第92話 それはこの惑星で一番難しい問題です 2
二日後の昼休み、教室で柏木や太陽と雑談していると、いつしかSNSの話題になった。
「将来の夢をドラマーから医者にシフトしたのを機に始めたんだが、なかなか楽しいもんだな」そう言って太陽はスマホの画面を見せてきた。「オレ独自の勉強法やリラックス法なんかをちょいちょい発信してる。ほら、受験勉強っつーのは孤独な闘いだろ? だからこうして全国の医学部志望の受験生と交流したり、いろんな情報をシェアしたりして、やる気を保ってるんだ」
半年後には限られた椅子を奪い合うことになる競争相手とよく仲良しごっこができるな。直感的にそう思った俺は、きっと根っからSNSには向いていないのだろう。
見ればどうやら太陽は、この仮想空間では〈SUN太〉と名乗っているようだった。
「SUN太? これがSNS上でのおまえの名前か?」
「ああ。言ってみりゃこいつはもう一人の自分――オレの裏の顔だからな。現実世界だと言いにくいことも割とこっちの世界では吐き出してる。さすがに本名ってわけにはいかねぇよ」
「なるほど。太陽だけにSUN太か」と俺は言った。それからフォロワー数を見て感心した。「すごいな。1000人もいるのか。この高校の全校生徒より多いじゃないか」
太陽はいつになく自慢げに笑みを浮かべた。すると柏木が何を思ったか、鼻を鳴らしてしゃしゃり出てきた。
「1000人くらいで得意にならないでよね」
そうのたまうと彼女は、スマホをやけにもったいぶって俺たちに見せた。
「フォロワー21万人!?」SUN太の唾が飛ぶ。
俺はその数字を見て驚愕した。「21万人って、この街の人口より多いじゃないか!」
「何をやったらこうなる!?」太陽は疑惑の目を向ける。「ヌードか? まさか脱いだか?」
「バカじゃないの! そんなわけないでしょ! だいたいあたしが脱いだら、21万じゃ済まないっての。21億人くらいいくっての!」
不毛なやりとりを尻目に、俺はあらためて柏木のスマホを見てみた。〈ハッピー番長〉というのが彼女のアカウント名だった。
「あたしが発信しているのはね、一言でいえば元気!」とハッピー番長は元気すぎる声で言った。「歌やダンスや時にはおいしい鉄板焼きのやり方なんかを、短い動画にして投稿しているの。なんだかヘイソクカンの漂う嫌な世の中でしょう? だからみんなにちょっとでもハッピーになってもらおうと思ってね」
他の誰かのハッピーのために時間を使うなら自分のハッピーのために時間を使えばいいのに。反射的にそう思った俺は、間違いなくSNSには向いていないのだろう。
太陽は何かを思いついたように膝を叩いた。
「そうだ悠介。おまえさんもSNSを始めてみろよ!」
俺は本能的に首を横に振った。
「話を聞いていて思ったけど、俺はこういうのに向いてないって。だいいち、何を発信するんだよ?」
「そうだなぁ。悠介は不幸に愛された男だから、毎日の不幸体験を発信するってのはどうだ?」
柏木は吹き出す。「面白いね、それ! 7月5日、車に泥をかけられた。今日の俺は不幸だ。7月6日、鳥にフンを落とされた。今日の俺は超不幸だ、ってね」
俺は呆れて突っ込む気にもなれなかった。
♯ ♯ ♯
柏木と太陽に押し切られるかたちで、結局俺はSNSのアカウントを開設する羽目になった。日々の不幸体験に限らず何かを自主的に発信する気など毛頭なかったが、馬鹿ふたりがやれやれうるさいのでやむなく承服した。
アカウント名はどうする、と太陽は聞いてきた。
なんでもいいよ、と俺は投げやりに答えた。
なんでもいいってことはないでしょ、と柏木は諭した。
じゃあこうしたら? と一連のやりとりを立ち聞きしていた女子が面白がって提案した。柏木さんと太陽君が「いっせいのせ」で何かを言う。それを組み合わせた言葉を神沢君のアカウント名にするの。
それでもいいよ、と俺は答えた。いっせいのせで柏木は「絶倫」と言った。太陽は「ボンバー」と言った。二人の良識を信じた俺が一番馬鹿だった。そんなわけで「絶倫ボンバー」というのが恐れ多くも俺の仮想空間上での名前となった。
俺がアカウント開設のあいさつをSNSに投稿すると、太陽が「初体験だな」と茶化してきたけれど、本当に求めていたのはこんな実感のないちゃちな体験じゃなかった。もっとリアルでファンタスティックな体験だった。
それではそのような体験はできそうなのかというと、肝心の同居人は相も変わらず隙らしい隙は見せてくれず、口にする話題も当たり障りのないものばかりで、到底見通しは明るいとは言えなかった。
そして今日も何事もなく夜は更けていき、風呂上がりの高瀬が寝室に戻ったのを見届けると、俺はうなだれて隣の自分の部屋に入った。そしてベッドに潜って気をまぎらわすべく昼間に開設したSNSをスマホで見てみることにした。
手のひらの中の巨大な仮想空間では、実にいろいろな者がいろいろな目的でいろいろな発信をしていた。胡散臭い儲け話を持ちかけるペテン師がいれば、自分が楽園を追放されたサタンだと信じて疑わない堕天使もいた。夫を完全犯罪で殺す方法を質問する女がいれば、上履きの匂いを嗅がせてくれる女子学生を募集する男もいた。
なんだか俺は頭が痛くなってきた。手のひらの中に魑魅魍魎がうごめく魔境があるように思えて仕方なかった。やはりSNSには向いていないのだ。それでも怖い物見たさも手伝って魔境を覗き見していると、そのうちあるひとつのアカウントが目に留まった。
それはとある女子高生のアカウントだった。彼女は処女で、初体験を済ませることをこの夏の目標にしていた。彼女にはバージンを捧げると決めている相手(彼女の呼び名を借りれば“だーリン”)がいるのだが、あいにくそのだーリンは女心のわからない野暮な男で、処女を卒業したいという彼女の気持ちをまったく察してくれないらしかった。彼女はそんな鈍いだーリンに対する愚痴や不満をSNS上にぶちまけていた。
“アイリ”というのがその子のアカウント名だった。
俺はいつしかアイリに親近感を覚えていた。性別は違えど、同じ季節に同じ目標を掲げる言わば同志だ。焦りやもどかしさはよくわかった。愚痴をこぼしたい気持ちもよくわかった。
それにしてもアイリの心中を汲み取ってやれないとは、だーリンとやらは情けない男だ。世の中にはこんなどうしようもない奴もいるのだ。いったいどこのどいつだろう? 俺は素直にアイリを応援したくなってきた。なにか個人的なメッセージを送ろうかと思って指を動かしはじめたが、自分のアカウント名を思い出し、打ち込んでいた文字を消した。
「絶倫ボンバー」なんて奴から唐突にメッセージを寄越されて、いったいどこの女子高生が喜ぶというのだ? 何か魂胆があるんじゃないかと勘繰られるのがオチだ。見れば自己紹介欄には「出会いは求めていません」ときっぱり書いてある。下手すりゃ通報されるかもしれない。
俺は名付け親の「ハッピー番長」と「SUN太」に恨み言を送りつけてから、目を閉じ眠りについた。
♯ ♯ ♯
もし日記をつけていれば二行半で終わるとりとめのない日々はそれからも続き、高瀬との同居生活が始まって最初の休日を迎えた。窓から吹き込む風が心地良い夏の土曜日だった。こんな日は弁当でも持ってどこかへ出かけたくもなるが、あいにく今はテスト期間の真っ最中で、家に閉じこもる以外の選択肢は我々にはなかった。
実際どちらが言い出すでもなく、俺は俺の部屋で、高瀬は高瀬の部屋で勉強に打ち込むことになった。朝食を終えるとさっそく俺たちはそれぞれの部屋へ戻った。見ればチェリーはリビングの窓辺で気持ちよさそうに眠っていた。期末テストのない犬が羨ましかった。
部屋のドアがノックされたのは、気温の上昇に反比例して集中力が落ちてきた午前11時のことだった。俺は鉛筆を置いてドアを開けた。侵入者でもいない限りノックできたのは一人しかいないわけだが、果たしてそこには高瀬がいた。彼女は数学Ⅲの教科書を持っていた。
「どうしても教えてほしいところがあって。邪魔かな?」
「とんでもない」俺は手を振った。「ちょうど一休みしようと思っていたところだ」
「それはよかった」
「さぁ、入って」
高瀬は部屋の中央の丸テーブルへ向かい、6時の方向に腰を下ろした。俺は教えやすいように3時の方向に座った。
「それで、どこがわからないの?」
「いくつかあってね……」
俺を悩ませたのは、二次曲線でも極方程式でもなく、高瀬の身なりだった。上下そろいのスウェットを着ていた朝食時とは打って変わって、彼女はノースリーブのシャツと丈の短いスカートを身につけていた。ラケットを持たせたらテニス選手に見えたに違いなかった。こともあろうにそれは俺の最も好きな格好のひとつだった。見ちゃいけないと思いつつ、どうしても二の腕や内ももに視線が向いてしまう。学校では制服に隠れてなかなかお目にかかれない場所だ。
涼しい格好で勉強したいという気持ちはよくわかる。真夏だから。しかしそれにしても、男の部屋に来るにしては、あまりにも無防備過ぎやしないだろうか?
「そういうことかぁ」問題を解いた高瀬は、会心の笑みを浮かべた。「神沢君、教え方上手」
「いやいや」俺は謙遜する。「高瀬の理解が早いんだよ」
「ついでだから、他のところも教えてもらっていい、センセイ?」
「俺でよければ」教科書より素肌を見ているダメ教師でよければ。
それからも目のやり場に困りながら先生をしていると、やがて高瀬にある異変が起きはじめた。うつむいて目を閉じ、何秒か後にはっと顔を上げる。そういうのが何度か続いた。
「眠いのか?」と俺は聞いてみた。
「きのうあまり寝てなくて」
「もしかして、俺のいびきがうるさかった?」
「大丈夫。遅くまで勉強してたの」
俺はほっとした。「ちょっと軽く仮眠でもした方がいいんじゃないかな?」
「そうしようかな」と高瀬はあくび混じりに言った。それから部屋を見渡して、思いがけぬことを口にした。「神沢君のベッド、借りてもいい?」
「はい!?」
「ごめん。限界。ちょっと借りるね」
どぎまぎする俺をよそに、高瀬はのそのそとベッドに上がった。そしてそのままためらうことなく体を横たえてしまった。
おいおいおい、と俺は彼女の後ろ姿を見て思った。いくら眠くて仕方ないからといって、何もそこで寝ることはないだろう? そこがどんな場所かわかっているのか? 俺の汗やら涎やらなんやらが染みついた場所なんだぞ? 隣の部屋に戻れば愛用のベッドがあるだろう? そこで寝ればいいじゃないか。
俺は立ち上がって高瀬の様子をそっとうかがってみた。よっぽど眠たかったのか、早くも寝息らしきものをたてている。髪がはらりとかかった寝顔は、妙に色っぽい。
それにしても今日の高瀬はいったいどうしたというのだろう? 格好が無防備ならば行動まで無防備だ。俺のことを煩悩も何もない聖人君子だと買い被っているのだろうか? あるいは俺には不道徳なことをする度胸がないと高をくくっているのだろうか?
わからない。今に始まったことじゃないが、高瀬の考えていることは本当にわからない。やはりAIの言う通り、彼女の本心はこの惑星一の謎かもしれない。
そこで突然窓から強い風が吹き込み、高瀬のスカートを激しく揺らした。あやうく下着が見えるところだった。反射的に俺は視線を天井へ逸らした。そしてすぐに彼女が寝ていることを思い出し、再度視線を落とした。すでに風はやんでいた。
しかし、と思って俺は唸った。しかしなんてきれいな体なんだろう。出会ったばかりの頃は痩せていてややもすると病弱な印象を受けることもあったが、今はしかるべき場所にしかるべき量の肉がついている。なんというか、ちょうどいい。素肌は雪のように白くて、触れればたちまち溶けてしまいそうだ。
試してみようか、と俺の中で何かがささやいた。気づけば右手は、そのけしからん太ももへ一直線に伸びていた。そこで俺ははっと我に返った。だめだ。絶対にだめだ。もし今高瀬が目覚めたらどうするのだ。咎められるに決まっている。ただでさえ彼女は今父親のせいもあってそういうことにナーバスになっている。最悪の場合、同居解消なんてことにもなりかねない。
俺は伸びていた右手でタオルケットをつかむと、それを高瀬の体にそっとかけた。彼女が夏風邪なんかひいたりしないように。
♯ ♯ ♯
夜も更け、俺はベッドで横になっていた。十時間半のテスト勉強で疲れきった頭は休息を求めていたが、この場所で昼に高瀬が寝たのだと思うと、体が火照ってうまく寝付けなかった。結局高瀬は30分ほどこのベッドで昼寝して、12時過ぎには自分の部屋へ戻っていった。
ベッドに入ってすでに一時間近くが経っていた。俺はついに寝るのを諦めてスマホを手にとった。どうしても気にかかることがあった。
それは言うまでもなく、アイリの動向だ。処女卒業をこの夏の目標に挙げている彼女は、果たしてだーリンとの間に何か進展があっただろうか?
俺はさっそくSNSを開き、アイリの投稿をチェックした。今日のアイリはずいぶん張り切っていた。なんでも彼女の通う高校も今がちょうどテスト期間であるらしく、今日は朝からだーリンの家で一緒に勉強することになったというのだ。それもなんとふたりきりで。シチュエーションとしては申し分ない。
アイリの今日にかける意気込みの強さは、投稿の頻度が物語っていた。午前中だけでその回数は実に21回にのぼっていた。それらを見る限り、どうやって鈍いだーリンをその気にさせるか。そのことしか彼女の頭にはないようだった。勉強のことなんて一言も書かれていなかった。高瀬をちょっとは見習えよ、と思って俺は苦笑した。
アイリが意を決したのは、午前11時少し前のことだ。「がんばるぞ、私!」と10時54分に投稿されていた。どうやら何か名案を思いついたらしい。
がんばれ、アイリ! と俺は心でエールを送った。どこの誰かもわからない女の子を応援している自分が可笑しくなって自嘲しながら画面をスクロールさせた、その時だった。とたんに俺は真顔になった。目を疑った。次のアイリの投稿は、約一時間半後の12時13分だった。
「作戦失敗。だーリンの好きそうな格好をしてだーリンのベッドに横になれば何かあると思ったのに、まさかまさかの何もなし。タッチも何もしてこない。私の気持ちをわかってよ! だーリンの馬鹿!」
馬鹿! と壁の向こうから聞こえた気がして、俺は思わずベッドから飛び起きた。もちろんそれは空耳だった。だーリンの好きそうな格好? だーリンのベッド?
まさかまさか、と思い息を呑む。ひとつの可能性が脳裏をよぎって、俺は無意識に隣の部屋を見る。
まさか、アイリの正体は、壁の向こうの高瀬なのか?




