第92話 それはこの惑星で一番難しい問題です 1
「共同生活を送る上では、ある程度のルールは欠かせないと思うの」
出前でとった寿司をふたりで向かい合ってつまんでいると、高瀬がそう切り出した。こまごました引っ越し作業もあらかた終わり、外はすっかり暗くなっていた。
「ルール」と俺は箸を止めて言った。そしてたしかにと思った。性別も違えば価値観も違う――家柄や家庭環境は大きく違う――そんな別人同士が一つ屋根の下で寝食を共にするのだから、なんでもありというわけにはいかない。「そうだな。それじゃルールを決めようか」
高瀬はうなずいた。それから世にも恐ろしいことを口にした。
「まずは食事のことなんだけどね。私が担当しようと思っているの」
「え」
俺は二の句が継げない。自他共に認める完璧美少女の高瀬がただひとつ苦手なのが、料理だった。ちょっとへたっぴなんていうかわいいレベルじゃなく、彼女は料理だけが絶望的に壊滅的に下手だった。そしてその自覚が本人にないのだから、救いようがなかった。
ただでさえこの夏は精をつけなきゃいけないというのに、およそ料理とも呼べない代物を連日食べさせられるなんて、勘弁だ。
「さては、私の料理のレパートリーが少ないと思ってるんでしょう?」高瀬は問題の本質がわかっていない。「侮らないでほしいな。私には秘密兵器があるんだから」
「秘密兵器?」
彼女は自信たっぷりにうなずくと、スマートフォンを取り出し、何やら話しかけた。すると端末からは、肉じゃがか何かの作り方が聞こえてきた。機械的な声だった。
「人工知能」と高瀬は言った。「AIね。わからないことを質問すれば、たいがいのことは答えてくれるの。便利だよ。なんでも知っているんだから。このAIを味方につければ、毎日おいしいものを作れると思うんだ」
「AIの教えてくれたレシピ通りに作るの?」
「それだとなんだかつまらないから、私なりにアレンジしようと思ってる」
そのアレンジが余計なんだ、と俺は危うく言いかけた。
「そんな、悪いよ」と俺は言葉を選んで口にした。「高瀬は家事なんかしなくていい」
「そういうわけにはいかないよ」あろうことか、彼女は意気込む。「私はお邪魔させてもらってる立場だし、それに神沢君は居酒屋のアルバイトだってあるでしょう? せめて料理くらいさせてよ」
させてたまるか、と俺は思った。
「気持ちはうれしいけど、高瀬家の大事なお嬢さんをそんなメイドみたいに扱うわけにはいかないよ。気にすんな。俺はそもそも料理が苦じゃないし、それにどうしても面倒だって時は、今夜みたいに出前をとればいい。うん、やっぱり寿司はうまい」
高瀬は訝しそうにこちらを見てきた。
「前々から思ってたんだけど、神沢君って私が料理しようとすると、いつもそれらしい理由をつけて止めない?」
俺だけじゃないはずだが。「気のせいだよ、気のせい」
「そう? それならいいんだけど」
結局高瀬は料理の代わりに食器洗いを担当することでけりがつき、俺の舌と胃袋と未来は無事守られた。
高瀬は当座の自分の生活費として、汐里さんから預かっていた封筒入りの現金を俺に渡した。さすが社長一家というべきか、毎日パーティを開いても釣りが来る金額だった。
それからも俺たちは話し合って共同生活に必要なルールを決めていった。
洗濯機は一日おきに使うことを決め、冷蔵庫の中のプリンは勝手に食べないことを決め、トイレットペーパーは使い切ったら補充することを決めた。そして一緒にできることはなるべく一緒にすることを決めた。食事は一緒にとり、買い物も一緒に行き、チェリーの散歩も一緒にすることになった。
この調子で風呂も一緒に入ろうなんてことにならないかな。そんなよこしまな考えに俺が頭を支配されていると、まさか心の声が聞こえたわけじゃないだろうが、高瀬がにわかに表情を曇らせた。そしてこんなことを口にした。
「男の人って、いやらしいことしか頭にないの?」
「ど、どうしたんだよ突然」
「ちょっと昼間のことを思い出しちゃって」高瀬はこめかみを抑えた。「今日の放課後、掃除当番で同じ班になった男子たちが、ずっと卑猥な話をしていたの。もう掃除そっちのけでずーっと。とても私の口からは言えないような話ばかり。たしか『ジミーにできておれたちにできないはずはない』っていう話題から始まった気がする。大西君に何かあったの?」
俺はすぐにピンときて、大西の身に起きた出来事を話した。地味な男を探して街を歩いていた美人さんにその比類なき地味さを見初められ、夢のような初体験をしたのだと。
「そういうことだったの」高瀬は聞かなきゃよかったという顔をした。「だからみんな『ジミーに追いつけ追い越せ』って焦ってたんだ。未体験のままじゃ男として一人前じゃないって。……ねぇ神沢君。神沢君もそういう考えだったりするの?」
「何を言ってるんだ高瀬」と俺は、人畜無害な笑みを顔に貼り付けて言った。「そんなわけないじゃないか。男の価値は性体験の有無でなんか決まらないよ。大西は大西だし、俺は俺だ。俺ならそんなくらだないことを考えて焦る暇があるなら、内面を磨いたり体を鍛えたりスキルアップに励んだりするね」
それは言うまでもなく舌先三寸の空台詞だったが、さいわい高瀬は怪しむでもなくほっと息をついた。
「神沢君が他の男子と同じじゃなくてよかった。男の人って考えてることがみんな一緒なのかと思った」
こりゃ冗談でも「お背中流しましょうか」なんて言えねぇぞ。そう用心すると同時に、ある疑問が湧いてきた。
かくいう高瀬の貞操感は、実際のところ、果たしてどれくらいのものなのだろうか? 彼女には処女を卒業したいという考えはないのだろうか? クラスの女子がひとりひとり初体験を済ましていく中で焦りはないのだろうか?
もちろんそんなことをストレートに質問するわけにはいかないので、俺はそれとなく変化球で探りを入れてみることにした。貞操感も何もない、あの人をボールにして。
「それはそうと、ウワサの明里さんに初めて会ったよ」
「会ってみてお姉ちゃんの印象は?」
「きれいな人なんだな。俺もあんなお姉さんが欲しかった」
「神沢君、もしかしてお姉ちゃんに変な気起こしてないよね?」
「まさか」話がおかしな方に進みかけている。軌道修正。「そういうんじゃなくて、俺は一人っ子だから、単純に年の近いお姉さんがいるのが羨ましいってことさ」
高瀬は手を振った。「姉妹なんていいものじゃないよ。些細なことで喧嘩になるのは日常茶飯事だし」
しめしめと俺は思った。「喧嘩で思い出したけど、そういえば明里さん、愚痴をこぼしてたな。妹がプライベートなことまで口出ししてきて煩わしいって」
高瀬は露骨にムッとした。「そりゃ口出しもするよ。あの人が男にだらしないせいで、妹の私までふしだらだと思われるんだから」
「お姉さんの奔放すぎるところは許せない?」と俺は聞いてみた。
高瀬はうなずいた。そして一拍置いてから、言いにくそうに口を開いた。
「そういうことって、やっぱり結婚するまではしちゃいけないと思うの。古過ぎる考えかもしれないけど。だって男女間の究極の行為じゃない。赤ちゃんができる可能性があるんだよ? それをそんなまるで服を試着するみたいにファッション感覚でするなんて、私には信じられない」
淡い期待を抱いた俺が馬鹿だった。予想していたよりもはるかに高瀬は高い貞操観念をお持ちのようだった。俺は落胆を顔に出さないよう努めた。すると高瀬のスマートフォンが着信を知らせた。
「お父さんからだ」と彼女は画面を見て言った。「仕事から帰ってきたんだ」
「さぞ驚いただろうな」と俺は直行さんの気持ちになって言った。「帰ってみたら家に誰もいないんだから」
「自業自得だよ。頭を冷やしなさい」
娘はすげなく呼び出しを無視する。やがて着信音が鳴り止むと、彼女はぼそっとこうつぶやいた。「お父さんと有希子さん、もうそういう関係になっちゃってるのかな?」
「どうだろうね」としか俺は言えない。
高瀬は顔をしかめて椅子から立ち上がった。
「あぁもうやだやだ。こんなこと考えたくない。お風呂に入ってさっぱり忘れちゃお」
♯ ♯ ♯
風呂を覗いてはいけないというルールも新たに加わり、高瀬との同居生活一日目は終わった。俺は自室のベッドに入ってもなかなか寝付けず、たいした目的もないままスマホをいじっていた。するとそのうちメッセージが届いた。明里さんからだった。
「ヤッホー、大人になれた?」
「大人への階段は険しいようです」と俺は返信した。
「なーんだ。今頃、隣で裸の優里が寝ているかと思ったのに」
「やめてくださいよ。たかぶって眠れなくなります」
「おほほほほ」と返ってきた。画面越しに笑い声が聞こえてきそうだった。「でもまぁ、まだ初日だから。これから何日も一緒にいれば、チャンスはめぐってくるはず!」
「何日あっても難しいと思いますよ」
「どうして?」
「思っていた以上に妹さんのガードが堅いからです」
「そんなに堅い?」
「鉄壁です」と俺は答えた。ファッション感覚のお姉さんとは違います、とはもちろん言えない。「指一本触れようものなら、僕が家から追い出されるような気がします」
「さすがにそれはないでしょう」
「いや、あり得ますよ。それくらい、壁は高いです」
「んんん?」と明里さんは疑問符を大量につけて返してきた。それからしばらく時間を置いて、こんなメッセージを寄越してきた。
「悠介君が優里の本心を読み違えているだけだと思うケドねぇ……」
思いも寄らない指摘に俺は首をかしげた。
「本心を読み違えている? それはどういうことです?」
「ごめん、立て込んできたんで、また今度! 幸運を祈る!」
そこで明里さんからのメッセージはぱったり途絶えた。大人への階段を登っているのかとも思ったが、考えてみればもうすでに明里さんは大人だった。
今夜はもう寝ちまおうとスマホを手放すと、端末から何やら声が聞こえてきた。機械的な声だった。どうやら図らずも例のAIを起動させてしまったらしい。
AIは何か質問をするよう求めていた。なんでも知っているんだから、と高瀬が言っていたのを俺は思い出した。そこで俺は割と真剣にこう質問してみた。
「なぁ、高瀬優里の本心を教えてくれ」
するとAIは時間を置いて、どことなく言いにくそうに返答した。
「それはこの惑星で一番難しい問題です」
俺は思わず笑ってしまった。
違いない。なかなか気の利いたことを言う。
AIなんてどうせろくなもんじゃないだろと偏見を持っていたが、ちょっとだけ見直した。
高瀬の言う通りだ。こいつは本当になんでも知っている。




