第93話 良いニュースは遅れてやってくる 2
それを聞いて思わず俺と高瀬は後ずさった。もうちょっとで賽銭箱に背面から突っ込むところだった。神の怒りに触れて神社出禁になる前に俺は言った。
「おまえ、トカイの人間だったのか!?」
彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
「やっぱり、そういうリアクションになっちゃいますよね」
「でもね」と高瀬は手のひらに指で文字を書きながら言った。「あなたの名字はたしか丸目でしょう? 丸目守君。鳥海守君じゃない。本当に慶一郎さんの弟なの?」
「正確には腹違いの弟です」とマルメは言い直した。「古めかしい言い方をすれば、妾腹ということになるでしょうか。出自が出自なので鳥海姓を名乗ることは許されませんでしたが、兄・慶一郎と同じく現社長を父に持つ、れっきとしたトカイ一族の一員です。ちなみに丸目というのは母方の姓です。宮崎県に多い名字です。もっとも母は東京出身ですが。東京の青梅から家出してきた母はこの街で父と出会って僕を産み、五年前に他界しました。数奇な生涯でした」
思うところはいろいろとあったが、俺は冷静に頭で情報を整理した。
「あれ? たしか鳥海慶一郎はもうじき40歳になるおっさんだぞ。でもおまえはまだ高校一年生だ。年齢差は……」
「23歳差です」マルメは言い慣れた口調で答えた。「僕は父が50の時にできた子なんです。父は経営者として優秀な反面、手癖が悪いのが玉にきずでして……。65になった今でも現役なんです。いろんな意味で」
「それはそれは」と俺はつぶやいた。
高瀬は例によってカマトトぶっていた。
「僕としたことが」マルメは本殿を見上げてはっとした。「神前ですべき話ではありませんでした。バチがあたるといけません。移動しましょう。向こうに落ち着いて話せる、いい場所があります。ご案内します。一緒に来てください」
俺と高瀬はマルメの後をついていった。トカイの人間への警戒心もあって、彼のだいぶ後をついていった。野球のマウンドからホームベースくらい距離が広がったところで、高瀬が俺に耳打ちしてきた。
「ねぇ。彼、一年生にしてはやけに大人びてるよね?」
同感だった。「ああ。年下と話してるって感じがしないよな」
高瀬はうなずいた。「どっしりしてるよね。肝が据わっているというか」
俺は前方のほっそりした背中を眺めた。
「ああ見えて、きっとこれまでいくつも修羅場をくぐりぬけているんだ。正妻の子じゃないっていうのは、トカイ一族のなかではあまり良い立場じゃないだろうから」
「なんだか神沢君と気が合いそう」
「どうかな」俺は言葉を濁す。生まれた境遇のせいで決して少なくない苦労をしてきたであろう彼に対し、シンパシーをまったく感じないと言えば、嘘になる。
♯ ♯ ♯
マルメは木立を抜けた先の東屋まで俺たちを案内した。すぐそばには浮き草で緑一色に染まった沼があった。その幻想的な風景は見ているだけで暑さを忘れそうだった。俺と高瀬が東屋の椅子に座ってから、マルメはその向かいに腰を下ろした。
「そろそろ聞かせてくれ」と俺は切り出した。「いったいトカイの人間が俺たちに何の用なんだ?」
マルメは両手を組んで、前傾姿勢をとった。
「他でもありません。高瀬先輩と兄・慶一郎の結婚に関して、僕からお話ししたいことがあります」
俺たちは顔を見合わせた。高瀬の表情は固くこわばっていた。
「その前に、いくつか確認させてください」とマルメは言った。「タカセヤとトカイがパートナー企業となるためのこのたびの婚姻を、神沢先輩は阻止しようと考えている。それに間違いありませんか?」
俺は深くうなずいた。
「高瀬と約束したからな。このくだらん結婚をぶっ壊して、一緒に大学に行くって」
彼は真剣な顔でそれを聞いていた。
俺はひとつの疑問を抱いた。
「ちょっと待て。結婚のことはともかく、俺の考えていることまでどうしておまえが知っているんだ?」
「トカイの持つ力を侮ってはいけませんよ」マルメは忠告するように言う。「とりわけ情報力はね。我々は実にさまざまなことを把握しています。神沢先輩が校則で認められていないアルバイトをしていることから、高瀬先輩に京都で指輪をプレゼントしていることまで。神沢先輩はトカイの中ではちょっとした有名人なんですよ。『我が社に害をなさんとする危険人物がいる』ってね」
それを聞いて俺はたじろいだ。象に踏み潰される蟻をイメージしたところで、マルメは誤解を解くように手を振った。
「安心してください。だからといって危害を加えるような真似はしませんから。たとえば下校中の神沢先輩を黒塗りの車に無理やり押し込んでどこかへ連れ去るとか、そういう手荒なことはね。いくらトカイに力があるとはいえ、そんな犯罪シンジケートみたいなことはおいそれとできませんよ。日本は法治国家なんですから」
このセリフをそのまま汐里さんと明里さんに聞かせてやりたかった。トカイでさえ常識をわきまえてやらないことを、高瀬の母姉は俺に対してやったわけだ。
「話を戻しましょう」とマルメは言った。「神沢先輩はタカセヤとトカイの結婚を本気で阻止しようとしている。それはわかりました。ではそのための妙案は何かおありなんですか?」
「あるさ」とはったりでもいいから言ってやりたかったが、高瀬の手前、根拠のない出任せを口にするのは憚られた。俺がどう答えるべきか迷っていると、その葛藤を察したように、マルメが笑みを浮かべた。
「わかりました、ありがとうございます」
その口ぶりには、先輩の面目をつぶしてはいけないという配慮が感じられた。俺は後輩に恐縮した。マルメはなんでもなさそうにあらためて俺と高瀬の顔を見た。
「前置きが長くなりました。ではそろそろ本題に入りましょう。単刀直入に申し上げます。僕はトカイのある秘密を知っています。社内でもほんの一握りの人間しか知らない、まさにトップシークレットと言ってもいい機密情報です。この情報の扱い方次第ではトカイに打撃を与えることはもちろん、神沢先輩のお言葉を拝借すれば、“くだらん結婚をぶっ壊す”こともあるいは可能です。どうですか? お二人はこの情報を欲しくはありませんか?」
喉から手はさすがに出なかったが、音は出た。いまだかつて聞いたことのない大きな音だった。どでかい唾をのむ音だ。「欲しいよ! 欲しいに決まってるだろ!」
「私はクソみたいな結婚をしなくて済むかもしれないの!?」高瀬はうっかり本性を現す。「そんなすごい情報が本当にあるの!?」
「あります」マルメだけが冷静だった。「トカイの急所となる情報が。ここを突かれればトカイはひとたまりもありません。お二人にとってこの情報は、心強い切り札となるはずです」
俺たちはどちらからともなく立ち上がって、柄にもなくはしゃいだ。互いの手をとって笑った。笑って舞った。舞って踊った。そして回った。回ったのはまずかった。すぐそばに沼があるのを忘れちゃいけなかった。高瀬は石につまずいたはずみで手を離してしまった。すると遠心力によってこちらの体が沼の中へ放り出された。ざぶん。泳げない俺はひどく慌てた。高瀬とマルメに助け出された俺の頭には、浮き草が乗っていた。
「見苦しいところを見せてすまん」草や藻にまみれながらも、俺は先輩として背筋を伸ばした。「でもはしゃぎたくなる俺たちの気持ちもわかってくれ。この結婚に関して俺たちが耳にしてきたのは、これまで二年半のあいだずっと悪いニュースばかりだったんだ。てっきりおまえもその使者だと思っていた。トカイの人間だっていうから。悪い知らせの使者だとばかり。でも伝えられたのは良いニュースだった。それもとびっきりのやつ。そりゃあはしゃぎたくもなる。小躍りしたくもなる。沼にも落ちる。マンガみたいに草が頭に乗る」
マルメは優しく笑った。「得てして、良いニュースは遅れてやってくるものです」
高瀬はハンカチで俺の顔を拭いた。
「それじゃさっそく教えてくれるかな。その切り札になる情報ってのを」
「そういうわけには参りません」彼はそこで初めて俺たちに厳しい顔を見せた。「ここからはトカイの人間としてではなく、丸目守としてお話を続けさせていただきます。この機密情報をお二人にお話しするには、ひとつ条件があります」
「なるほど」と俺は言った。「取引ってわけか」
マルメはうなずいた。そしてどういうわけか頬を染めた。
「実はですね、お二人には、僕の恋を手助けしていただきたいのです」
「恋!」聞き間違いじゃないよね、という顔をしたのは高瀬だ。「コイって、あのコイ?」
丸目守は困惑を浮かべる。「どのコイと混同しているのかはわかりませんが、たぶん先輩が思い浮かべているコイです」
俺も高瀬に負けないくらい驚いていた。「おまえ、恋なんてするのか」
「しますよ! 僕をいったいなんだと思ってるんですか!」
あまりにも物腰が落ち着いているせいで忘れかけていたが、彼も俺たちと同じ高校生だった。仙人かアンドロイドかと思い始めていたのは、内緒にしておく。
「それで、おまえは誰に恋してるんだ?」
マルメはうつむいてひとしきりもじもじした。そして顔を上げた。
「月島先輩です」
「月島!?」俺は耳を疑う。「月島って、あの月島か?」
「どの月島さんと混同しているかはわかりませんが、たぶん先輩が思い浮かべている月島さんです」
高瀬は身を乗り出す。「あなたは、月島涼さんのことが好きなのね?」
「初恋なんです」マルメは鼻を指先でかいた。「なにぶん生まれて初めて誰かのことを好きになってしまったものでして、何をどうすればよいかまったくわからないのです。でももし叶うなら、月島先輩とお付き合いしてみたいです。そこで先輩と親しいお二人にどうにかお力添えをいただきたい。そう思ってこの交渉を持ちかけた次第です」
俺は頭で要点を整理した。
「つまりこういうことか。おまえと月島がうまくいくよう俺と高瀬が取り計らう。それが高瀬の結婚をぶっ壊しうる、トカイの機密情報を俺たちに教える条件だと」
マルメは慎ましくもしっかりうなずいた。
それを受けて俺と高瀬は顔を見合わせた。考えていることはおそらく同じだった。
「でもね丸目君」と高瀬が代表して切り出した。「あなたは知らないかもしれないけれど、月島さんは男性恐怖症なの。それもけっこう深刻な。男の人の手だって触れられないんだよ。そんな月島さんと恋人になるっていうのは、そもそもとても難しいことなんじゃないかな?」
「恐怖症のことは人づてに聞いて知っています」とマルメは言った。「でも、だからこそ、月島先輩と仲良くなりたいんです」
「だからこそ?」俺は首をかしげる。「どういうことだ?」
マルメはやっとこの時が来たという風に、高瀬から離れた。
「実はですね、何を隠そう、僕も異性が苦手なんです。女性恐怖症です」
俺と高瀬はまたしても顔を見合わせた。このペースだと今日中に300回くらい顔を見合わせそうだった。
「女性恐怖症」と俺は言った。
「はい。今からその証拠をご覧にいれます。高瀬先輩。お手数ですが、いかにも女性っぽい発言をしてみてくれませんか?」
「え」突然の注文に高瀬は戸惑う。「お芝居でもいいの?」
「かまいませんよ」
すると高瀬は何を思ったか、目を吊り上げて、俺に詰め寄ってきた。
「他の女なんか見てないで、私のことだけ見ていてよ!」
俺はうろたえた。これは芝居なんだと自分に言い聞かせた。
高瀬はこともなげに表情をリセットした。「丸目君、どうだった?」
完璧です、と答えたマルメの鼻からは、一筋の赤いものが垂れている。
「このようにですね」彼は慣れた様子で血をティッシュで拭い、止血した。「僕は『女性らしさ』を強く感じると、体が拒否反応を示してしまうのです。どういうメカニズムでこういったことが起こるのかはわかりません。でもそれが僕の体なのです。正真正銘の女性恐怖症です」
それを聞いて俺の頭には“女の中の女”が思い浮かんだ。彼女の名を出すとまた高瀬に芝居をされかねないので、マルメに近寄り、そっと耳打ちした。
「三年生に柏木晴香っていう女がいるだろ? それじゃ、たとえば、あいつと会話なんかできないな?」
「むりですむりです!」マルメの声は震える。「あんな女性らしさのかたまりみたいな人、近くにいるだけで僕は出血多量で死んでしまいます!」
柏木おまえ、知らんところで兵器認定されてるよ、と俺は思った。
そこで高瀬は、もっともな疑問を口にした。
「鼻血が出ちゃうほど異性が苦手なのに、月島さんのことは好きなの?」
マルメはうなずいた。「異性として、というよりは、一人の人間として惹かれているんだと思います。月島先輩って、あの可憐な見た目に反して、言動はあまり女性っぽくないじゃないですか。性別を超越しているというか」
「たしかに」と俺は認めた。たしかに月島は性別のみならず、いろんなものを超越している。ある意味では神に近い。
「僕は恐怖症を克服したいと思っています。そしてそれは月島先輩も同じはずです。だからこそ、僕は先輩とお付き合いしたいのです。互いの苦しみがわかる僕らなら、きっとうまくいくはずです。どうかお二人の力を僕にお貸しください」
俺と高瀬はどうすべきか協議した。とはいえ結婚阻止の突破口が見いだせない以上、結論は出ているも同然だった。この話に乗らない手はなかった。トカイの急所となる情報を得られるチャンスなんて、これを逃せば次はなんとか彗星みたいに何百年後になるかもしれない。何百年後には俺たちは生きていない。
「ひとつ気がかりなのは、月島さんの反応だよね」と高瀬は言った。「私たちに丸目君との交際を勧められたら怒るんじゃない? だって月島さんが好きなのは、他でもなく神沢君なんだから」
俺は月島をどう説得しようか頭をめぐらせた。
「大丈夫だ。こういう言い方をすれば月島はヘソを曲げないっていうのが俺の中にある。任せておけ」
「ふーん。中学時代から一緒なだけあって、月島さんの気持ちはよくわかるんだね」
今度は俺が鼻血を出しそうだった。さっさと協議を終えた方がよさそうだった。「いいだろう」と俺はマルメに向き直って言った。「おまえの提案をのもう」
「交渉成立ですね」とマルメは言った。
「でもね丸目君」高瀬は握手しかけた俺たちを制する。「条件付きとはいえ、本当にトカイさんの機密情報を私たちに口外なんかしていいの? あなただってトカイの人間でしょう?」
トカイ社長の血を引く息子でしょう、と俺は内心で続けた。
「いいんです」とマルメは一切の迷いなく答えた。「しょせん社長の愛人の子である僕はありがたいことに、鳥海本家の方々にさんざんかわいがってもらいました。特に社長の正妻――兄・慶一郎の実母には涙が出るほど。はっきり申し上げましょう、僕が女性恐怖症になったのも、この人のせいなんです。僕はすべて覚えています、この人が僕に対してしたことを。僕の母に対してしたことを。母が若くして亡くなったのもこの人の仕打ちのせいと言っても過言じゃありません。これは鳥海本家に対する、僕なりのささやかな復讐でもあるんです」
俺と高瀬は何も言えなかった。
マルメは沈黙を埋めるようにすぐに言葉を継いだ。
「言っておきますけど、個人的な恨みがなくたって、僕はこの結婚に反対でしたよ。一族会議でも何度も反対を主張しました。企業の体制の維持のために愛のない結婚が遂行される。そんなのはコンプライアンスがどうのこうの言うまでもなく間違ったことです。本来結婚とは、愛し合う二人によってなされるもののはずです。そうでしょう? 違いますか? 神社の本殿に向かって何かを祈る神沢先輩と高瀬先輩の後ろ姿、とてもお似合いでしたよ」
そこでマルメの鼻から再び一筋の赤いものが垂れた。
高瀬が今どんな表情をしているか。それは彼女の顔を見なくてもわかった。




