第88話 偽りの恋人にできる、せめてものこと 2
列車は時刻表通りに一分の狂いもなく俺と柏木を温泉街へ送り届けてくれた。
ホテルのチェックインの時間まではまだだいぶ余裕があったので、俺たちは大きい荷物を駅のロッカーに預けてから、しばし温泉街を散策することにした。
柏木は菜の花色のポシェットを肩からかけていた。水色のワンピースも相まってなんだか大きな幼稚園児みたいに見えたが、ヘソを曲げられたら面倒なので俺は黙っていた。何もわざわざ余計なことを言って旅のパートナーを不機嫌にさせることはない。
しかし彼女が不機嫌になりそうだとわかっていても、どうしても切り出さなきゃいけない話題が俺にはあった。硫黄の匂い漂う温泉街をぶらぶら歩き続けてしばらく経ち、会話が途切れたところで俺は声をかけた。
「そういえば、進路はどうすることにしたんだ?」
「シンロ?」と彼女はきょとんとして言った。「なにそれ?」
「進路は進路だよ」と俺は心を鬼にして言った。「進路希望調査票になんて書くか決めたのかって聞いてるんだ」
「旅行中にその話はやめようよ」
「そうはいくか」俺は引かない。「約束したよな? 12日間の交際中に進路を決めるって。交際は明日の正午で終わる。つまりこの旅行中には決めなきゃいけないってことだ。あさっての月曜には調査票を学校に提出することになってるんだし、いい加減本気で考えないと」
案の定柏木は頬を膨らませた。
「はいはい。ホテルについたら、温泉に浸かってじっくり考えますから。どうぞご心配なく」
「どれだけ長湯するつもりか知らんが、10日もあって出せなかった答えがそんな簡単に出せるのかよ」
「答えが出なかったらその時は『悠介のお嫁さん』って書いて学校に提出する」
大きな幼稚園児め、と俺は思った。
「とにかく今は旅を満喫しようよ――と言いたいところだけど」柏木は後ろをちらっと振り返って、ため息をつく。「アレのせいでどうしても気が散るのよねぇ」
月島はお目付役としての責務を果たすべく、温泉街についてからももちろん俺と柏木の後を尾けていた。もっとも尾行していることがバレて開き直ったのか、コソコソ身を隠すことなく公然と公道を闊歩しているが。
俺も後ろを振り返ってみた。月島は夕張メロン味のソフトクリームを食べながら民芸品店の前で土産になりそうなものを物色していた。この旅を一番満喫しているのは彼女のように思えなくもなかった。
「このままじゃダメ!」柏木は隣で頭を振った。「この旅は思いっきり楽しむって決めたんだから、キッパリ切り替えないと。そうだ悠介、ゴハン食べようゴハン。どっかのお店に入ってさ。せっかくだし昼間からお寿司でも食べちゃおう!」
張り切った彼女が俺の手をとった、その直後だった。それはほんの一瞬の出来事だった。スクーターに乗った男が車道からこちらに車体を寄せてきたかと思うと、柏木の肩にかかっていた例の菜の花色のポシェットをかすめ取ったのだ。目にも留まらぬ早業だった。
待ちなさいよ! とすかさず柏木は叫んだけれど、待てと言われて待つ引ったくり犯など世界中どこを探してもいるはずはなく、男も例に漏れずスクーターを急加速させてどこかへ走り去った。
そこで泣き寝入りしたり恋人を頼ったりしないのが柏木晴香という女だった。彼女はためらうことなく履いていたミュールを脱ぐとそれを俺に手渡し、まるで「位置について!」と聞こえたかのようにスタンディングスタートの体勢をとった。
「あたしに喧嘩を売るなんて良い度胸してるじゃない! 取っ捕まえて懲らしめてやる!」
「やめておけ!」と俺は慌てて言った。「相手はバイクだぞ? いくらおまえでも追いつけないって」
「あのポシェットは絶対に取り返さなきゃいけないの!」
「中身はなんだ? 財布やスマホか?」
柏木は首を振った。そしてポケットから財布とスマートフォンを取り出し、俺に見せた。
「それじゃあ、何を入れていたんだ?」
彼女は柄でもなくぽっと頬を赤らめた。
「ちょっと言えない。とにかく、誰かに見られたら恥ずかしいもの」
俺はそれについて考えをめぐらせた。年頃の女の子がカレシとのお泊まり旅行に携行する、第三者に見られたら恥ずかしいもの。心が穢れているのか、どう考えてみてもひとつしか思いつかない。
♯ ♯ ♯
金品が無事だったということだけではなく、このひなびた温泉街に駐在所が置かれていたのも、不幸中の幸いと言ってよかった。俺は今にも駆け出しそうな柏木をなんとかなだめ、足にミュールを履かせてから駐在所へ向かった。そして駐在さんに事情を説明した。
初老の駐在さんは耳が遠い上におそろしく訛りの強い人で、意思疎通にえらく手間取ったけれど、最低限ポシェットの特徴と俺たちが泊まるホテルだけはどうにかわかってもらえたようだった。
そして月島はといえば、向かいの立ち食いそば屋で呑気に天ぷらそばを食っていた。よっぽどついでに駐在所に突き出してやろうかとも思ったが、この駐在さんに一から説明していると日が暮れそうなので結局やめた。
そうこうしているうちにチェックインの時間がやってきた。寿司という気分でもなくなったのでコンビニのおにぎりで軽く腹ごしらえすると、俺たちは駅のロッカーから荷物を回収し、ホテルへ向かった。
なかなか立派な外観のホテルだった。
ロビーも立派なら、従業員の接客態度も立派だった。もちろん月島も立派に後をついてきた。俺と柏木は立派な廊下を進み、立派なエレベーターに乗り、立派な部屋に荷物を置いた。俺が立派な茶菓子に手を伸ばしかけたところで、柏木が口を開いた。
「さ、今度こそ旅のリスタート。今から遊び倒してやるんだから!」
「遊び倒す?」
「プールに決まってるじゃない。列車の中で月島が言ってたでしょ? このホテルには温水プールやウォータースライダーがあるって。さっそく行こうよ!」
まずは温泉に浸かって進路のことを考えるんじゃなかったのか。思わずそう出かかったが、なにかと不幸続きの彼女が不憫なので、黙って従うことにした。
俺たちはロビーまで戻ると、フロントで水着をレンタルして温水プールを目指した。これ以上災難に見舞われたら柏木が完全にふて腐れるであろうことは、これまでの経験則からかんたんに予想がついた。俺はどうか何も起こらないでくれと祈った。でもそれは起こった。脱衣所で水着に着替え、さぁプールに飛び込むぞという時に起こってしまった。
柏木は顔をしかめ胸をおさえると、その場にうずくまった。発作だ、と俺は思った。そして彼女の叔母から聞いた話を思い出した。発作にも二種類あるといずみさんは言っていた。ほとんどは時間が経てば収まる『良い子の発作』だが、もし『悪い子の発作』が起こると命に関わるんだ、と。俺は慌てて声をかけた。
「おい柏木、大丈夫か!?」
彼女は苦笑いを浮かべ、俺の唇までわざわざ指を伸ばして×を書いた。
「また忘れてる。恋人でいるあいだは、晴香って呼ぶ約束でしょ?」
良い子の方の発作、と思って俺はとりあえず安堵した。心臓の病気のことを忘れていたわけではないのだが、旅行中ということもあって油断していたのは否めなかった。
結局俺たちは大事をとってプールで遊ぶのはやめて、部屋に戻ることにした。
♯ ♯ ♯
予想に違わず柏木は拗ねた。拗ねて押し黙ってしまった。海の幸と山の幸がふんだんに使われた立派な夕食を食べても何も喋らないくらい、すっかり拗ねてしまった。
でも俺はそれを責める気にはなれなかった。朝から月島につきまとわれ、ポシェットを引ったくられ、挙げ句の果てには発作のせいでプールはおろか温泉にすら入れない。笑顔でいろという方が無理な話だった。
柏木の次の言葉を聞くことができたのは、夜もすっかり更けた午後10時過ぎのことだ。
彼女は部屋に備え付けの浴室から浴衣姿で出てくると、「つまんない」と一言つぶやいた。そしてタオルで生乾きの髪を掻きむしるように拭いた。「つまんないつまんないつまんない! なんで温泉まで来てシャワーで汗を流さなきゃいけないのよ! お昼ごはんはコンビニおにぎりだし、プールにも入れなかったし、卓球もできなかったし、これじゃ何しに来たかわかんない!」
布団の上でぼんやりテレビを見ていた俺は面食らった。柏木は部屋の中を歩き回りながらフラストレーションをひとしきり吐き出した。やがてその矛先は神様にまで向けられた。
「大時計の伝説なんて嘘なんだ。こういう時こそ奇跡って呼べるようなすごいことを起こしてほしいのに、結局何も起きやしない。ねぇ神様、聞いてる!? 本当にいるんなら、何か起こしてみせてよ!」
沈黙が下りた。10秒経っても何も起きなかった。酔っ払いが廊下を通っただけだった。柏木は布団の上にへたり込むように座った。そして肩を落とした。
「ごめんね悠介、不機嫌になったり取り乱したりして。子どもみたいだね、あたし」
彼女を責められるほど俺も大人じゃなかった。「気にすんな。気持ちはよくわかる」
「なんでよりによってこんな日に発作なんか起きるのよ」彼女は膝を抱えてそうつぶやいた。「この旅行で思い出をいっぱい作ろうと思っていたのに。良い旅行にしようと思っていたのに。全部台無しだよ……」
柏木の大きな瞳には涙が滲んでいるようにも見えた。そんなカノジョを捨て置くのはカレシ失格だということくらいは、大人じゃなくてもわかった。俺は彼女に近寄って、声をかけた。
「なぁ、言っとくけど、まだ旅は終わってなんかいないぞ。たしかにおまえが思い描いていたような旅にはならなかったかもしれないけど、残っている時間をうまく使えば、まだまだ取り返せる。これからの過ごし方次第で良い旅にも悪い旅にもなる。そうだろう? 俺も協力するから、せっかくだし、良い旅にしよう」
「悠介のくせに、ちょっと良いこと言うじゃない」
「くせに、は余計だ」
「それじゃ、お言葉に甘えちゃおっかな」と柏木は目をこすって言った。「実はもう一つだけ『カレシができたらやりたかったこと』が残ってるの。最後の一つ。悠介には、それを叶えてもらおうかな」
「それが叶えば、良い旅になるんだな?」
「最高の旅になる」と柏木は言いきった。そしてテレビの電源を切ると部屋の電気を消した。
浴衣が間近で擦れる音と鼻先に香る甘いシャンプーの匂いで、柏木がぐっと身を寄せてきたのだとわかった。暗闇の中で彼女はそっと体を近づけてきて、こうささやいた。
「ねぇ悠介。あたしの初めての人になって」
俺は平静を保とうと自分に言い聞かせた。しかし体はちっとも言うことを聞いてくれなかった。息づかいは荒くなり、汗は噴き出し、胸は早鐘を打った。体温が1℃ばかり上昇した気さえする。「は、初めての人っていうのは」舌もうまく回らなかった。「どういう人かっていうと、ええと、つまり、そういう人ってことだよな?」
「あたしの処女を奪ってってこと」と柏木は野暮な男でもわかるよう簡潔に言い直した。
「本気で言ってるのか?」
「冗談で言っているように聞こえる?」と彼女は耳元でささやいた。本気で言っているようにしか聞こえなかった。俺は唾を飲み込んだ。
「あたし、このままじゃ死ねない。処女のまま死ぬのだけはいやなの」
「縁起でもないこと、言うなって」
「いつ死んでも不思議じゃないのは事実だもん」と柏木はどこか達観したように言った。「悠介も昼間にあたしの発作を見たでしょう? さっきは『良い子の発作』だったからよかったけど、もし『悪い子の発作』が起きたら助からない。今こうしているあいだにもあたしの中で悪い子が暴れ回る準備をしているかもしれない。あたしは明日死んだっておかしくないの」
柏木は俺の肩に寄りかかるように体を預けてきた。彼女の心臓は一定のリズムを刻んでいた。
「せっかく悠介と恋人同士になれたんだもん、その証みたいなものが欲しいよ。明日でこの関係も終わりなんだし、一生の思い出に……ね?」
俺の理性は全くといっていいほど働かなかった。柏木の願いを聞き入れてはいけない理由なんて何一つないように思えた。頭の中にあるのは彼女とひとつになることだけだった。そのうちこの暗闇にも目が慣れてきた。柏木の浴衣ははだけていて、あろうことか胸の谷間があらわになっている。
もうなるようになれと俺は思った。彼女を押し倒そうと向き直った、その時だった。ぷつっ、という音と共に、消えていたはずのテレビがついた。体勢を変えた際にリモコンの電源ボタンを意図せず押してしまったらしい。
テレビに映ったのは、クラシック番組だった。今夜はエリック・サティ特集ですという司会の言葉の後で、あの曲が流れてきた。『ジュ・トゥ・ヴー』だ。その軽快で優雅なメロディを耳にして、俺ははっと我に返った。すぐさま柏木の体から離れて立ち上がり、部屋の明かりをつけた。
「電気が消えていたあいだのことは、どうか忘れてくれ」
「はぁ?」
「いくらおまえの頼みでも、こればかりはやっぱり聞けない」
柏木は浴衣の乱れを直すと、信じられないという顔でこちらに詰め寄ってきた。
「どうして?」
「忘れてもらっちゃ困る。この交際は誰のために始まった交際だ? 新人賞のことを学校にバラすと脅された高瀬のために始まった交際だ。それなのに高瀬を裏切るような本末転倒な真似をするわけにはいかない」
「はいはいそうですか」と柏木は投げやりに言った。「あたしと一緒にいたって考えているのは優里のことだもんね。女からこんなお願いをするのってすごく勇気がいるのに、そういうのは全然汲み取ってくれないんだもんね。あーあ、断られて恥ずかしい。赤っ恥だよ。悠介の意気地なし。見損なった。最低。悠介は最低のカレシだよ!」
「ちょっと待て」俺はムキになる。「なんでそこまで言われなきゃいけないんだよ。俺はそんなに間違ったことは言ってないだろ。だいたい俺が好きなのは――」
柏木はもう何も聞きたくないという風に頭を振ると、俺の背中を押して部屋の入り口まで追いたてた。「出ていって」
「はぁ?」
「出ていってって言ったら出ていって。どうせあたしのことなんか嫌いなんでしょ!」
「そう思いたきゃ思えばいい」と俺は反射的に言い返した。柏木はそれを聞くと俺を部屋からすげなく締め出した。思い出したようにスリッパを一足外に放り投げたのが、せめてもの優しさだった。
放り出された場所がもし雪山ならば全面的に非を認めて許しを請うところだが、さいわいここは温泉宿なので、そこまで譲歩する必要はなかった。俺は体と心の昂ぶりを鎮めるべく、スリッパを履いて館内を歩き回ることにした。




