第92話 それはこの惑星で一番難しい問題です 4
高瀬との初体験を想像しながら眠りについたせいで夢精したりしないか心配だったが、それはまったくの杞憂だった。
俺はいつになくぐっすり眠った。そしていつになくすっきり目覚めた。エロティックな夢を見ることもなければ、パンツを汚すこともなかった。時計の針は七時をさしていた。
俺はベッドから降りてカーテンを開け、日曜の朝の日光を全身に浴びた。それからテレビをつけて天気予報を確認した。今日は風もなく穏やかに晴れ、絶好の行楽日和になりそうですと気象予報士は言っていた。今日は絶好の初体験日和になりそうですと俺は思った。
一階に降りてチェリーとひとしきり戯れてから浴室でシャワーを浴び、いつ何があってもいいよう体を隅々まできれいにした。丹念に歯を磨き、入念に全身を洗った。浴室から出てリビングに戻ると、今度は高瀬がチェリーと無邪気に戯れていた。
朝からシャワーなんて珍しいね、と彼女はあくび混じりに言った。
気合を入れようと思って、と俺は言った。
今日はテスト勉強最終日だもんね、と彼女は言った。「私も入れてこようかな、気合」
「それがいい」と俺は言った。「そのあいだに朝メシを作っておく。気合を入れて」
俺と高瀬はきのうと同じように一緒に朝食をとり、きのうと同じように勉強に励むことを決め、きのうと同じようにそれぞれの部屋へ戻った。
もっとも俺はきのうと違って勉強をする気などまったくなかった。明日のテストのことなどもはやどうでもよかった。頭にあるのは初体験のことだけだった。
自室に戻った俺は教科書も問題集もそっちのけでスマホを手にとった。そしてすぐにアイリのSNSを開いた。アイリの正体が高瀬ならば、アイリのSNSを覗くのは高瀬の心の中を盗み見するようなものだ。
なかなか本心を明かさない高瀬が胸の奥では何を求めているのか。それさえわかってしまえば、あとはなんとでもなる。
そういう風に初体験を迎えるのはなんだか反則のような気がしないでもないが、女心に疎い俺が目標を達するためには綺麗事ばかり言ってはいられない。使えるものはなんでも使わなきゃいけない。アイリ(高瀬)は今日も必ずSNSに偽らざる本音を投稿するはずだ。俺はそれを見逃さぬよう、スマホの画面に神経を集中させた。
それから一時間が過ぎて、案の定アイリのSNSが更新された。
「今日もだーリンの家で一緒にテスト勉強だよー」と始まった。「きのうとは違ってだーリンはやけに朝から気合が入ってるご様子。でもその気合はきっと、勉強のためのものなんだろうな……」
断じて違う! と叫びたかったが、一枚壁を隔てた向こうに高瀬がいるのを思い出し、ぐっと堪えた。
「今日はどうしようかな。どうしたらいいか何も思いつかないや。誰かアドバイス求む」
すかさずフォロワーの一人が反応した。「きのうよりもっとキワどい格好で、だーリンさんのベッドに潜るっていうのはどうですか?」
「ないない」とアイリは即答した。「きのうより際どい格好って、もうブラとパンツになるしかないよ? そんなのもう、ただのビッチじゃん」
フォロワーはお辞儀の絵文字で謝った。「だーリンさんは清楚な女子が好きなんですもんね」
「そう。大の清楚好き。だから困ってるの」
ややあって、他のフォロワーがアイリにこんなことを尋ねた。
「だーリンさんの趣向とか性格とかを度外視にすると、どんな状況で初体験を迎えるのが理想なんですか?」
良い質問だ、と俺は思った。アイリはすぐには答えられなかった。頬を染め、誰も見ていないのに口元を隠す高瀬を俺は想像した。
「ふたりで一緒に真面目に勉強していると、何かのきっかけでだーリンに手を握られちゃうの」アイリはしばらくしてそう投稿した。「それでなんだかものすごぉーく甘いムードになって、私たちを祝福するように窓からは暖かい風が吹き込んでくる。その絶妙のタイミングで私は押し倒されちゃう。『ねぇ、こんなのだめだよ』って言うんだけど、そのまま服を脱がされて……って感じ。ちょっと憧れるかな、そういうの。ま、奥手なだーリンには、1000年かかってもムリだけどねっ!」
ムリじゃないっ! と俺はスマホに向かって小声で反論した。そして立ち上がった。ここで立たなきゃ男じゃなかった。アイリの言わば「挑戦状」を一言一句頭にたたき込むと、俺はスマホをベッドに放り投げ、英語の問題集を持って部屋を出た。高瀬は何もわかってない。俺を侮りすぎている。1000年も必要ない。10分もあれば充分だ。
♯ ♯ ♯
15分ほど高瀬の部屋の前で尻込みしてから、覚悟を決めてドアをノックした。英語で教えてほしいところがあるんだ、と俺は言った。隣室の翻訳家志望に英語の教えを乞う。何もおかしいことはない。しごく理にかなっている。きわめて自然な行動だ。
やはり高瀬は怪しむでもなくドアを開け、俺の入室を快諾した。もちろん彼女はブラにパンツという格好じゃなかった。きちんと服を着ていた。涼しげな白のブラウスにデニム風のキュロットスカートという格好だった。
高瀬は俺を部屋に入れると、小さな座卓の前に座るよう言った。俺は指示に従った。一週間前まで無人の空き部屋だった六畳間は、すっかり女子高生の私室へと変貌を遂げていた。針の止まった時計がかかっていた壁には皺ひとつない制服がかかり、カビ臭かった匂いは甘く芳しい匂いによってどこかに追いやられていた。部屋の主はドアを閉めると、俺の隣に腰を下ろした。
「それで、どこがわからないの?」
「えっと、仮定法なんだけど」
「仮定法? 仮定法は今回のテスト範囲じゃないよ?」
「え」声がうわずる。「間違った。不定詞だった」
「間違った? 神沢君、本当にわからないの?」
「わからんわからん。不定詞? なんだそれ。頼むよ将来の翻訳家先生。教えてくれよ」
「しょうがないな」と高瀬はまんざらでもなさそうに言った。「それじゃ、先生と一緒にお勉強しましょうね」
高瀬が内に秘めた願望を叶えるべく、俺は真面目に勉強に励んだ。彼女を押し倒した後でいかに手際よくブラウスを脱がせるか、頭でそのシミュレーションをするくらい真面目だった。
そのまま30分ほど経過したところで、俺はある問題に直面した。アイリの投稿をなぞるなら、次は「何かのきっかけで手を握る」必要があるのだが、なかなかそのチャンスが訪れない。きっかけらしいきっかけが見当たらない。このままでは勉強が終わってしまう。
焦りながらふと視線を高瀬の左手に向けたその時、あるものが目に入って俺ははっとした。それは指輪だった。京都のうらぶれた路地裏で俺が買って彼女に贈った指輪。その安物の指輪はプレゼントした日と同じように、彼女の麗しい薬指で肩身が狭そうに佇んでいた。
どうして今の今まで気づかなかったのだろう? 服を脱がすことばかり考えていたせいだ。きっかけは最初からあったのだ。
俺は思いきって高瀬の左手を握った。彼女は隣で息を呑んだ。
「すまん」俺は手を離す。「あの指輪があったんで、つい」
高瀬は左手を広げて、照れくさそうに微笑んだ。
「普段ひとりで勉強している時は、わりとよくつけてるの。言ってみれば、お守り」
「お守り?」
「ひとりで勉強していると、なにかと不安になるでしょう? でもこの指輪をつけていると、ひとりじゃないって思えて、不安に打ち勝てるの」
「うれしいな。こんな安物をそこまで大事にしてくれて」
「大事にするよ。値段なんか関係ない。女の子にとって指輪って、特別なものなんだから」
そう言って高瀬は赤くなった。
それを聞いて俺は赤くなった。
「似合ってる?」と高瀬は言った。
「とても似合ってる」と俺は言った。
はからずも、甘いムードができあがっていた。それもアイリの望んでいた、ものすごぉーく甘いムードが。これであとは窓から暖かい風が吹き込めば完璧だった。窓は開いている。しかし今日は風がない日だということを俺は朝の天気予報で知っていた。さてどうしよう?
どうしてほしい? とまさか高瀬に聞くわけにはいかない。部屋に一旦戻ってスマホでアイリに聞くわけにもいかない。さてどうしよう?
俺がぐずぐずしていると、そこで信じられないことが起こった。高瀬の髪がふわっと舞った。壁の制服もひらっと揺れた。それは風だった。それも暖かい風。まさに神風だった。絶妙のタイミング、と俺は思った。俺は昨夜見上げた月を思い返した。獣になるなら今だ、と自分に言い聞かせた。俺は高瀬の肩に手をかけ、そのままひと思いに体を押し倒した。
ねぇ、こんなのだめだよ。十中八九、彼女はそう言うはずだった。しかし俺が耳にしたのは、彼女の声じゃなかった。破裂音にも似た高く乾いた音だった。それは耳のすぐ近くで発生していた。遅れて痛みがやってくる。左頬に激痛が走る。高瀬に平手打ちを食らったのだと気がつく。
「なんで!?」と思わず口が動く。
♯ ♯ ♯
獲物を仕留め損ねた獣のように尻尾を巻いて自分の部屋へ戻った俺は、すかさずスマホを手にとった。
高瀬とアイリは同一人物ではなかったのだろうか? ふたりが別人だとしたら、俺はとんでもないことをしてしまったことになる。もしアイリの正体が高瀬ならば、SNSになんらかの動きがあるはずだ。まばたきひとつせず画面を注視していると、ほどなくアイリがわずか六文字の投稿をした。
「やっちゃった」
事後報告ともとれるその投稿を受け、フォロワーたちはにわかに色めきだった。
「そういう意味じゃなくて」アイリはすぐに誤解を解いた。「せっかくだーリンが押し倒してきたっていうのに、私、びっくりしてだーリンを引っぱたいちゃった。それも思いっきり容赦なく。ごめんね、だーリン。痛かったよね……」
痛みも消えるくらい俺はほっと安堵した。
アイリは間を置かず次の投稿をした。
「だーリンから積極的に迫ってくるなんて二度とないかもしれないのに、なにやってんだろう私……。どうしよう。こんなんじゃ、この夏に初体験を済ませられないよ」
そこで一人のフォロワーが、こんな質問をした。
「なんだかアイリさんは初体験を焦っているように思えるんですが、それには何か理由があるんですか?」
それはちょうど俺も気になっていたことだった。アイリはじっくり時間をかけてから回答した。
「今のままだと私は高校卒業後に望まない結婚をしなくちゃいけないの。“初めて”はどうでもいい男に捧げたくないから」
俺は高瀬の薬指の指輪を思い出さずにはいられなかった。アイリの正体が誰であれ、俺は忘れちゃいけない。このまま俺が何も手を打たなければ、高瀬と共に歩む未来は閉ざされるということを。高校卒業はもう8ヶ月後に迫っている。朝から晩まで初体験のことばかり考えている場合ではないのだ。
ただ、それにしても……。
そこでアイリのSNSが更新された。「あーあ。それにしても今日は惜しかったなぁ」
まったく同感だ、アイリ。
それにしても、今日は、惜しかった。




