第89話 奇跡なんて信じてなかった 2
柏木のただ一人の家族が病院に到着したのは、午後1時半のことだった。手術が始まってすでに二時間以上が経過していた。
いずみさんは「鉄板焼かしわ」の店名入りエプロンを腰に巻いたまま現れた。食事中の客をなかば追い出すようにして昼の営業を切りあげてきたであろうことは、聞くまでもなくわかった。
彼女は実の娘同然に育ててきた姪の容態を看護師から聞くと、人目をはばからず泣き崩れた。そして取り乱した。俺と看護師がなんとかなだめたが、それでもまともな会話ができるようになるには、30分近い時間を要した。
「みっともないところを見せちまったね」といずみさんは言って、俺の隣に腰掛けた。「それにしても、やっぱり悠介に病気のことを話しておいて正解だった。発作が起きても適切に対処してくれたようだね」
「この病院でよかったんですよね?」と俺はちょっと不安になって聞いた。
いずみさんはうなずいた。「ここの院長先生、心臓病の治療ではちょっとした名医なんだよ。私のアニキ――晴香の父親――も若い頃からお世話になってた。ま、そんな名医サンでもさすがにアニキの命を救うことはできなかったんだけどね。なにしろ悪い子の発作が――」
そこで彼女ははっと口をつぐんだが、その続きはかんたんに予測できた。
なにしろ悪い子の発作が起きて助かった人はこれまで一人もいないんだから。
事実とはいえ、たしかにそう言ってしまっては身も蓋もなかった。
「まぁとにかく」いずみさんは座り直した。「悠介、今日は何かとご苦労だったね。あとのことは私に任せておきなさい。あんたも受験生なんだから、行きたいところがあるなら行ってかまわないよ」
俺は時計を見た。高瀬と約束した午後1時はとっくに過ぎていた。もう鳴大には彼女の姿はないだろう。
「いいえ、ここにいます」
「なにも私に気兼ねすることはないんだよ?」
「そういうんじゃないです」と俺は気兼ねなく言った。「俺は自分の意思でここに留まると決めたんです。これでも一応、晴香のカレシなんで」
「カレシ?」いずみさんは思い出したように手を叩いた。「ああ、そうだったね。大時計の伝説がどうのこうのであんたたち付き合ってんだよね。あれ? でもたしか、今日の正午で12日間の交際は終わりなんじゃなかった?」
「いずみさん、サッカーは見ます?」
「普段は見ないけど、大きい大会がある時だけファンになるよ」
「サッカーの試合にアディショナルタイムってあるじゃないですか。選手のケガの治療とかで中断したぶんだけ延長する時間。今はあれと同じですよ」
「どういうことだい?」
「俺たちの交際も途中で一度中断してるんです」と俺は言った。「交際6日目。俺はその日模試の結果が悪くて落ち込んでいたんですが、晴香は言ってくれました。獣医の仕事を見学できるよう手を回しておいたから、行っておいでって。あいつは楽しみにしていたデートの予定をつぶしてまで、俺が元気を取り戻せるよう背中を押してくれたんです。そんなわけであの日俺が動物病院に行っていた時間のぶんだけ、交際も延長です」
「なるほどね」
俺は目の端で背後を見やった。
「きっと大時計の神様も延長を認めて、ついてきてくれているはずです。なんせ“大時計の神様”なんですから。そこはサッカーの審判より時間には厳密じゃないと困ります」
「違いない」いずみさんは可笑しそうに小さく笑った。「それにしても、あんたが神様を信じるなんて、なんだか、らしくないね」
「もうこうなったら、俺たちにできることなんて、神頼みくらいしかないでしょう?」
「違いない」
俺は〈手術中〉のランプをまっすぐ見据えた。そして祈った。
大時計の神様。もう俺の一生分の運をここで使い果たしてもいい。だからどうか最後にもう一度だけ奇跡を起こしてくれ――。
♯ ♯ ♯
にわかにあたりが騒がしくなったのは、それから一時間後のことだった。〈手術中〉のランプが消え、ほどなくして一人の看護師が俺たちの元へやってきた。「柏木晴香さんのご家族ですね」と彼女は言った。「院長からお話がありますので、こちらへどうぞ」
いずみさんはすぐには立ち上がることができなかったが、やがて覚悟を決めたように腰を浮かせた。そして何歩か進んだところで、こっちを振り向いた。
「悠介、あんたも来るかい?」
俺はうなずきはしたものの、やはりすぐには立ち上がれなかった。それでも覚悟を決めて彼女の後をついていった。
看護師は我々を診察室に案内すると、院長が来るまで座って待っているよう指示した。俺たちは言われた通り丸椅子に腰を下ろした。ハンカチを持ついずみさんの手は小刻みに震えていた。
うつむいていると涙がこぼれてしまうので俺は顔を上げて診察室の中を意味もなく見渡した。壁の染みも向こう三ヶ月分のカレンダーも古ぼけた血圧計もレントゲンを映すモニタも何もかもが不吉に見えた。やがて奥から不吉な足音がして、手術着姿の男の医師が入ってきた。
第一声はなんだろうか、と俺は思った。連想してしまうのは、やはりどうしても不吉な言葉だった。お気の毒ですが。手は尽くしましたが。そんな台詞は聞きたくなかった。俺はできれば耳を塞ぎたかった。でももちろんそんなわけにはいかない。どんな言葉であろうと、俺はそれを聞かなきゃいけない。
院長はゆっくり椅子に腰を下ろすと、俺たちの目を交互に見て、それからこう言った。
「奇跡が起こりました」
♯ ♯ ♯
【交際13日目】
柏木がベッドの上で麻酔から目を覚ました時、窓の外はすっかり闇に染まっていた。彼女は蛍光灯の光に慣れるようにゆっくり瞼を上げると、俺の顔を見て目をこすった。
「どうして悠介がいるの? もしかして、悠介も死んじゃったの?」
「なにとぼけたこと言ってんだ」俺は思わず吹き出した。「ここはあの世じゃない。病室だ。死んでなんかいねぇよ、おまえも俺も」
柏木は仰向けのまま右手を上げてグーチョキパーを一通り作った。そしてパーの手で俺の頬を撫でた。「本当だ。生きてる。あたしも悠介も」
俺はその手を握った。「ああ、生きてる。おまえは助かったんだよ」
「そういえば、叔母さんは?」と柏木は思い出したように言った。「来てないの?」
「もちろん来たさ」と俺は言った。「いずみさん、手術が成功したって聞いて気が抜けたのか、ぶっ倒れちまった。今は別の部屋で点滴を受けてる」
「手術」と柏木は叔母の身を案じた後でつぶやいた。「でも列車の中で起きたのは、悪い子の発作でしょう? それが起きるともう何をしても助からないはずじゃなかったの?」
俺は院長から受けた説明を思い出して口を開いた。
「執刀した先生も、病院におまえが運ばれてきた時点ではほとんど諦めていたらしい。なんせ相手は一度暴れ出すと手に負えない悪い子だからな。そこで、いちかばちか大きな賭けに出ることにしたそうだ」
「賭け?」
俺はうなずいた。「セオリー通りの手術法じゃ命を救える確率はゼロに等しい。それは過去の実例が物語っている。だから思いきって今まで誰もやったことがない方法を試したっていうんだ。まぁ先生の言葉を借りれば――医者が使うべき言葉じゃないと先生は苦笑していたが――ダメ元ってやつさ。そして先生はそのバクチに勝った」
柏木は俺の手を離して左胸に触れた。グーチョキパーを作るよりよっぽど生きていることを実感できるはずだった。
「先生によれば、手術が成功したのはある人のおかげらしい。誰だと思う?」
「誰だろう?」
「おまえはあまり面白くないかもしれないが、親父さんだよ」と俺は答えた。「『半年前にお父様の手術を担当したのが今回とても活きた』と先生は振り返っていた。父娘だからか、心臓のかたちや状態、そして悪い子が暴れている場所にいたるまで信じられないくらいぴったり同じだったそうだ。先生は半年前の感覚をよく覚えていた。だから新しい方法を試すことだけに集中すればよかった。『なんとか娘だけは助けてやってくれ』。そう聞こえてきたような気さえしたそうだ」
柏木は照れくさそうに小さく笑った。「あのバカ親父、死んでからの方がよっぽど父親らしいことしてる。遅いっての。もう大バカ親父にランクアップだよ」
いつもの調子が戻ってきたな、と思って俺は短く笑った。
「忘れちゃいけないのは、病気が完治したわけじゃないってことだ」俺は自分にも言い聞かせるようにそう続けた。「今回はあくまでも悪い子を一時的に眠らせただけにすぎない。だからまたいつか悪い子が目を覚まして暴れないともかぎらない。その時も同じ方法が通用するとはかぎらない。とはいえ今回の手術の成功で、この難病の解明が飛躍的に進むのは、先生によれば間違いないそうだ。数年後には治療法が確立されるだろうとも話していた。もうこの病気は、不治の病じゃなくなるんだ」
柏木は仰向けのまま、放心したようにじっと天井を見つめていた。しばらくしてぼそっと口を開いた。
「ホントのことを言うとね、あたし、奇跡なんて信じてなかったんだ」
俺はうなずいて無言の相づちを打った。
「だってそれがただの偶然かすごい奇跡かなんて、言ってみれば呼び方の問題じゃない。だから悠介との交際中にどんなことが起きても、ショージキ奇跡だなんて思えなかった。でも今は、奇跡が起きたんだなって素直に思える」
「そうだよ」と俺は彼女に近づいて言った。「先生も興奮して言っていた。『奇跡が起こりました』って。誰も助かったことがない発作が起きても生還したんだ。これは奇跡以外に言いようがない」
「なに言ってんの。あたしが言いたいのはそのことじゃなくて」柏木はベッドの上で体勢を変えると、俺の顔を見た。「あたしが目を覚ましたときに、悠介がそばにいてくれた。そのことの方が、あたしにとっては、よっぽど奇跡」
俺は気づけばベッドの上の柏木の体を抱きしめていた。彼女の心臓は力強くたくましく動いていた。俺はその鼓動の音を自分に刻みつけるように聞いていた。
やがて何かを勘違いした看護師が病室に入ってきて、俺をこっぴどく叱るまで。




