第91話 愛し合うことでしか救われない 5
「神沢君のおうちに住む!?」高瀬はソファの上でひっくり返った。「お姉ちゃんこそ何言ってんの! そんな図々しいことできるわけないじゃない! だいいち神沢君が困るでしょう。ねぇ?」
困ることがあるとすれば、食費を切り詰めてまで収集してきた“成人向け映像作品”をすべて処分しなきゃいけないことくらいだった。それと念のため、悪友の太陽が無理やり貸してきた舶来品も返しておいた方がいいだろう。
いずれにせよ、初体験を済ますことをこの夏の最優先課題に掲げている俺にとって、これは願ってもないチャンスだ。この好機を活かさない手はない。俺は高瀬に下心を悟られないよう、さも好青年ぶって口を開いた。
「気にするな、高瀬。元はといえば俺の母親がこの家に迷惑をかけたのが悪いんだ。俺はあの人の息子として、高瀬を受け入れる責任がある。どうか遠慮なくうちに来てほしい」
「そ、そう?」高瀬は体勢を整えた。「神沢君の許可はもらったけど、お母さんはどう?」
「優里がいいなら、いいのよ」と汐里さんはさして迷いもせず答えた。「悠介君は信頼の置けるとってもいい子よ。だって私のことをきれいだって言ってくれたんですもの。魅力的な女性だって。こんなおばさんを褒めてくれる子が、悪い人なわけないわ」
「よっぽど嬉しかったんだね……」明里さんは笑いを堪えてつぶやいた。
高瀬はひとしきり考えた。そして心を決めたようにうなずいた。
「他に行くところもないし、それじゃ神沢君のおうちにお世話になろうかな」
妹に一日でも早く処女を卒業してほしい明里さんは物陰で小さくガッツポーズした。
一日でも早く童貞を卒業したい俺は内心で大きくガッツポーズした。
当の高瀬はといえば、何も気づいていない様子でチョコのたっぷりかかったバナナを咥えていた。俺は何も見なかったフリをした。
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直行さんを一人残して家を空ける計画は、その後も着々と進んでいった。汐里さんは結局実家に身を寄せる運びとなった。直行さんの動向は引き続き探偵に報告させることとなった。作戦決行日は諸々の準備もあるので三日後と決まった。そして離ればなれになってもひとつの“チーム”としてスマートフォンで密に連絡を取り合うことを確認した。
話し合いが一段落ついたところで、ボーダーコリーがどことなく寂しそうに高瀬に近づいた。すると高瀬ははっとして、飼い犬の頭を撫でた。
「いけない。すっかり忘れてた。この子はどうしよう? 家に残しておくわけにはいかないよ。お父さんはドッグフードのある場所もわからないんだから」
「実家へは連れていけないわよ」と汐里さんは言った。「おばあちゃん、動物嫌いだから」
「私もムリ」と三日後からジプシー生活に突入する明里さんは言った。「優里、あんたが連れてってやりなよ。この子はあんたに一番懐いていることだし」
「ごめん神沢君、私のついでにこの子もお世話になっていい?」
ボーダーコリーは雨に打たれた捨て犬のような目で俺を見上げてきた。そんな目で見つめられたら、断るわけにはいかなかった。高瀬と二人きりがいいというのが本音だったが、まぁいい。ワン公一匹増えたくらいで、俺の目論見が台無しにされることはないだろう。
「わかった。せっかくだからおまえもうちに来い」
「だってさ」高瀬は顔をほころばせる。「よかったね、チェリー」
俺がギクッとしたのは、一瞬自分のことかと思ったからだ。なんてことはない。それがこの犬の名前らしい。
「なんでチェリーって名前にしたの?」と俺は汗を拭って尋ねた。
「うちの女はみんな名前の最後に“り”がつくの」と高瀬は涼しげに言った。「お母さんは汐里、お姉ちゃんは明里。そして私は優里。で、この子も女の子だから、せっかくだったら“り”で終わるかわいい名前にしようと思ってチェリー。小学生の頃の私が名付けたの。かわいいでしょ?」
「かわいいねぇ」
「深い意味はないけど、名前がチェリーだと、何か問題でもあるの?」
「いや、別に」俺は苦笑した。チェリーの頭を撫でる。深い意味はない。
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それからの三日間は、高瀬とチェリーを家に迎え入れる準備でてんてこ舞いの忙しさだった。マスターベーションをする暇もなかった。家じゅうの窓という窓を拭き、壁という壁にはたきを振り、床という床に掃除機をかけた。浴槽と便座はどんなに神経質な潔癖症に見せても文句を言われないほど完璧に磨き上げた。
出しっぱなしだったマヨネーズは冷蔵庫に戻し、脱ぎっぱなしだったズボンはアイロンがけしてたたみ、干しっぱなしだったパンツはタンスにしまった。
動きっぱなしだった俺の手が止まったのは、いよいよ例の作品たちを処分するという時だった。俺はひとつひとつの作品を手にとってしみじみ眺めた。決して短くない付き合いだった。決して小さくない思い入れがあった。宝物と呼んでも過言じゃなかった。
なかでも我々脚フェチの間では知らぬ者はいないとされる名作だけは、この期に及んでも捨てがたかった。この一本だけはどこかに隠そうかという考えも頭をよぎった。しかしすぐに俺は首を振った。
あの好奇心旺盛なお嬢様ならば、俺のいない隙に家中を詮索しないとも限らない。もしもこんなマニアックなものが彼女の目に入ったりなんかしたら、叶う願いも叶わなくなる。
童貞卒業というハードな障害物競走を乗り越えるならちょっとでも身軽な方がいい。俺は自分にそう言い聞かせて、なくなく宝物に別れを告げた。
そんなこんなで準備期間の三日間が慌ただしく過ぎ去り、ついに作戦決行当日を迎えた。俺が学校から帰宅すると、汐里さんが手配した引っ越し業者がトラックに乗ってやってきた。彼らは高瀬愛用のベッドやチェアを我が家へ手際よく搬送した。
たまたま二階に空き部屋があったので、高瀬にはそこを寝室として使ってもらうことにした。そして一枚壁を隔てた隣の部屋は、たまたま俺の寝室だった。
風呂上がりの高瀬がたまたま間違えて俺の寝室に入ってくるなんてことがあるかもしれない。真夜中にたまたま雷鳴が轟いて「そっちに行っていい?」なんて壁越しに聞こえてくるかもしれない。
そんな妄想を頭の中で膨らませていると、家のチャイムが鳴った。俺は玄関に向かいドアを開け、今日からの同居人を迎えた。
「あらためて、お世話になります」と高瀬は慇懃に礼をした。
なんだよ水くさい、と返しかけたところで、高瀬の体がよろめいた。見ればリードの先の愛犬が、待ちきれないと言わんばかりに家に上がりたがっていた。すかさず高瀬はこらっと叱った。「こらっ、チェリー、そんなに焦らないの!」
俺はまたしてもギクッとした。深い意味はないと気づくのにやや時間がかかった。高瀬はただ飼い主として愛犬をたしなめていただけだった。俺は靴箱の上のありもしない埃を払うフリして動揺をごまかした。
もう少しの辛抱だ、と俺は汗を拭きながら思った。もう少しでチェリーボーイじゃなくなる。こんなことでいちいちどぎまぎすることもなくなる。
絶対にこの夏のあいだに初体験を済ます!
俺はあらためてその決意を新たにした。外では蝉が鳴き始めていた。
♯ ♯ ♯
それが高校生活最後の夏の始まりだった。
この時点ではまだ悠長にこんな青臭いことも考えていられた。
夏の終わりに自分の未来を大きく左右する出来事が待っているなんて、
この時の俺はまだ知らなかった。




