第92話 それはこの惑星で一番難しい問題です 3
俺は即座に頭を振った。そんなはずはない。他の誰かならともかく、高瀬だけはありえない。今時めずらしく清楚で淑やかで身持ちの固い彼女と、処女卒業がこの夏の目標だとネットで公言する時代の申し子みたいなアイリが同一人物のはずがない。高瀬がアイリのはずがない。これは何かの偶然に違いない。
しかし――。
俺はあらためてスマホの画面に視線を落とした。今日この部屋で実際に起きたこととアイリがSNSに投稿した内容は、見事なまでに一致している。それは認めざるを得ない事実だ。おまけに時間的な辻褄も合う。この符合を果たしてただの偶然で片付けていいのだろうか?
俺はアイリが高瀬なのかどうかたしかめるため、アイリの投稿を過去にさかのぼって一からじっくり精査してみることにした。これまではSNSを毛嫌いしていたせいもあって、それほど真剣に見ていなかったのだ。
アイリのアカウントが開設されたのは、今から八日前だった。奇しくも俺が無理やり高瀬家に連れ去られ、すったもんだの末に高瀬との同居が決まった日である。
「初体験のチャンス到来!?」というのが最初の投稿文だった。「このチャンスをものにしないとね」と続く。
チャンスとは同居のことを言っているのだろうか?
アイリがバージンを捧げようとしている、“だーリン”の記述が初めて出てくるのは、その日の夜の投稿だ。
「だーリンも未経験なんだよなー。未経験同士の初体験って、うまくいくのかなぁ……」
どうやらだーリンは童貞のようだ。俺はどうだ? どうもこうもない。童貞だ。童貞の中の童貞だ。
「できればリードしてほしいけどな……。でもだーリンには荷が重いかな。キスも私からだったし……」
情けない男だ、と偉そうに言えた義理じゃなかった。俺と高瀬のキスも彼女からだった。忘れもしない。修学旅行で行った京都の五条大橋での出来事だ。
アイリの投稿数が増えていくにつれて、フォロワーも増えていった。そのほとんどがアイリに同調・共感するバージンと思しき若い女の子だった。彼女たちもその理由は違えど、初体験をなかなか迎えられないでいた。世の中にはこんなにも処女を卒業したがっている子がいるのかと思って俺はびっくりした。
驚いたのも束の間、あるやりとりが目に留まった。一人のフォロワーがアイリに対し、いくつか質問を投げかけていた。
「だーリンさんは、一言で言うとどんな人ですか?」
「幸薄男子」とアイリは答えた。
「それじゃあ、カッコいいんですか?」
「カッコ良くはないよ」とアイリは答えた。「カッコ悪くもないけど、目つきが悪い」
「性格はどうですか?」
「気難しい。あまのじゃく」
「だーリンさん、良いところ無いんですか(笑)?」
「失礼な。たくさんあるよ、良いところ」
「たとえば?」
「たとえばカワイイところ」とアイリはハートの絵文字つきで答えた。「だーリンはね、童貞だからチェリーって言葉に敏感なの。チェリーって聞くたびビクっとするの。深い意味はないのに。カワイイでしょ? わざとチェリーって言ってだーリンを困らせるの、クセになりそう。こらっ、チェリー!」
「こらっ、チェリー! そんなに焦らないの!」
その声が俺の耳によみがえった。高瀬が飼い犬のチェリーを連れてうちに来た直後、口にしたセリフだ。
俺はいったんスマホを手から離し、ゆっくり息を吸った。そして吐いた。
薄幸で目つきが悪くてあまのじゃくで、チェリーという言葉にいちいち踊らされるほどウブで自分からキスをする勇気もなくて、今日の昼に女子高生が自室のベッドで横になっても手出ししなかった童貞が、果たしてこの地球上に何人いるだろう?
そんな愚かで憐れな男が二人も三人もいるなんて、まずありえなかった。さすれば“だーリン”とは俺のことだと考えるのが自然だろう。そして“アイリ”は高瀬だと考えるのが妥当だろう。
気づけば手のひらはよくわからない汗でぐっしょり濡れていた。俺はその汗を拭って、再度スマホを手にとった。
アイリの正体が高瀬だとすると、ひとつ大きな謎があった。
アイリはこの夏に処女を卒業したいという。だーリンにバージンを捧げたいという。しかし実際の高瀬はといえば、そんな素振りや態度は俺にちっとも見せなかった。初体験について探りを入れてみた時に至っては、「そういうことは結婚するまでしちゃいけないと思うの」なんて答える始末だった。だからこそ俺は、彼女が眠いと言ってベッドに横になっても、本当に眠いのだろうと思ってタオルケットをかけたのだ。
この食い違いはいったいどういうことだ?
その謎の答えは、やはりアイリのSNSを見ればわかった。
俺と高瀬の同居が始まった日、彼女はこんな投稿をしていた。
「女子って大変。カレの前だと清純なふりをしなきゃいけないから。自分から『したい』なんて絶対言えないヨー」
例によって多くのフォロワーから「わかる」という共感の声が挙がっていた。
アイリは続けた。「だーリンは特別きれい好きだからなぁ。そんなだーリンに合わせて私、『結婚するまでそういうことはしちゃいけない』って言っちゃった。そんなこと、本当は思ってないのに」
フォロワーが尋ねた。「だーリンがその言葉を額面通りに受け取ったらどうするんですか?」
「まさか。さすがにそれはないでしょ。いくらなんでもそこまでだーリンは鈍くないって。まさか、ね」
そのまさかだった。だーリンは予想以上に鈍かった。翌日以降、アイリのSNSは心のうちを汲み取ってくれないだーリンへの愚痴や不満であふれるようになる。
たまたま俺がこのアカウントを見つけたのはちょうどこの頃だった。世の中にはどうしようもない男がいるもんだなと悠長に笑っていられた頃だった。
そして迎えた今日、フォロワーの助言もあってアイリはついにみずから動く決意をする。だーリンの好きそうな服に着替え、だーリンのベッドで横になる。夜には目標達成の報告ができている――はずだった。だーリンが察しの良い男なら。
俺はスマホを持ったままベッドから降りると、ひとしきり部屋の中を歩き回った。もはや「アイリ=高瀬説」を否定する材料を探す方が難しかった。
それにしても、とアイリの自己紹介文を読んで思う。〈処女卒業がこの夏の目標〉とある。それにしてもまさか高瀬がこんな願望を胸に秘めていたなんて。
SNSの自分はもう一人の自分。太陽はたしかそう言っていた。現実世界では言えないこともこっちの世界では言えるんだ、と。
高瀬が“アイリ”というアカウント名にした理由も今ならなんとなくわかるような気がする。高瀬家の女はみんな最後に「り」がつくと彼女は言っていた。汐里、明里、優里、チェリー。おそらくそれが無意識に働いて、もう一人の自分にこの名をつけたのだろう。
ユウリとアイリ。YOU&I。
そこで俺ははっとした。スマホに動きがあった。たった今、アイリが最新の投稿をしたようだ。
「明日もしだーリンと何もなかったら、この夏の初体験はあきらめよう。今日はもう寝ます。みんな、おやすみzzz……」
俺はスマホを放り出し、なかば導かれるように窓際に向かった。そしてカーテンを開けて、夜空に浮かぶ月を見上げた。満月だった。どうやら明日は大変な一日になりそうだ。俺は月に向かって吠えたくなる気持ちをなんとか抑えた。
獣になるのは、明日でいい。




