが、マルメはおまえが思ってるほどガキじゃないぞ。言葉づかいはしっかりしているし、礼儀もわきまえているし、空気も読める。少なくとも俺が一年生の頃よりはよっぽどあいつの方が大人だ。だから――」
「うるさーい!」月島は実力行使で俺の口を塞いだ。「マルメがどういう男かなんてどうでもいいの。マルメがどんなに大人でもイケメンでも金持ちでも興味ないから。だって私が好きなのはキミなんだからね。好きになっちゃったのは大人でもないイケメンでもない金持ちでもないキミなんだからね。今更言うまでもないと思うが、私の望む未来は実家のせんべい屋をキミと二人で切り盛りすることなんだ。そのうえ私はキミ以外の男にはたとえ家族でも触れられないっていう厄介なハンディキャップまで背負ってる。なぁ神沢。そんな私がいったいどうしたら、他の男に興味を持つというんだね?」
ここまで言わせんな、と最後につぶやいて彼女は俺の肩に軽くパンチした。パンチこそ想定外だったが、それまでの反応はおおむね織り込み済みだった。だから俺は満を持して準備していたセリフを口にした。
「いいか、月島。よく聞けよ。もし俺があの名物じいさんから“月島庵”を継いでせっせとせんべいを焼いたとしても、接客するおまえのハンディキャップをどうにかしないと、商売あがったりなんじゃないか? 月島庵は男子禁制じゃないだろう? 男の客に商品を渡す時はどうする? 釣り銭を返す時は? 江戸時代から続いてきた月島庵がこれから先の時代も繁盛を続けるためにも、俺以外の男にもちょっとは慣れる必要があると思うけどな」
それを聞くと月島はしばし押し黙った。やがてまるで鉄壁のアリバイを崩された未亡人みたいに自嘲的な笑みを浮かべた。
「神沢のくせに真っ当なこと言うじゃないか。耳が痛いが、たしかにキミの言うとおりなんだよ。もういい加減、私は男嫌いを克服しなきゃいけないんだよ。だってもう高3の夏だぜ? いつまで過去を引きずってんだって話だ。どんな未来に進むにしても、この恐怖症が足枷になっちまう。私がのびのび生きようと思えば、海女さんかアマゾネスの世界にでも飛び込むしかない。しかしあいにく私は素潜りにも肉弾戦にもそれほど興味が持てないものでね。あはは。いやはや、実に困った」
そこで廊下の向こうから何かがこちらに転がってきた。それはピンポン玉だった。月島はかがんでそれを拾い上げた。遅れて卓球部の生徒が小走りでやってきた。月島は振り返ってピンポン玉を返そうとした。しかしその生徒が男子だとわかると反射的に固まった。そしてぎこちない動きで玉を俺に手渡した。俺はそれを生徒に手渡した。彼は見てはいけない儀式を見てしまったような目をして去っていった。
しばらく気まずい沈黙があった。
「決めた!」と月島は今までにない強い声で宣言した。「私、この夏の間に恐怖症を克服してみせる。このままいつまでも足枷に囚われているわけにはいかん。私は自由に羽ばたくんだい! 自由になった私はキミ以外の男にもバシバシ触れてやるんだ。夏が終わる頃には逆セクハラクイーンとして君臨していたりしてな!」
「極端すぎるんだよな」と一応俺は言っておいた。
彼女は小さく笑った。「冗談はさておき、いいでしょう。デートくらいしてあげましょう。えっとなんて名前だっけ? ヒガシクルメ君だっけ?」
「絶対わざと間違えてるよな?」
「そうそう、クルメ君だ」
「マルメだ」と俺は彼の名誉のために言った。「丸目守。安心しろ。マルメは悪い奴ではないし、それにこいつ自身も異性恐怖症だから、無理におまえと距離を縮めようとしたりはしないはずだ」
「ふむふむ。つまり私はグルメ君をうまく利用すればいいのね。私の恐怖症克服のための練習台だ。いわば?」
「まぁそういことだな、いわば」
月島がマルメと連絡先を交換してやってもいいと言うので、俺は彼から聞いていた情報を彼女に教えた。月島はそれを自分のスマートフォンに登録した。登録し終えても彼女はしばらくスマホをいじり続け、それからどういうわけか眉をひそめた。
「どうしたんだ?」と俺は言った。
「いやね」と彼女は言いにくそうに言った。「今ちょうど東京の実家から知らせがあって、うちのじいさん、入院したんだって。実はここ最近体調があまり良くなくてね。じいさん以外にせんべいを焼ける人はいないから、店も休んでいたんだ」
俺はあの愉快な老人を思い出さずにはいられなかった。アロハシャツを着てカウボーイハットをかぶり、ビートルズの『レット・イット・ビー』を口ずさみながらせんべいを焼く生まれも育ちも墨田区両国のじいさん。
去年の夏に月島家にお世話になった時、あの人は俺を悠介悠介と言ってまるで自分の孫みたいに可愛がってくれた。祖父のいない俺にとって、それはかけがえのない時間だった。
「まずいなぁ」と月島はスマホをしまってつぶやいた。「このままじゃ本当に月島庵がつぶれちまう……。そうだ。いいこと思いついた。マルメと籍だけ入れてさ、東京で働かせるっていうのはどう? それで私は遊びまくるの。これも社会勉強の一環だとかなんとか言って。ヒュー。あぁそうか。そんなことを平気で思いつく私は、やっぱり善人だったんだね!」
「それだけはやめてやれよ」と俺は言った。「おまえはやっぱり極悪人間だよ」




