第91話 愛し合うことでしか救われない 4
父・直行さんの不貞疑惑は家庭内の問題だとして俺抜きで解決をはかりたい高瀬と、俺を味方に引き入れて早急な解決をはかりたい汐里さんとで、意見は真っ向から対立した。どちらも主張を譲らなかった。
壮絶な親子喧嘩の様相を呈しはじめたところで、母親派の明里さんはちゃっかりふたりのそばを離れ、俺の隣へするするとやってきた。そして耳打ちした。
「ねぇ。キミは優里とどこまでいったの?」
「な」俺は舌が回らない。「なんのハナシですか」
「とぼけないでよ。もう高3ならそれなりにやることはやってるんでしょ?」
「やってませんよ!」
「なんだ。なんの話か、わかってんじゃないの」
鎌をかけられたのだと、遅れて気がつく。明里さんの方が一枚上手だった。俺は平然を装った。
「やめてくださいよ。だいたい僕と優里さんは、付き合ってすらいないんですから」
「付き合ってはいないかもしれないけど、キミたちって一緒に大学に行こうって誓い合ってる仲でしょ? そのうえキミは優里に指輪までプレゼントしてる。優里はその指輪を命の次くらいに大事にしてる。ある意味じゃそのへんの恋人より恋人じゃないの。そんな男女がまったく何もないってことは、ないんじゃない?」
「優里さんとは家で普段そういう話はしないんですか?」俺は好奇心も手伝ってそう聞き返した。
「それがね、聞いてもあの子、かたくなに口を割らないの。なにも姉妹間で隠すことないのにね」
「それじゃ僕も口を割りません」
「ふーん」明里さんはわざとらしく語尾をのばす。「あれって私の聞き間違いかな? たしかキミ、うちに上がった直後、何を血迷ったかこんなこと言ってたよね。『すれ違う女性を片っ端からよこしまな目で見ていたのは謝ります』って。そういえば車内でも私やママのことをヤラシイ目で見ていた気がする。優里が知ったらどう思うかな?」
明里さんの方が一枚も二枚も上手だった。俺は観念した。
「わかりましたよ。正直に答えます。えっとですね、その、キ、キスは、しました」
「そう! キスはしたの! でかした、悠介君!」
この人がなぜ盛り上がっているのか、俺にはよくわからなかった。彼女は俺を置き去りにして話し続けた。
「それならもう次のステップに進むだけじゃない。この夏のあいだにさっさと決めちゃいなさいよ。ね? 優里と一緒に大人への階段をのぼっちゃえ。私もできるかぎり後押しするから」
「あの、明里さん。さっきからなんでそんな躍起になってるんですか?」
「だって優里ったら、私がちょっとハメを外しただけで『はしたない』とか『だらしない』とか言っていちいち蔑んでくるのよ? そんなの面白くないし煩わしいからね、さっさとあの子にもバージンを卒業してほしいとずっと思ってたわけ。キミは私の救世主よ。おほほほほ」
俺はいつか高瀬から聞いた明里さんの話を思い出した。姉が奔放な人で困ると貞淑な妹は嘆いていた。“避妊具事件”で高瀬がかんかんに怒っていたのをよく覚えている。
明里さんは色っぽく微笑み、俺の肩に手を乗せた。
「ま、男と女のことでわからないことがあったら、遠慮なく私に聞きなさい。意外かもしれないけど、私、何かと経験豊富だから」
意外でもなんでもないが、俺は黙っていた。
高瀬と汐里さんの言い争いはなおも続いていた。そんな二人を尻目に明里さんは俺の顔をまじまじと見つめると、テーブルの上の写真を手にとった。
「それにしてもキミって、有希子さんに似てるねぇ。特に目元なんかそっくり」
「まぁ、親子ですから」照れ隠しに俺も他の写真を手にとった。直行さんと語り合う母の顔を見るともなく見ていると、そのうちひとつの疑問が浮かんできた。
「男と女のことでわからないことがあるんですが、さっそく聞いてもいいですか?」
「おう、聞きなさい聞きなさい」
「明里さんはさっき、こう言いましたよね? 母はお金目当てで直行さんと会っているんじゃないかって。そこまでは僕も同感なんです。なにしろ大黒柱を亡くしたわけですからね。こう言っちゃアレですが、タカセヤ社長の直行さんは良い金づるだ。でも本当にそれだけなんでしょうか? 直行さんに対する恋愛感情みたいなものは、母にはないんでしょうか?」
「どれどれ。あらためてじっくり見てみようか」
そう言うと明里さんは六枚の写真を入念に観察した。その目は難問を解く高瀬の目によく似ていた。やっぱり姉妹なんだなと俺は思った。やがて明里さんは何かに気づいたように小さく舌を出すと、写真を日付順に並べ直した。
「うちのパパが有希子さんに鼻の下を伸ばしているのは言うまでもないけれど、有希子さんも有希子さんでパパを一人の男として認識しているみたい。よく見てみて。会う回数を重ねるにつれて、有希子さん、次第に女の顔になってるでしょ」
言われてみればたしかに、そんな気がしないでもなかった。俺はあの男が憐れに思えて仕方なかった。母のために全てをなげうった男。母を幸せにできなかったと悔いながら死んでいった男。かつて俺が殺したいほど憎んでいた男。
「つくづくどうしようもない人だ」と俺は、いちばん最近の写真を手にとって言った。「母は何もかもを犠牲にして柏木恭一と富山へ逃げたんですよ? それだけ柏木恭一のことが好きだったってことでしょう? それなのにその男が死んだらたった半年で他の男に乗りかえるなんて、そんなのアリですか? 節操ってもんがなさすぎます」
明里さんは中立的な顔でそれを聞いていた。そして口を開いた。
「有希子さんの肩を持つわけじゃないけどさ――今していることが良いか悪いかは別にして――私個人としてはキミのママの気持ちはわからなくもないかな。有希子さんの心の奥にはきっと、こういう思いがあるんだよ。誰かと愛し合うことでしか救われないって。有希子さんも大人になるまでに、けっこう辛い思いをしてきたそうじゃない? 人は一人じゃ生きられない。今は小さい双子もいつか巣立っていく。誰かに救いを求めたとしても、おかしくない」
「愛し合うことでしか救われない」と俺は繰り返した。「明里さんもそうなんですか?」
明里さんは顔をくしゃくしゃにして大きく手を振った。
「やめてよ。私は愛なんて柄じゃないって。そうねぇ。それで言うなら私は、誰かと抱き合うことでしか救われないかな。なんてね。ああ、ごめん。キミには刺激が強かったかもね」
顔を赤くしている暇は俺にはなかった。気づけば明里さんの妹に名前を繰り返し呼ばれていた。
「ちょっと神沢君。なにさっきからお姉ちゃんとこそこそ話してるの? 私の質問、聞こえてる?」
俺は背筋を伸ばした。「ごめん、質問って?」
「だから、有希子さんのことでこれ以上あれこれ考えるのは嫌だよね、って聞いてるの。遠慮なんかしないで正直に答えていい。神沢君はただでさえ勉強する時間が惜しいってのに、この件に関わってなんかいられないでしょ?」
もうすでにあれこれ考えているし、もうすでに十分関わっていた。そして一旦関わった以上、途中で身を引くつもりはなかった。そんなことをしたらもやもやしてかえって勉強なんか手につかなくなる。
「協力するよ」と俺は苦笑して答えた。「正直あの人にはもううんざりだけど、だからといって高瀬家に迷惑をかけるのを黙って見ているわけにはいかないから」
汐里さんは次女の言葉をさえぎった。「ありがとう、悠介君!」
明里さんは妹の視界をさえぎった。「よく言った! 悠介君!」
高瀬は二人を押し退けて俺の隣に座った。「神沢君、ムリしなくていいんだよ?」
「ムリなんかしてないよ」と俺は言った。「母親が関わっている以上、これは俺の問題でもある。協力させてくれ」
「ごめんね。面倒なことに巻き込んじゃって」
「気にすんな。いつものことだ」本当に、いつものことだ。
「悠介君も仲間に加わったところで、会議再開よ」汐里さんはソファに座り直した。「うちの人と有希子さん。どうすれば二人は会わなくなるのか。みんなで考えましょう」
明里さんは腕を組む。「悠介君の見解では、有希子さんに行動を改めるよう働きかけたとしても、聞く耳を持ってもらえそうにはないんだよね?」
俺は確信をもってうなずいた。
明里さんは続けた。
「ということは、やっぱり、うちのパパの目を覚まさせるしかなさそうね」
高瀬は非合法なポルノでも見るみたいな目で六枚の写真を眺めた。
「お父さん、こういうことをすると私たち家族がどんな思いをするか、わからないかな。いい年して」
「本当よねぇ」汐里さんは涙声だ。「あの人、家族の大切さを忘れちゃったのかしら……」
高瀬は母親の背中を撫でた。
「どうにかしてお父さんに、私たちの大切さを思い知らせてやることはできないかな?」
「大切なものは失ってはじめて気づくとも言うけどな」
俺がなんとなくそう口にした、その直後だった。明里さんが目を見開いて指を鳴らした。「それだ! 悠介君、グッジョブ! キミのおかげで良いこと思いついた! ママ。優里。私たち、思いきってこの家を出ちゃおう。テーブルに六枚の写真だけ残してさ。そうすればパパも自分がいかに愚かなことをしたか痛感して、心を入れかえるんじゃない?」
「それ、いいかも」高瀬はやぶさかではない。「お父さんって一人じゃ何もできないもの。絆創膏のある場所も知らないし、ゴミの出し方もわからない。カップラーメンすらまともに作れないよ、きっと。私たちがいなくなれば、家族のありがたみに気づくと思う」
「たしかにあの人を反省させるには、それくらいの荒療治が必要かもしれないわね」汐里さんもまんざらでもない。「ただ問題は私たちの行き先よね。二人には学校があるからみんなで旅行に行くわけにはいかないし、かといって高齢のおばあちゃんのところに三人で押しかけるわけにもいかないし。どうしようかしら」
明里さんは心配無用という風に手を振った。
「私は大丈夫。なんとでもなるから、なんとでも。泊めてくれる友達ならいくらでもいる」
泊めてくれる男ならいくらでもいる。そう聞こえたのは俺だけではないはずだ。案の定貞淑な妹は眉をひそめた。
「私はそう簡単に行き先が思いつかないな。オトモダチの多いお姉ちゃんとは違って」
明里さんは嫌味に気づいて少しムッとしたものの、すぐに何かを思いついたように手を叩いた。
「何言ってんの優里。あんたにはいい場所があるじゃない。悠介君。あなた、一軒家に一人暮らしなんでしょう? パパが改心するまで、お宅に優里を住まわせてあげてよ」
明里さんは俺に色っぽくウインクしてくる。
〈優里と一緒に大人への階段をのぼっちゃえ。私もできるかぎり後押しするから〉
さっきのその言葉がおのずと頭をよぎった。
これが最初の後押しなんですね、お姉様。




